6.Coffee shop! au

彼は決まった曜日の決まった時間にやって来る。そして決まったコーヒーを注文する。
『トールサイズ、2ショットのエスプレッソ』
それが彼のお決まりのメニュー。
そのため、『ミスター・エスプレッソ』と店員の間では呼ばれていた。が、彼は『トニー』という名前だ。注文を取る時、名前を聞くと『トニー』というから間違いない。
年は30後半だろうか。彼はいつも高そうなスーツを着ていた。腕には高級ブランドの時計を嵌め、時折サングラスを掛けていたが、茶目っ気たっぷりの琥珀色の瞳は、人を惹きつけるものがあった。
店の周囲は企業のビルばかりなのだから、ミスター・エスプレッソは、きっとどこかの大企業の社員なのだろうと、皆噂していた。

ヴァージニア・ポッツは店に勤めて3年目。可愛らしく愛想の良い彼女には、ファンが大勢おり、彼女目当てにコーヒーを買いに来る男性も大勢いた。
木曜日の今日は本当ならば休みなのだが、人手が足りないということで、ヴァージニアは出勤していた。が、毎朝やって来るはずの彼は、いくら待てども来ないではないか。
「今日はトニーさんは来られないのね」
朝の混雑がひと段落した頃、ヴァージニアはバリスタのクリント・バートンに尋ねた。
「あぁ、ミスター・エスプレッソ?彼は木曜日は来ないんだ。」
毎日来ていると思っていたのに、そうではないことにヴァージニアは驚いた。
「そうなんですか?」
目をパチクリさせているヴァージニアに、クリントは肩を竦めた。
「木曜日と日曜日はミスター・エスプレッソも休みなんだろうな」

木曜日と日曜日、それはヴァージニアも休みの日だ。偶然なのかどうか知らないが、同じ曜日が休みと知ったヴァージニアは、彼に対して妙に親近感を覚えてしまった。

翌日。
カランとドアのベルが鳴り、ヴァージニアが顔を上げると、彼が入ってきた。
真っ直ぐヴァージニアの元にやって来た彼に、ヴァージニアは笑顔で告げた。
「トールサイズ、2ショットのエスプレッソですよね?」
ニッコリ笑ったヴァージニアに、彼も少しだけ笑みを浮かべた。
「あぁ、そうだ」
「いつもありがとうございます」
カップに『トニー』と書いたヴァージニアは、『お仕事お疲れ様です』と書き添えた。

土曜日になった。珍しく他に客もおらず、カウンターにはヴァージニアが一人で立っていた。すると彼がやって来た。
「いらっしゃいませ」
ヴァージニアの元に歩み寄った彼は、
「いつもの…」
と言い掛けたが、今日の彼は違っていた。
「たまには違う物を頼みたい。君のお勧めは?」
思わぬ展開に驚いたのはヴァージニアだけではなかった。いつものメニューを作ろうとしていたクリントも、思わず彼を凝視した。

「そうですね…」
うーんと考えたヴァージニアは、
「甘いのものはお好きですか?ココアとキャラメルベースのものが人気ですよ」
と、勧めてみた。すると彼は優しげに目を細めると
「それで頼む」
と言ったのだ。
「はい!」
嬉しくなったヴァージニアは、カップに『トニー』と書くと、スマイルマークも書き添えた。

月曜になり彼がやって来た。
「この間の君のお勧め、美味かった」
開口一番そう告げた彼に、ヴァージニアはほっと胸を撫で下ろした。
「良かったです」
ニッコリ微笑んだヴァージニアに、彼も嬉しそうに笑みを浮かべた。
「今日も君のお勧めを頼む」
頷いたヴァージニアは、
「では、土曜日とは別のものにしますね」
と言うと、今日のバリスタのスティーブ・ロジャースに、ソルテッドカラメルモカを作るよう告げた。

***

それからも彼…トニーは、木曜日と日曜日以外は毎朝やって来た。だが、彼が頼むメニューは、お決まりの物ではなく、ヴァージニアのお勧めの物になった。そして支払いをする僅かな時間だが、トニーとヴァージニアは世間話をするようになった。

「ミスター・エスプレッソ、ヴァージニアのことがお気に入りなのね。だって、私のところが空いてても、いつもあなたの所に並ぶでしょ?」
ヴァージニアと同じくレジを担当しているナターシャ・ロマノフは、おかしそうにクスクス笑った。首を傾げたヴァージニアに、ナターシャはニヤリと笑った。
「あなたのこと、好きなのかもよ?」
と、ヴァージニアが顔を真っ赤にして飛び上がった。あたふたし始めた彼女に、ナターシャは気付いた。彼女も彼に好意を持っていると…。
「あら?もしかして…」
本心を見透かされたヴァージニアは慌てて首を振った。
「ち、違うわよ!」
真っ赤になった顔を隠すように、ヴァージニアは掃除をし始めた。

翌日。
いつもの時間になってもトニーは来ない。
どうしたのかとヴァージニアが些か不安になっていると、電話が鳴った。
ヴァージニアが電話に出ると、何とトニーからだった。
「ポッツさん?トニーだけど…」
「おはようございます」
トニーの声を聞き、ヴァージニアはほっとした。
「聞くんだけど、デリバリーとかやってる?」
「え?デリバリーですか?やってますが…」
「今朝は急に会議が入ってさ。君のお勧めを20人分、届けてもらえないか?」
「分かりました。すぐにお伺いします」
「頼んだよ。場所は…」

トニーの告げた住所は、1ブロック先のオフィス街だった。
人数分を一人で持っていくのは無理だ。そこでナターシャにも手伝ってもらうことになり、2人は指定された場所へと歩き出した。
「1ブロック先の……あ、ここじゃない?」
スマホの地図アプリを見ながら歩いていたナターシャが立ち止まった。目の前に現れたのは、何とあのスターク・インダストリーズのビルだった。
「ミスター・エスプレッソは、スターク・インダストリーズの社員だったのね。だからあんなに高そうなスーツを着てたのね」
ナターシャは納得したように唸った。というのも、スターク・インダストリーズは全米…いや、世界屈指の大企業なのだから、そこで働く人々も如何にも出来る大人という雰囲気の者が多いのだ。店にもよく社員が来るが、誰もがカッコいいのだ。

入館手続きを取ろうと受付に行くと、すでに受付嬢には連絡が入っていたようで、30階の会議室に行くように言われた。

指定された会議室のドアをノックしたヴァージニアは、
「失礼します」
と言うと、そっと中へ入った。するとトニーがニコニコと笑っていた。
「待ってたよ。急に悪かったね。一息入れたかったから、助かったよ」
ネクタイを少しだけ緩めたトニーはかっこよく、ヴァージニアだけではなくナターシャまで頬を赤らめた。立ち上がったトニーは、ヴァージニアとナターシャからコーヒーの入った紙袋を受け取った。
「彼女のおすすめのコーヒーだ」
そう言いながら、トニーは机の上にコーヒーを並べた。
すると年配の社員が、トニーに声を掛けた。
「社長、せっかくですし少し休憩にしましょう」

「え……社長って…………」
ヴァージニアは思わずナターシャと顔を見合わせた。そして、トニーの顔を穴が開くほど見つめていたヴァージニアとナターシャは、気づいた。
トニーは、髭こそ生えているが、スターク・インダストリーズのCEOの『トニー・スターク』にそっくりだと…。

2人の様子に肩を竦めたトニーは、首からぶら下げていたIDカードを掲げた。
「そう言えば、名乗ってなかったな。トニー・スタークだ」

口をポカンと開けてトニーを見つめていたヴァージニアとナターシャは、30秒ほど経った後、叫び声を上げた。

「「えぇぇぇ!!!!!」」

ミスター・エスプレッソは、あのトニー・スタークだったのだ。だが、メディアでよく見るトニー・スタークには髭はない。だから誰も気づかなかったのだが…。

「で、でも…ひ、ひ、ひ、髭……」
やっとの思いで一言発したナターシャに、トニーは苦笑した。
「最近生やし始めたんだ」
驚きすぎて腰を抜かしてしまった2人を立ち上がらせたトニーは、楽しそうに笑い声を上げた。

『ミスター・エスプレッソの正体はトニー・スタークだった』
コーヒーショップに飛んで帰ったヴァージニアとナターシャのおかげで、あのトニー・スタークが毎日通っていたと、店はその日一日中大騒ぎだったとか…。

翌日。
ドアを開ける音にヴァージニアが顔を上げると、トニーが入ってきた。
昨日のことを思い出したヴァージニアは、慌てて姿勢を正した。
「昨日はありがとう。君のお勧めのコーヒー、みんな大絶賛だったよ」
礼を言うトニーに、ヴァージニアは顔を真っ赤にした。
「そんな…恐縮です」
モジモジとエプロンの裾を弄っていたヴァージニアを、トニーは黙って見つめた。彼の視線を感じたヴァージニアは、何とか仕事モードに戻ると、顔を上げた。
「今日は何にされますか?」
「昨日と同じ物をお願いしようかな。あれはハマった」
真面目くさった顔で頷くトニーに、ヴァージニアもようやくいつものように笑みを浮かべた。
「よかったです。私の一番お気に入りなんです」
カップを手に取ったヴァージニアは、『トニー』ではなく『Mr.スターク』と書いてみた。そして昨日と同じ物を作るようにクリントに頼んだ。
が、支払いを終えたのに、トニーはその場を動こうとしない。
「どうかされたんです?」
追加で何か頼まれるのかしら?と首を傾げたヴァージニアに、トニーはウインクした。
「もう一つ、頼んでいいか?」
「はい」
頭の中でまだ出していないお勧めのカスタマイズを考えていたヴァージニアだが、トニーは名刺を差し出すと、ヴァージニアに手渡した。
どういうことかと目をパチクリさせるヴァージニアに、トニーは真剣な声で告げた。
「今度、一緒に食事でもどうだい?君のお勧めの店で…」
「え……」
少しだけ頬を赤らめたトニーは、ヴァージニアを真っ直ぐに見つめた。
「君のこと、もっと知りたいんだ。お勧めのレストランとか、お勧めの店とか…。つまりさ……そういうことだ」

ヴァージニアがポカンとトニーを見つめていると、クリントが出来上がったコーヒーをカウンターの上に置いた。コーヒーを受け取ったトニーは、ヴァージニアに向かってウインクすると店を後にした。

名刺には、トニーのプライベートの携帯の番号とメールアドレスが書いてあった。
『良ければ連絡して』
ご丁寧にもハートマークが書かれたその名刺を、ヴァージニアは大切そうにポケットにしまった。

***

それからしばらく後のこと。
昔からヴァージニアのことがお気に入りで、毎日店に通っていた男が、久しぶりに店に来た。1年間海外勤務で来れなかったとナターシャに告げたその男は、キョロキョロと店内を見渡した。
「あれ?ポッツさんは?」
「彼女、先月辞めたんですよ」
ヴァージニアが辞めたと知った男は、大袈裟にその場に崩れ落ちた。
「えぇー!せっかく会えると思って来たのに…」
ぶつぶつ言う男に、ナターシャは苦笑い。
「仕方ないですよ。ミセス・エスプレッソになったんですもん」
「へ?」
クスクス笑ったナターシャは壁に貼られた写真を指さした。
ウェディングドレスを着たヴァージニアとタキシードを着たトニーが、コーヒー片手に店内でキスをしている写真には、『スターク・インダストリーズの社員の方はお申し付け下さい。1杯目はスターク社長の奢りです』と書かれていた。

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