「ようやく君を捕まえることができた」
初めて同じベッドで迎えた朝。ペッパーを腕の中に閉じ込めたトニーは、彼女の首筋に赤い印を刻みながら囁いた。
「私はいつもあなたのそばにいたわよ?」
秘書だったんだから…と言いかけたペッパーだが、トニーの言いたいことはそういうことではないようだ。
「君はいつだって手の届かない存在だった。そばにいながら、手に入らない存在だった。だが、今、君は私の腕の中にいる…」
つまり心を手に入れたということだろう。
だが、それはペッパーも同じだった。
そばにいながら、トニーの心を手に入れることはできなかったのだから…。
「私も同じよ。やっとあなたを私だけのものにできたんですもの」
クスクス笑みを浮かべたペッパーは、トニーの胸元に顔を押し付けると、赤い花を散らした。
ふみ のすべての投稿
194. Instrument
「ねぇ、何か弾いて?」
リビングに置かれたグランドピアノの前に座ったトニーは、ペッパーのリクエストに応えるように、鍵盤に指を滑らせた。
心地よいメロディがリビングに響き、ウットリとトニーを眺めていたペッパーは目を閉じた。
こうやって、トニーの奏でる音に耳を傾ける時が好きだ。
彼のピアノの音色は、ペッパーの心を浄化してくれるのだから…。
1曲弾き終わったトニーはペッパーを見つめた。彼女は軽い寝息を立てて眠っていた。
「今日は疲れてたんだな…」
普段なら2曲3曲聞いているうちに眠りにつくのに、それだけ今日は疲労困憊だったのだろう。
ペッパーを起こさないように抱き上げたトニーは、寝室へと向かった。
193. Radio
トニー……トニー……
壊れたラジオのように繰り返し聞こえる名前に、トニーはゆっくりと目を開けた。すると目の前に光の世界が広がっていた。
確か自分は、あのシベリアの地で死んだはずなのに…。
あの時、キャプテン・アメリカは迷うことなく顔に盾を叩きつけた。
骨を叩き割られ、激痛が走った。何度も何度も打ち付けられ、顔面が破壊されていく…。
口の中が血でいっぱいになり、叫び声を上げることすら許されなかった。目の前に盾が迫った次の瞬間、眼球が破裂し飛び出した。そして世界は暗闇に包まれた。
喉を押しつぶされ、息が出来なくなった。
もはや誰だか識別できなくなったトニーを、キャプテンは見下ろした。そして止めというように、思いっきり顔に盾を振り下ろした。
グシャッと嫌な音が響き渡り、脳が飛び散った。盾が突き刺さったままのトニーの身体が痙攣し始めた。それでも助けを乞うように必死でトニーは腕を伸ばした。が、スティーブ・ロジャースはトニーに見向きもせずに立ち去った。
暫くビクビクと身体を震わせていたトニーだが、凍てつく地の果てで、そのまま死を迎えた…。
ボンヤリとあの時のことを思い出したトニーの耳に、どこからともなく声が聞こえて来た。
復讐したいか?
復讐ならしたいと思った。両親を殺された復讐を…。が、復讐しても必ず誰かが傷つくのだ…。もうこれ以上、誰かが傷つくのは嫌だった。
頷きそうになったトニーだが、そう考え直すと首を横に振った。
「復讐はもういい…。今更どうしようもない…。ただ…」
言葉を切ったトニーに、『声』は問いかけた。
何だ?
先を促され、トニーは重い口を開いた。
「気がかりなことが一つある。彼女は…ペッパーは大丈夫かと…」
最後に見たのは彼女の泣き顔。自分たちは距離を置いているのだから、彼女の様子を聞いていいものかトニーは迷ったのだが、彼の葛藤を『声』はお見通しだった。
見てみるか?目を閉じろ…
言われるがままに、トニーは目を閉じた。一瞬暗闇に包まれたが、すぐに明るさを取り戻した。恐る恐る目を開けると、そこは教会だった。
辺りを見渡すと、祭壇の前には沢山の花や在りし日の自分の写真が飾られていた。
(私の葬儀だ…)
アイアンマンが死んだのだから、さぞかし盛大な葬儀になるのだろう。が、式の前夜なのか、教会には棺に寄り添っている人以外、誰もいなかった。
棺に近づきトニーは気付いた。寄り添っていたのはペッパーだった。
ペッパーは肩を震わせていた。
真っ赤に泣き腫らした瞳したペッパーだが、頬に伝わる涙は乾くことがなかった。
棺にすがり付いて泣くペッパーは、何度も何度もトニーの名を呼んでいた。
距離を置いていたはずのペッパーが涙を流してくれている…。自分の死を悲しんでくれている…。それだけで、トニーは十分だった。
が、結局ペッパーに何も遺してやることができなかった。最後に交わした会話も、罵り合うばかりで、感謝の念も愛の囁きも、何も遺してやることが出来なかった。
「トニー……辛かったでしょ…。痛かったでしょ…。苦しかったでしょ…。ごめんなさい…一人にしてごめんなさい…」
棺の中の自分にペッパーは語りかけていた。
ペッパーの背後から棺を覗き込んだトニーは、そこで初めて自分の死に顔を見た。
叩き割られた顔面は見せられない程酷かったはずなのに、縫い合わされ死に化粧を施されているのか、とても綺麗だった。全てのものから解放され、安住の地を見つけたような、そんな表情をしていた。
「あなたの顔…見分けがつかないくらいぐちゃぐちゃだったから…あなただって信じたくなかった…。でも…現実なのよね…。だって…あなたのこと…私が間違えるはず…ないもの…。あなたはもう…私のそばにいてくれない…。一緒に笑うことも…つまらないことに腹を立てることも…出来ないのよね…」
大粒の涙がトニーの顔に降り注いだが、涙は顔をすり抜けてしまった。
どういうことかとトニーが凝視していると、ペッパーがトニーの顔の横にある何かを押した。と、見ていたはずの顔が消え、見るも無残な、もはや顔とは言えないものが現れた。目も鼻も口も、もはや見分けがつかないほど破壊され、肉は剥がされ所々骨がむき出しになっている。肉の塊と化した顔面を人前に晒す訳にはいかないとペッパーは考えたのだろう。先程見ていた顔はホログラムだったのだ。
あまりに悲惨な状態に、トニーは思わず口を押さえた。が、ペッパーは顔だったものを愛おしそうに撫でると、唇があったであろう場所にそっと口付けした。
「ペッパー…… 」
変わり果てた姿の自分でもペッパーは愛してくれている…。
触れられないことは分かっている。だが、姿形は見えなくても、自分はそばにいることを…永遠に見守っていることを知らせたかった。堪らなくなったトニーは、ペッパーの右肩にそっと手を乗せた。
その時、奇跡が起こった。
「…トニー?」
ハッとした表情を浮かべたペッパーが振り返った。姿は見えないはずなのに、トニーの気配を感じたのか、目を細めたペッパーは少しだけ笑みを浮かべた。
「トニー……そばにいてくれるのね…」
新たな涙を流したペッパーは、自分の手を右肩に載せた。ペッパーの手とトニーの透き通った手が触れ合った瞬間、2人の心は再び結びついた。
「トニー……愛してる……。あなたに…最期に…言いたかった……。私が愛してるのは…あなただけよ…」
唇を噛み締めたペッパーだが、涙を堪えることが出来なかった。顔を覆ったペッパーはその場に崩れ落ちると、声を上げて泣き始めた。
子供のように泣き続けるペッパーの姿に、トニーも涙が止まらなかった。
出来ることなら、もう一度、戻りたかった。共にいること…たったそれだけのことが、何よりも大切だと、ようやく分かったのだから…。
「…戻りたい…。もう一度………。彼女に……」
ポロポロと涙を零し、静かに泣くトニーに『声』は告げた。
戻してやろう…彼女の元へ…。もう二度と…しくじるなよ…。
***
目を開けると、トニーの目の前に、キャプテン・アメリカの盾が迫っていた。
顔面に叩きつけられると、恐怖に顔を歪ませながら、トニーは腕で咄嗟にガードした。
と、あの時は躊躇なかったスティーブ・ロジャースが、一瞬躊躇した。そして盾は顔面ではなく、リアクターに向けられた。
リアクターを破壊されたが、助けを呼ぶことができた。が、肋骨が折れたのか、胸がズキズキと痛み始め、息苦しくなってきた。そして寒さは次第に身体を蝕んでいった。
(やはり…ダメなのか…)
折角貰ったチャンスなのに、結局は死を受け入れるしかないのか…と、トニーはゆっくりと目を閉じた。
***
トニー……トニー……
壊れたラジオのように繰り返し聞こえる名前にトニーはゆっくりと目を開けた。すると今度は、白い天井が目に入った。
(ここは…)
ぼんやりする頭で必死に考えていると、人の気配がした。何とか覚醒させようと、二三度頭を振ると、誰かがギュッと手を握りしめた。
「トニー…気がついた?」
(この声は…ペッパーだ…)
ぼんやりとした視界に見えたのは、世界で一番愛おしい存在だった。
チューブの挿管された状態では、声を出すことすらままならないが、小さく唸り声を上げたトニーに、ペッパーは安心したように息を吐いた。
「よかった…よかったわ…トニー……」
トニーの手を自分の頬に当てたペッパーは、ニッコリと笑った。頬を伝わった涙が掌に触れ、その温かさにこれが現実だとトニーはようやく実感できた。
二度としくじるなよ…
また『声』が聞こえた。今度はどこか楽しそうな声だった。
(あぁ…。絶対に…もう二度と…彼女の手を離さない…)
泣きじゃくるペッパーを見つめながら、トニーは誓った。彼女だけは永遠に手放してなるものか…と。
192. Mini Golf
この日、トニー・スタークは、とあるミニゴルフ場にいた。取引先の接待ゴルフなのだが、例えミニゴルフと言っても、どうしてこの真夏の炎天下の中、ゴルフ場にいるのか分からない。
今日はパターが決まらないとか、暑すぎるからだと文句を言い続けるトニーだが、そもそも彼のゴルフの腕前はそれ程上手くはないのだ。とは言っても、世間一般的に見れば十分な腕前なのだが、如何せん、レースやスキーなどはプロ並みなのだから、それに比べれば…と言ったところだろうか。
今もラストショットをミスってしまい、トニーは小さく舌打ちした。滝のように流れ落ちる汗をタオルで拭ったトニーは木陰に避難すると、続けてボールをセットしたペッパーの一打を見守ることにした。
心地よい音と共にボールはカップイン。
「流石は社長!」
取引先の社長以下社員全員が、ゴマをするように拍手し始めた。
ニコッと営業スマイルを浮かべたペッパーは、ボールを拾うと木陰で気だるそうに水を飲んでいるトニーの元へ向かった。
「君は絶好調だな」
「あなたは絶不調ね」
飲んでいたミネラルウォーターのボトルを手渡すと、受け取ったペッパーは一口二口飲み干した。
「君はやけに涼し気な顔をしてるな」
「暑いと思うと余計に暑く感じるのよ」
トニーの額に流れる汗を拭ったペッパーは、不機嫌なトニーに戦々恐々としている周囲の雰囲気を払拭しようと、彼の耳元で囁いた。
「もうすぐ終わるわ。クラブハウスに戻ったら、シャワーを浴びなきゃ……ね?」
つまりそういうことよ…と言うように、トニーの耳たぶを甘噛みすると、目を輝かせたトニーは飛び上がった。
「よし!さっさと終わらせよう!」
そう叫んだトニーはペッパーの手を引っ張ると、炎天下のコースに飛び出した。
6.Coffee shop! au
彼は決まった曜日の決まった時間にやって来る。そして決まったコーヒーを注文する。
『トールサイズ、2ショットのエスプレッソ』
それが彼のお決まりのメニュー。
そのため、『ミスター・エスプレッソ』と店員の間では呼ばれていた。が、彼は『トニー』という名前だ。注文を取る時、名前を聞くと『トニー』というから間違いない。
年は30後半だろうか。彼はいつも高そうなスーツを着ていた。腕には高級ブランドの時計を嵌め、時折サングラスを掛けていたが、茶目っ気たっぷりの琥珀色の瞳は、人を惹きつけるものがあった。
店の周囲は企業のビルばかりなのだから、ミスター・エスプレッソは、きっとどこかの大企業の社員なのだろうと、皆噂していた。
ヴァージニア・ポッツは店に勤めて3年目。可愛らしく愛想の良い彼女には、ファンが大勢おり、彼女目当てにコーヒーを買いに来る男性も大勢いた。
木曜日の今日は本当ならば休みなのだが、人手が足りないということで、ヴァージニアは出勤していた。が、毎朝やって来るはずの彼は、いくら待てども来ないではないか。
「今日はトニーさんは来られないのね」
朝の混雑がひと段落した頃、ヴァージニアはバリスタのクリント・バートンに尋ねた。
「あぁ、ミスター・エスプレッソ?彼は木曜日は来ないんだ。」
毎日来ていると思っていたのに、そうではないことにヴァージニアは驚いた。
「そうなんですか?」
目をパチクリさせているヴァージニアに、クリントは肩を竦めた。
「木曜日と日曜日はミスター・エスプレッソも休みなんだろうな」
木曜日と日曜日、それはヴァージニアも休みの日だ。偶然なのかどうか知らないが、同じ曜日が休みと知ったヴァージニアは、彼に対して妙に親近感を覚えてしまった。
翌日。
カランとドアのベルが鳴り、ヴァージニアが顔を上げると、彼が入ってきた。
真っ直ぐヴァージニアの元にやって来た彼に、ヴァージニアは笑顔で告げた。
「トールサイズ、2ショットのエスプレッソですよね?」
ニッコリ笑ったヴァージニアに、彼も少しだけ笑みを浮かべた。
「あぁ、そうだ」
「いつもありがとうございます」
カップに『トニー』と書いたヴァージニアは、『お仕事お疲れ様です』と書き添えた。
土曜日になった。珍しく他に客もおらず、カウンターにはヴァージニアが一人で立っていた。すると彼がやって来た。
「いらっしゃいませ」
ヴァージニアの元に歩み寄った彼は、
「いつもの…」
と言い掛けたが、今日の彼は違っていた。
「たまには違う物を頼みたい。君のお勧めは?」
思わぬ展開に驚いたのはヴァージニアだけではなかった。いつものメニューを作ろうとしていたクリントも、思わず彼を凝視した。
「そうですね…」
うーんと考えたヴァージニアは、
「甘いのものはお好きですか?ココアとキャラメルベースのものが人気ですよ」
と、勧めてみた。すると彼は優しげに目を細めると
「それで頼む」
と言ったのだ。
「はい!」
嬉しくなったヴァージニアは、カップに『トニー』と書くと、スマイルマークも書き添えた。
月曜になり彼がやって来た。
「この間の君のお勧め、美味かった」
開口一番そう告げた彼に、ヴァージニアはほっと胸を撫で下ろした。
「良かったです」
ニッコリ微笑んだヴァージニアに、彼も嬉しそうに笑みを浮かべた。
「今日も君のお勧めを頼む」
頷いたヴァージニアは、
「では、土曜日とは別のものにしますね」
と言うと、今日のバリスタのスティーブ・ロジャースに、ソルテッドカラメルモカを作るよう告げた。
***
それからも彼…トニーは、木曜日と日曜日以外は毎朝やって来た。だが、彼が頼むメニューは、お決まりの物ではなく、ヴァージニアのお勧めの物になった。そして支払いをする僅かな時間だが、トニーとヴァージニアは世間話をするようになった。
「ミスター・エスプレッソ、ヴァージニアのことがお気に入りなのね。だって、私のところが空いてても、いつもあなたの所に並ぶでしょ?」
ヴァージニアと同じくレジを担当しているナターシャ・ロマノフは、おかしそうにクスクス笑った。首を傾げたヴァージニアに、ナターシャはニヤリと笑った。
「あなたのこと、好きなのかもよ?」
と、ヴァージニアが顔を真っ赤にして飛び上がった。あたふたし始めた彼女に、ナターシャは気付いた。彼女も彼に好意を持っていると…。
「あら?もしかして…」
本心を見透かされたヴァージニアは慌てて首を振った。
「ち、違うわよ!」
真っ赤になった顔を隠すように、ヴァージニアは掃除をし始めた。
翌日。
いつもの時間になってもトニーは来ない。
どうしたのかとヴァージニアが些か不安になっていると、電話が鳴った。
ヴァージニアが電話に出ると、何とトニーからだった。
「ポッツさん?トニーだけど…」
「おはようございます」
トニーの声を聞き、ヴァージニアはほっとした。
「聞くんだけど、デリバリーとかやってる?」
「え?デリバリーですか?やってますが…」
「今朝は急に会議が入ってさ。君のお勧めを20人分、届けてもらえないか?」
「分かりました。すぐにお伺いします」
「頼んだよ。場所は…」
トニーの告げた住所は、1ブロック先のオフィス街だった。
人数分を一人で持っていくのは無理だ。そこでナターシャにも手伝ってもらうことになり、2人は指定された場所へと歩き出した。
「1ブロック先の……あ、ここじゃない?」
スマホの地図アプリを見ながら歩いていたナターシャが立ち止まった。目の前に現れたのは、何とあのスターク・インダストリーズのビルだった。
「ミスター・エスプレッソは、スターク・インダストリーズの社員だったのね。だからあんなに高そうなスーツを着てたのね」
ナターシャは納得したように唸った。というのも、スターク・インダストリーズは全米…いや、世界屈指の大企業なのだから、そこで働く人々も如何にも出来る大人という雰囲気の者が多いのだ。店にもよく社員が来るが、誰もがカッコいいのだ。
入館手続きを取ろうと受付に行くと、すでに受付嬢には連絡が入っていたようで、30階の会議室に行くように言われた。
指定された会議室のドアをノックしたヴァージニアは、
「失礼します」
と言うと、そっと中へ入った。するとトニーがニコニコと笑っていた。
「待ってたよ。急に悪かったね。一息入れたかったから、助かったよ」
ネクタイを少しだけ緩めたトニーはかっこよく、ヴァージニアだけではなくナターシャまで頬を赤らめた。立ち上がったトニーは、ヴァージニアとナターシャからコーヒーの入った紙袋を受け取った。
「彼女のおすすめのコーヒーだ」
そう言いながら、トニーは机の上にコーヒーを並べた。
すると年配の社員が、トニーに声を掛けた。
「社長、せっかくですし少し休憩にしましょう」
「え……社長って…………」
ヴァージニアは思わずナターシャと顔を見合わせた。そして、トニーの顔を穴が開くほど見つめていたヴァージニアとナターシャは、気づいた。
トニーは、髭こそ生えているが、スターク・インダストリーズのCEOの『トニー・スターク』にそっくりだと…。
2人の様子に肩を竦めたトニーは、首からぶら下げていたIDカードを掲げた。
「そう言えば、名乗ってなかったな。トニー・スタークだ」
口をポカンと開けてトニーを見つめていたヴァージニアとナターシャは、30秒ほど経った後、叫び声を上げた。
「「えぇぇぇ!!!!!」」
ミスター・エスプレッソは、あのトニー・スタークだったのだ。だが、メディアでよく見るトニー・スタークには髭はない。だから誰も気づかなかったのだが…。
「で、でも…ひ、ひ、ひ、髭……」
やっとの思いで一言発したナターシャに、トニーは苦笑した。
「最近生やし始めたんだ」
驚きすぎて腰を抜かしてしまった2人を立ち上がらせたトニーは、楽しそうに笑い声を上げた。
『ミスター・エスプレッソの正体はトニー・スタークだった』
コーヒーショップに飛んで帰ったヴァージニアとナターシャのおかげで、あのトニー・スタークが毎日通っていたと、店はその日一日中大騒ぎだったとか…。
翌日。
ドアを開ける音にヴァージニアが顔を上げると、トニーが入ってきた。
昨日のことを思い出したヴァージニアは、慌てて姿勢を正した。
「昨日はありがとう。君のお勧めのコーヒー、みんな大絶賛だったよ」
礼を言うトニーに、ヴァージニアは顔を真っ赤にした。
「そんな…恐縮です」
モジモジとエプロンの裾を弄っていたヴァージニアを、トニーは黙って見つめた。彼の視線を感じたヴァージニアは、何とか仕事モードに戻ると、顔を上げた。
「今日は何にされますか?」
「昨日と同じ物をお願いしようかな。あれはハマった」
真面目くさった顔で頷くトニーに、ヴァージニアもようやくいつものように笑みを浮かべた。
「よかったです。私の一番お気に入りなんです」
カップを手に取ったヴァージニアは、『トニー』ではなく『Mr.スターク』と書いてみた。そして昨日と同じ物を作るようにクリントに頼んだ。
が、支払いを終えたのに、トニーはその場を動こうとしない。
「どうかされたんです?」
追加で何か頼まれるのかしら?と首を傾げたヴァージニアに、トニーはウインクした。
「もう一つ、頼んでいいか?」
「はい」
頭の中でまだ出していないお勧めのカスタマイズを考えていたヴァージニアだが、トニーは名刺を差し出すと、ヴァージニアに手渡した。
どういうことかと目をパチクリさせるヴァージニアに、トニーは真剣な声で告げた。
「今度、一緒に食事でもどうだい?君のお勧めの店で…」
「え……」
少しだけ頬を赤らめたトニーは、ヴァージニアを真っ直ぐに見つめた。
「君のこと、もっと知りたいんだ。お勧めのレストランとか、お勧めの店とか…。つまりさ……そういうことだ」
ヴァージニアがポカンとトニーを見つめていると、クリントが出来上がったコーヒーをカウンターの上に置いた。コーヒーを受け取ったトニーは、ヴァージニアに向かってウインクすると店を後にした。
名刺には、トニーのプライベートの携帯の番号とメールアドレスが書いてあった。
『良ければ連絡して』
ご丁寧にもハートマークが書かれたその名刺を、ヴァージニアは大切そうにポケットにしまった。
***
それからしばらく後のこと。
昔からヴァージニアのことがお気に入りで、毎日店に通っていた男が、久しぶりに店に来た。1年間海外勤務で来れなかったとナターシャに告げたその男は、キョロキョロと店内を見渡した。
「あれ?ポッツさんは?」
「彼女、先月辞めたんですよ」
ヴァージニアが辞めたと知った男は、大袈裟にその場に崩れ落ちた。
「えぇー!せっかく会えると思って来たのに…」
ぶつぶつ言う男に、ナターシャは苦笑い。
「仕方ないですよ。ミセス・エスプレッソになったんですもん」
「へ?」
クスクス笑ったナターシャは壁に貼られた写真を指さした。
ウェディングドレスを着たヴァージニアとタキシードを着たトニーが、コーヒー片手に店内でキスをしている写真には、『スターク・インダストリーズの社員の方はお申し付け下さい。1杯目はスターク社長の奢りです』と書かれていた。