「短編」カテゴリーアーカイブ

For You

どのくらい時が経ったのだろうか…。
暗闇に閉ざされた空間では、何一つまともに判断することはできず、壁に寄りかかったトニーは小さく溜息を付いた。
凍えそうなくらい冷えきった床は、もはや何の希望すら見出すことも出来ず、身震いしたトニーは、薄いシャツのみを纏った身体を左腕で抱きかかえた。

と、部屋のドアが開く音がし、誰かが入ってきた。顔を向けたトニーだが、気配は感じても目隠しされた視界には何も映るはずもない。やがてコツコツという靴音が近づいてき、右手首の冷たい戒めがジャラっと音を立てた。
「おい。妙な真似はするなよ」
そう言い残した男は、ガチャンと乱暴に鉄の扉を閉めると部屋を出て行った。

しばらくすると、隣からしくしくという泣き声が聞こえてきた。
(オンナか?)
自分と同じように捕まったのなら、彼女も酷いことをされたに違いない。何処の誰かは分からないが、その女性を出来る限り守らなければと考えたトニーは、恐る恐る声を掛けた。
「なぁ…泣くな…」
と、女性が息を飲んだ。
「トニー?」
名前を呼ばれたトニーはトニーで驚いた。その声には聞き覚えがあったから…。
「ペッパーか?!」
どうしてペッパーがこの場にいるのかとパニックになっているトニーを落ち着かせるように、ペッパーは右手を彷徨わせると彼にそっと触れた。
「待って…目隠しされてるの…。取るから…」
暫くカサカサと衣摺れの音がしていたが、目隠しを外したのだろう、ペッパーが小さく悲鳴を上げた。
無理もない。トニーは身体中血塗れなのだから…。シャツも頭や目元に巻かれた包帯も血に染まっており、トニーの姿を見たペッパーの目から大粒の涙が零れ落ちた。
「トニー……」
酷い怪我をしているが、それでも彼の目を見て話がしたいと、ペッパーはトニーの目元の包帯に触れたのだが…。
「待て。このままでいい」
「え…」
ペッパーを制するように、トニーは彼女の右手を握りしめた。何もかも理由が分からず困惑しているであろう彼女に事実を知らせるのは酷かもしれないが、いずれは伝えなければならないこと。ゴクリと唾を飲み込んだトニーは、無理矢理笑みを浮かべた。
「もう…何も見えないから…」
「見えないって…」
声を震わせたペッパーは、トニーの手を握り返した。おそらく彼女は涙を流しているだろう。見えない目をペッパーに向けたトニーは、ここに来て何度も自分に言い聞かせてきた言葉を口に出した。
「ここからは…もう…逃げられないんだ」

逃げること…いや、全てを諦めたようなトニーの口ぶりに、ペッパーは胸が張り裂けそうになった。トニーはいつだって、そして何があっても簡単に諦めるような人間ではないのに、一体何をされたのだろう…。だが、本当に道は閉ざされてしまったのだろうか。トニー一人では成し遂げられなくても、こうやって二人揃えば解決の道はあるかもしれないのだから…。

「逃げましょ…。私があなたを守るから…」
暫くしてそう呟いたペッパーだが、トニーは小さく首を振った。
「無理だ」
ポツリと呟いたトニーは右手を上げた。と、二人を繋ぐ手錠がジャラッと音を立てた。
「この手錠を外せば……。私の頭と身体には…爆弾が埋め込まれている。手錠を外せば、爆発する…」
そうなれば、トニーは勿論のこと、ペッパーも無事ではすまないのだ。
呆然としていたペッパーだったが、
「何をされたの…」
とやっとの思いで呟くと、トニーの腕を震える手で掴んだ。その手を握りしめたトニーは、ここに連れて来られてからのことを、ポツリポツリと語り始めた。

どういう経緯でここに連れてこられたのかすら覚えていない。だが、気がついた時には、トニーは複数の男たちに暴行されていた。
ひたすら痛め続けられ、起き上がることもできないのに、何か薬物でも投与されたのか、不思議と痛みは感じなかった。
抵抗しようにも身体は言うことを効かず、悲鳴一つ上げることすらできないトニーは、ただ人形のように痛めつけられた。
全身の骨が砕け、血塗れになっても、男達は手を止めなかった。やがて、肺が傷ついたのか、息をすることすら困難になり始めた頃、リーダー格の男が近づいてきた。
「これ、何か知ってるか?」
ぼんやりとした頭では、考えなど思い浮かぶはずもなく、トニーは男の手中にある注射器を見つめた。くくっと笑った男は、トニーの首元に針を刺した。シリンジの中身を全て打ち終えた男は注射器を投げ捨てると、今度は背後からナイフを2本取り出した。
「エクストリミスって言うんだよな。お前が完成させたんだろ?だが、お前が破棄したせいで、資料は残っていない。世の役に立つ貴重なものをお前は破壊したんだぞ?勿体ない。実に勿体ない。だから再現してみた。後は実験するのみ…。お前でな!」
と、視界が真っ赤に染まった。が、それも一瞬だった。目の前はすぐに暗闇に包まれ、トニーの目には暗闇しか映らなくなった。生温いもので顔面が覆われ、何が起こったのだろうかと唇を震わせるトニーに、男は肩を竦めた。
「おかしいな。治らないぞ?失敗か?」
ふぅと溜息を付いた男は、せせら笑いを浮かべた。
「すまんな。失敗だ。心配するな。お前の目が見えなくなった、ただそれだけだ」

(何だと…)
視力を奪われた…。それも永遠に…。
痛みを感じないはずなのに、ズキズキと全身が痛み始め、トニーの悲痛な叫び声が響き渡った。
叫び声に耳を塞いだ男は、立ち上がるとトニーの腹部を踏みつけた。
「煩いぞ!」
腹を思いっきり蹴られむせ込んだトニーの両脇を抱えた男達は、引き摺るように移動し始めた。
「お前は実験台だ。試作品が完成する度に、お前に投与してやる。だが、逃げられたら困る。お前は一生ここから逃げられない」
男達は冷たい台の上にトニーを拘束すると、頭と腹部に何かを打ち込んだ。
「お前の頭と身体に爆弾を埋め込んだ。それから…」
右手首に冷たい手錠が掛けられ、ぐったりとしたトニーの耳元で男は楽しそうに囁いた。
「この手錠は、起爆装置になっている。外そうとすれば、お前の体内の爆弾が爆発するぞ…」

それから日に何度か試作品を投与された。どれも未完成のため、トニーは様々な苦痛に襲われた。頭痛や吐き気に襲われるくらいならマシだった。全身を耐えられない程の痛みに襲われ、このまま死んでしまいたいと思ったこともある。身体ごと焼き付くされそうになったこともある。だが、このままここで朽ち果てる訳にはいかない…ペッパーにもう1度会いたい…その気持ちを支えに、トニーは一人苦痛と闘っていたが、終わりの見えない日々に心は限界だった。このまま生きていても、彼らの実験台にされるだけ…。そして成功しても、そのうち殺されて終わりだろう…。それならば、次はあの地獄のような苦痛に身を委ねて、命を絶とう…。そう考えていた矢先、ペッパーがここに連れてこられたというのだ。

話し終え、ふぅと深呼吸したトニーは、泣いているのだろう、鼻を啜っているペッパーに声を掛けた。
「ペッパー、君はどうしてここに…」
涙を拭ったペッパーは、トニーの右側に座り直した。
「あなたが行方不明になったのは2週間前よ。何のなく手掛かりもなくて、あなたは見つからなかった…。それが今朝、FBIが来たの。あなたは無事に保護されて病院に搬送されたと言われて…疑いもせずに彼らについて行ったわ…。でも、嘘だったの。あなたに会えたことは事実だけど…」
首を振ったペッパーは、自分と同じことをされたのではないかと顔色を変えたトニーを安心させるように、彼の肩に頭を持たれかけた。
「でも、何もされていないわ。すぐにここへ連れ来られたから。目隠しをされて…」

と、その時。鉄の扉が耳障りなくらい大きな音を立てて開いた。
「試作品が完成した」
またあの悪夢のような時がやって来た…。トニーの顔に恐怖の色が滲み、彼は身体を震わせ始めた。
と、トニーの前にペッパーが立ち塞がった。トニーを守るように両腕を広げたペッパーは、男を無言で睨みつけた。
『これ以上、トニーを傷つけさせない』
ペッパーの力強い瞳はそう語っていたが、そんなペッパーを嘲り笑った男は、嫌な笑みをニタニタと浮かべた。
「おい、オンナ。お前を連れてきたのはな、スタークが死んだ時の代わりだ。いいんだぞ?お前で実験しても。お前にとっては2度目…かもしれないがな」
何故そのことを知っているのかと顔色を変えたペッパーだが、あの時の苦痛が脳裏に蘇り、彼女は小さく震えだした。
見えないながらもペッパーの恐怖を感じ取ったトニーは、ペッパーの腕を引っ張ると自分の背後に隠した。
「ペッパーには手を出すな!」
そう叫びながら男たちに立ち向かおうとしたトニーだが、弱り切った身体は言うことを聞くはずもなく、逆に男たちに羽交い絞めにされた。
「トニーを離して!!」
ペッパーの悲鳴に大丈夫だと答えようとしたトニーだが、首筋にチクリと痛みを感じると同時に、身体中に炎が包まれた。今まで感じたことがないような燃えさかる炎に全身を焼き尽くされ、トニーは叫び声を上げた。
「トニー!!」
ペッパーの泣き叫ぶ声が聞こえるが、両目どころか頭の中を火挟でかき回されているかのようで、あまりの激痛と灼熱の地獄に、トニーは身を委ねそうになった。だが、遠くで聞こえるペッパーの声が辛うじてトニーを繋ぎとめていた。
(ペッパー……ペッパーを…守らなければ…)
トニーは必死でペッパーのことを考えた。
この炎に燃え尽くされないようにと…。
だが、いつまでも激痛に逆らえるはずもなく、トニーの意識はぷっつりと途絶えてしまった……。


遠くで聞こえていた、ピッという電子音がやけに鮮明に聞こえ、トニーは重たい瞼をゆっくりと開いた。暗闇しか見えなかった世界のはずなのに、今や真っ白な光に包まれており、眩しくて仕方ない。
何度か瞬きすると、ボンヤリしていた視界が次第にハッキリとし始め、見慣れた顔が見えた。
「やぁ、トニー。目が覚めたかい?」
「…ブルース…」
友人である科学者はトニーの酸素マスクを外したが、まだ頭がしっかり働いていないトニーは、自分が置かれている状況が理解できなかった。
「目が…見える…」
困惑しきっているトニーを安心させるように、ブルースは大きく頷いた。
「あぁ。エクストリミスのおかげだ。最後に投与された物は不完全だったけど、君の傷を治してくれたんだ」
つまり傷つけられた目は治り、そして自分たちもあの連中から無事逃げることができたということだろうか…。目をぱちくりさせているトニーにブルースは話を続けた。
「そして君は敵を全員倒し、監禁されていた場所からペッパーと2人で逃げ出した。そして君を捜索していた警察に無事保護された。あ、君を痛めつけた連中も逮捕されたよ」
ニコッと笑みを浮かべたブルースだが、真剣な面持ちになると声を潜めた。
「君は病院に運ばれたけど、体内のエクストリミスは非常に不安定な状態だった。君は意識不明だったけど、エクストリミスはいつ暴発するか分からない。ペッパーから連絡を受けたもののどうしたものかと思案していたら…。君が完成させたエクストリミスのデータ、J.A.R.V.I.S.が秘密裏に保存していたんだ。だからそれを元に、君の体内のエクストリミスは取り除いたよ」
ようやく視界と意識がはっきりとしてきたトニーが辺りを見渡すと、そこは見慣れたタワーのラボだった。
安心したようにふぅと息を吐いたトニーだが、彼には自分のことよりも心配なことがあった。それは…。
「ペッパー……ペッパーは…」
「無事だよ。ほら…」
顔を横に向けたブルースを倣い視線を移すと、ペッパーはベッドに顔を伏せ眠っていた。トニーは気づいていなかったが、ペッパーの左手は彼の右手を固く握り締めていたのだ。
「少し休むように何度も言ったんだ。でも、彼女、君のそばを離れようとしないんだ」
1週間もこの状態だから、さすがに疲れてるんだよと微笑んだブルースは立ち上がると、足音を忍ばせラボを後にした。

すーすーと寝息を立てて眠るペッパーを暫く見つめていたトニーだが、目を覚ましたことを伝えようと、繋いだ手に軽く力を入れた。
と、もそもそと身体を動かしたペッパーがゆっくりと顔を上げた。
「やぁ、ハニー」
何度か瞬きをしたペッパーだが、その目にはみるみるうちに涙が溜まり始めた。
「トニー……」
掠れた声で囁いたペッパーは、顔を崩すとトニーに抱きついた。そのまま暫くの間、泣きじゃくっていたペッパーだが、落ち着きを取り戻すと、しゃくりあげながらも顔を上げた。
「怖かった…あなたを失うんじゃないかって……」
ペッパーの背中を撫でたトニーは、彼女の額に軽く口付けした。
「もう大丈夫だ。大丈夫だから…」
ウンウンと頷いたペッパーは、涙を拭うとトニーの胸元に顔を押し付けた。
「ペッパー、ありがとう…」
ペッパーの髪を撫でながらトニーは言葉を続けた。
「君があの時、来てくれなければ…私はきっと全てを諦めていた。君がいてくれたから乗り越えられた…。戻って来られた…」
顔を上げたペッパーは、顔を歪めると首を振った。
「私ね、決めたの。あなたが必要な時には必ず側にいるって…。何があっても、絶対にそばにいるって…」
トニーの手を握りしめたペッパーは、起き上がるとトニーの隣に横になった。そして彼の身体を抱え込むように抱きしめた。
「この先、何年…いいえ、何百年先も永遠に…そばにいるわ…。だからもう少し眠って…。しっかり休まなきゃ」
あぁ…と小さく声を出したトニーは、ペッパーの胸元に顔を埋めると目を閉じた。
すぐに心地よい寝息が聞こえてきた。安心しきった子供の様に眠るトニーの髪にキスをしたペッパーも、目を閉じた。

最初にいいねと言ってみませんか?

Someday…

「これを預かっておいてくれ」
トニー・スタークが差し出したのは小さな箱。蓋を開けると、そこにはハリーウィンストンの指輪が入っていた。
「俺にですか?」
ポカンとボスを見上げたハッピーに、トニーはわざとらしく顔を顰めた。
「違う。ポッツくんに渡すためのものだ」
「は?」
ポッツくんというのは、トニー・スタークの秘書であるペッパー・ポッツのことだ。ハッピーが知っている限りでは、トニーとペッパーは社長と秘書という関係に加え、気心の知れた友人という関係でしかない。だが、託された指輪はどう見ても婚約指輪なのだ。
「ペッパーと結婚するんですか?!」
いつの間にそんな関係になったのかとハッピーは慌てた。というのも、彼はプレイボーイで有名なトニー・スタークなのだ。もしかしたら、2人は勢いで関係を持ったのかもしれない。が、あのペッパー・ポッツに限って、勢いで…ということがあるだろうか…。
目に見えて慌てふためいているハッピーに、トニーは首を振った。
「お前が思っているような関係は持っていない。私達は健全な関係だ。社長と秘書という…」
と、ここで、トニーは口を噤んだ。
ハッピーに詳しい経緯を話すつもりはないが、昨日のことだった。ふらりと入ったジュエリーショップで、この指輪を見つけた。目に止まった瞬間、何故か分からないが、ペッパーの顔が思い浮かんだ。そして、いつの日かこれを彼女に渡せという声が聞こえた。そして気がつけば、指輪を購入していたのだ。
という経緯で目の前に婚約指輪があるのだが、そんなことをハッピーに話す気はさらさらなかった。
口を噤んだトニーの様子を伺っていたハッピーだが、ボスは指輪を買った理由を話す気はなさそうだと悟ると、からかうような口調で告げた。
「酔ってたんですか?」
が、トニーは真面目な顔で首を振った。
「誓って言うが…シラフだった」
あまりに真面目な表情に、ハッピーは日頃の2人の様子を思い浮かべた。確かにトニーの言う通り、2人は健全な関係だ。だが、ふとした瞬間、2人はよく見つめ合っている。それに付き合いが長いせいか、お互いのことを自分以上に分かっている気がする。それに、時折酔ったトニーがペッパーに『愛している』と抱きついているが、その時のペッパーは嫌そうな素振りをしているが、満更でもなさそうなのだ。
(つまり、お互い気づいていないだけで、本当は…)
ぶるっと頭を振ったハッピーは、これは良い機会かもしれないと、思い切って尋ねてみることにした。
「ペッパーのことが好きなんですか?」
と、トニーが軽く目を見開いた。そして、自分の本心を確かめているのか、何度か首を捻り何事か考えていたが、大きく溜息を付くと首を振った。
「分からん。だが、彼女は優秀だ。私にはなくてはならない存在だ。勿論、秘書として、そして友として…という意味だが…」
ふぅと息を吐いたトニーは、ちらりと指輪へ視線を送った。
「だから、もしかしたら、いつかそういう日が来るのかもしれない。残念ながら、その予定は今のところはないが…」
もしかしたら、トニー自身、自分の本当の気持ちに気づいておらず、無意識の内に指輪を購入したのかもしれない。
「だから預かっておけと?」
目を瞬かせたハッピーに、トニーは肩を竦めてみせた。
「そうだ。酔った勢いで、他のオンナに渡したら大変だ」
「そうですね」
真顔で頷いたハッピーだが、そのいつかはもしかしたら近い将来かもしれないと、大切そうにポケットに箱を収めた。

そしてその指輪は、結局10年もハッピーのポケットに収まったままだったとか…。

***

マーベル公式の発表したタイムラインでは、「アイアンマン1」は2010年の出来事となってしまい、トニーが指輪を用意した2008年とズレが生じてしまいました。というよりも、ホムカミに登場した年代自体がズレまくってしまっているので、今となっては2008年自体もあやふやな状態ですが…。

なので、アイアンマンになる以前の2008年に用意したというお話です。

最初にいいねと言ってみませんか?

Rainbow

IM1直後設定。あの指輪にまつわるif話。

***

退屈な3日間の会議が終わり、トニーは椅子の上で大きく背伸びをした。
向かいの窓からは、名所であるビッグ・ベンが見え隠れしており、こうやってせっかくロンドンまでやって来たのだから、何も明日帰国する必要はないだろう、この地で2、3日過ごすのも良いかもしれない…、と考えたトニーは、まずは彼の優秀な秘書であるペッパー・ポッツを説き伏せようと、彼女の姿を素早く探した。お目当ての彼女はすぐに見つかった。部屋の隅で電話をしている彼女だが、いつになく神妙な顔をしているではないか。髪を掻き分け、時折顔を悲しそうに歪める彼女は美しく、その横顔をボンヤリと眺めていたトニーだったが、思いの外見惚れていたようで、ペッパーがそばにやって来ても気づくことはなかった。

「社長、よろしいですか?」
ペッパーに肩を突かれ、ようやく我に返ったトニーは椅子の上で飛び上がりそうになったが、見惚れていたのを隠すように咳払いをすると慌てて姿勢を正した。
「どうした、ポッツくん」
わざとらしいくらいの咳払いに、いつもなら一言二言口に出すはずのペッパーなのに、心なしか目を潤ませた彼女はやや俯き加減で話し始めた。
「実は、明日から数日、休暇を頂きたいんです」
彼女も遊んで帰りたいのかと、本当に一瞬だが頭を過ったトニーだが、先程の様子から推測すると、おそらく並々ならぬ事情があるのだろう。それを聞いていいものか迷ったトニーだが、上司には話しておかねばならないと考えたのだろう、ペッパーは顔を上げるとトニーを見つめた。
「実は、祖母の具合が…かなり悪くて…」
ペッパーの祖母が健在であるとは知らなかった。彼女の両親は彼女が20過ぎた頃、事件に巻き込まれて他界したと聞いていたが…。
「君のおばあさんが?」
目を丸くしたトニーに、ペッパーは力なく頷いた。
「はい…。父方の祖母で、ロンドンに住んでいるんです…」
そう告げたペッパーの手は小さく震えており、彼女を一人してはいけないという思いがトニーの胸に襲い掛かった。
「私も行ってもいいか?」
思いもよらないトニーの言葉に、ペッパーは息を飲むと唇を震わせた。が、誰かに…それも心から信頼できる人にそばにいて欲しかったため、目を瞬かせたペッパーは小さく笑みを浮かべると、コクンと頷いた。

***
数時間後、トニーの運転する車で2人はロンドンの郊外にある病院へと向かったが、その道中、ペッパーは祖母についてトニーに話した。

祖父母は息子…つまりペッパーの父親が結婚後、ハネムーンで訪れた思い出の地であるロンドンへ移住したこと、祖父が他界した後も祖母はこの地へ留まり続けたこと。そして両親亡き後は、母方の祖父母はとうの昔に他界しており、両親も一人っ子だったため、今や祖母だけが唯一の身内であることを語り終えたペッパーは、小さく息を吐いた。
「3ヶ月前に自宅で倒れて…余命3ヶ月だと宣告されたわ。それからずっと入院してるの。それと…祖母は、私が結婚してると思い込んでるの。だから、トニー、もし祖母が失礼なことを言っても聞き流して頂戴」
そう言うと寂しそうに笑みを浮かべたペッパーだが、タイミングよく病院へ到着したため、2人は黙って病室へと向かった。

ナースステーションの前の病室がペッパーの祖母の部屋だった。担当医からもう数日だろうと宣告され大粒の涙を流したペッパーの肩をトニーはそっと抱き寄せた。
しばらくして落ち着いたペッパーは、無理矢理笑みを作ると病室へと入って行った。

「まぁ、ジニー!」
孫娘の訪問に、ベッドに横たわったペッパーの祖母は腕を伸ばした。その手を握りしめたペッパーは、ベッドサイドの椅子に腰掛けた。
「仕事でロンドンに来たから、おばあさまに会いたくなって…」
嬉しそうに頷いた祖母だが、入っていいものかと入り口に佇んでいるトニーに気づくと、パッと顔を輝かせた。
「あちらが、あなたの旦那様?」
「おばあさま、違…」
否定しようとしたペッパーだが、ツカツカとやって来たトニーは、満面の笑みを浮かべると、ペッパーの隣に腰を下ろした。
「初めまして、ミセス・ポッツ。ヴァージニアの夫のトニー・スタークです。トニーと呼んで下さい」
思わずトニーを凝視したペッパーだが、トニーがペッパーを肘で軽く小突いた。まるで『話を合わせろ』と言うように…。
「まあまあ、ジニーったら、凄くカッコいい方を捕まえたのね」
心の底から嬉しそうな祖母に、ペッパーはこの小さな嘘を突き通すことを決めると、トニーの手を握った。
「えぇ。素敵な人でしょ?」
繋がれた手を握り返したトニーはペッパーに向かって微笑むと、彼女の祖母にも微笑みかけた。
「ミセス・ポッツ。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。ですが、ようやくお会いできましたね」

孫娘の婿と念願の対面を果たしたのだ。ペッパーの祖母はいつになく饒舌だった。
「お仕事は何をされているの?」
「実業家…と言えばいいでしょうか。一応会社を経営しています。それから、ヒーロー活動を少々…」
「あなたはヒーローなの?ヒーローといえば、私の若い頃に、キャプテン・アメリカという人がいたわよ」
「キャプテンをご存知ですか?私の亡き父の知り合いでした」
「あら、まあ。トニーは凄い方なのね」
感心したように息を吐いたペッパーの祖母だが、ひとしきりトニーの素性を知ったところで、次に知りたいのは彼が孫娘のことを本当に愛しているのかということだった。
「ジニーとはどこで出会ったの?」
まずは差し障りのないことから尋ねると、トニーはペッパーをチラリと見ると口を開いた。
「ヴァージニアさんは私の秘書なんです。彼女と出会ったのは10年程前ですが、彼女はずっと献身的に私を支えてくれました。そして私に本当の愛を教えてくれたんです。ペッパーは…ヴァージニアさんは本当に素晴らしい女性です。彼女を妻とできて、私は本当に幸せな男です」
トニーの言葉にペッパーは思わず彼を見つめた。なぜなら、彼の言葉は余命僅かな祖母のために演じている夫としてではなく、彼自身の言葉のように聞こえたからだ。
目を潤ませたペッパーに一際優しい視線を送ったトニーは、ペッパーの祖母の手を握りしめた。
「ミセス・ポッツ。ご安心下さい。ヴァージニアさんのことは、私が命を懸けて守りますから…」
トニーの真剣な眼差しが全てを語っていた。彼はヴァージニアのことを心の底から愛し大切にしてくれていると…。
(彼になら…ジニーの事、安心して任せられるわ…)
誰も何も言わないが、自分の余命が僅かなことは分かっている。自分の人生には何の心残りもないが、唯一の心配事は最愛の孫娘のことだった。たった一人の肉親である自分亡き後の彼女の行く末が心配だった。だが、孫娘は彼女にとって最高の伴侶を見つけることができたようだ。
「トニー…いえ、スタークさん、お願いします。ジニーは…幸せにならなきゃいけないんですから…」
そう言うと、ペッパーの祖母は孫娘に目を向けた。
「ジニー、いい人と巡り会えたのね。おばあちゃん、安心したわ…。天国に行ったら、あなたのお父さんとお母さんに報告するわ。ジニーはステキな男性と結婚して、幸せに暮らしてるって…」

***
「トニー、ありがとう」
病室を出ると、ペッパーはトニーに向かって頭を下げた。
「何が?」
首を傾げるトニーに、ペッパーは小さく笑みを浮かべた。
「私の夫のふりをしてくれてありがとう。祖母も喜んでたわ…」
(ふりじゃなくて、本当にそうなっても…)
トニーは思わずポケットに忍ばせた小さな箱に触れた。
数か月前のあの事件で、彼女の存在の大きさにようやく気付いた。気持ちを直接確認した訳ではないのに、ふらりと立ち寄ったロンドンのとある宝飾店で婚約指輪を購入してしまった。
いつか彼女と思いが通じ合ったら渡そうと用意したのだが、いくら何でもこのタイミングでプロポーズすべきではないだろう。
そう思い止まったトニーは、ペッパーにしばらくロンドンに滞在するよう告げると、一人LAへの帰路へと就いた。

***
数日後。
葬儀も終わり、雨が降り始めたこともあり、参列者は足早に馴染みのパブへと向かったが、ペッパーは火葬場から立ち上る煙が見える場所から動けなかった。
両親亡き後、唯一の肉親だった祖母。ロンドンとLAは距離もあり、頻繁に会える訳でもなかったが、週に一度か二度の電話や時折送られてくる手紙と贈り物は、いつも心の支えだった。
だが、それも今日で終わり。これで本当に一人ぼっちになってしまった。
明るく楽しいことが大好きな祖母だったから、いつまでもめそめそ泣いていては怒られるかもしれない。だが、涙は止まらなかった。
誰かにそばにいて欲しかった。ただそばにいて寄り添ってくれる誰かが…。

と、雨が止んだ。
いや、誰かが傘を差し出してくれたのだ。
隣を見ると、アメリカにいるはずのトニーがいた。祖母が亡くなったことを電話で伝えた時、地方で開催されている展示会に出席していたはずなのに、こうしてこの場にいるということは、急いで駆けつけてくれたということなのだろうか…。
「トニー…」
祖母と対面した時のように、一際優しい瞳をしたトニーに堪らなくなったペッパーは、彼に抱きつくと泣き始めた。
震える背中にそっと手を回したトニーは、傘を離すとペッパーをぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫…大丈夫だ、ペッパー。私がいる…」
何度も何度もそう囁いたトニーは、しばらくして泣き止み顔を上げたペッパーの額に、無意識のうちにそっとキスを落とした。

と、その時。しとしとと降り続いていた雨が止み、空に大きな虹がかかったのだ。
「ペッパー、見ろ。虹だ」
ペッパーの涙を拭ったトニーは、空を見上げた。つられてペッパーも空を見上げたのだが、空には2つの虹がかかっていた。
幸運の印、ダブルレインボー。それは幸せになりなさいという祖母からのメッセージなのかもしれない。それも誰よりも愛し支えてくれるトニーと共に…。
「トニー、ありがとう…」
トニーの手を握ったペッパーは、傘を拾うと彼に手渡した。
「葬儀に来てくださった方はみんなパブへ向かったわ。祖母の思い出話をしましょうって。私たちも行きましょ?」
「それは君の上司として?それとも『夫』として?」
わざとニヤニヤと笑みを作ったトニーに、ペッパーはクスクス笑い声を上げた。
「お任せするわ。でも…」
何か言おうとしたペッパーだが、慌てて口を噤むとトニーの手を引っ張った。

(トニー、愛してるわ…)
今はまだ口に出すことができないその言葉を胸に、ペッパーはトニーと共に前へと歩き始めた。

7 人がいいねと言っています。

Cold fish

とあるパーティーで、見覚えのある女に言われた。
「トニーったら、あんな冷たいオンナのどこがいいの?」
「冷たい?誰が?」
訳が分からないというように、ポカンと口を開けたトニーだが、女は呆れたように肩を竦めた。
「ペッパー・ポッツのことよ。あなたのオンナって、今は彼女以外いないじゃないの」

『ペッパーが冷たい』
一体どういう発想でそういう結論が出てくるのだろう。不可解な表情を浮かべるトニーに、女はペラペラとペッパーの噂を語り始めた。

抜群のスタイルを持つ美人。
一瞬の隙も見せない完璧主義。
仕事に関しては、誰が相手であろうと容赦しない、血の通わない鉄壁の女。
しかも、あのトニー・スタークを堕としたのだから、仕事でもプライベートでも、交渉術は抜群の腕前なのだろう。

「で、ミス・ポッツは噂通り、ドSなの?かのトニー・スタークを尻に引いているんだから…相当なSなんでしょうね?」
そういえば、目の前にいる女性は記者だった。名前は確か………。
5秒ほど頭を捻ったトニーだが、一度だけ一夜を共にした記憶はあるが、名前を思い出せるはずもない。だが、彼女はいつも自分たちのゴシップネタを探しているはず…。
「悪いが、私は秘密主義なんでね」
これ以上ここにいれば、根掘り葉掘り聞かれるだろうと考えたトニーは、足早に会場を後にした。

(ペッパーが冷血人間だと?)
翌日、会議に出席していたトニーだが、退屈極まりない議題に、昨晩の女とのやり取りを思い起こしていた。
(ペッパーは完璧だ。それに完璧主義だ。それは私もよーーく知っている。仕事の手は抜かないし、交渉も上手い。だからこうやって会社を任せられる。だが……)

「……ニー………トニー!」
ハッと我に返ると、ペッパーが呆れたような視線を送ってきていた。
「どうした?」
ボンヤリしており話を聞いていないことがバレたと顔を引きつらせたトニーだが、そんなことはいつものことだから今更だろうと辺りを見渡すと、椅子に座るメンバーはすっかり入れ替わっているではないか。
目をパチクリさせているトニーに、頭を抱えたペッパーは溜息をついた。
「それはこっちのセリフ。会議は終わったわ。それに、あなたは次の会議には出なくていいでしょ?」
つまり、さっさと退室しろということだろう。
「そうだったな」
頭を掻いたトニーだが、何となく今日はこの場に留まりたい気がしたため、ダメ元で提案してみることにした。
「暇なんだ。それに、君と…」
『離れたくない』
その言葉を告げる前に、再び溜息をついたペッパーは視線を合わせることなく言い放った。
「私は忙しいの。これから会議が5つもあるの。だから、用がないなら、帰って頂戴」
付け入る隙がないとは、まさにこのことだろう。あまり機嫌を損ねると、後が面倒なことは身を以て知っている。
「…あぁ…そうだな」
やれやれと首を振ったトニーは立ち上がると、ドアに向かって歩き始めたのだが…。
「会長」
ペッパーに呼び止められ、気が変わったのかとトニーは目を輝かせて振り返った。
「どうした?」
が、トニーの側にやって来たペッパーは、一枚の紙とペンを差し出した。
「先程の議案の書類にサインを頂けませんか?」
分かってはいたが、完全にビジネスモードのペッパーに、トニーも合わせることにした。ペンを受け取ったトニーは素早く書類にサインをすると、姿勢を正し咳払いした。
「これでいいか?ポッツくん」
「はい。ありがとうございます」
ニコッと笑みを作ったペッパーは、それ以外何も言うことなく、席へと戻って行った。
と、何処からともなく、社員たちの揶揄が聞こえてきた。
「社長も相変わらず容赦ないよな」
「会長は恋人でしょ?あの態度は、ないんじゃないの?」
「結局は、地位と名声目当てなんじゃないの?」
「仕事ができても、俺、あんな冷たい女が恋人だったら、嫌だなー」
「社長ってSなんじゃない?会長が実はMで…」
ペッパーの耳にも届いているはずだが、彼女は顔色一つ変えない。真剣に話をしているペッパーを見つめながら、トニーはそっと会議室のドアを閉めた。

(ああいうのが、冷たいというのだろうか…)
車を運転しながら、トニーは先ほどのやり取りを思い返した。
ペッパーは仕事に対して非常に厳しい。それは秘書だった頃から変わらない。そのため、どちらかというといい加減だった自分はよくペッパーに怒られていたし、そのせいでペッパーはよくイラついていた。
その厳しさ故、あの頃から実質社内を取り仕切っていたのはペッパーだったし、だからこそ、今こうやって彼女に安心して会社を任せているのだ。
ペッパーがああいう言い方をするの今始まったことではないし、それに関しては別に何も思わない。それに、互いに信頼し合ってあるからこそ、今の関係を続けているのだと思うのだが、他人から見れば自分たちはそういう風には見えないのだろうか。
(ペッパーだって、2人きりになると可愛いんだぞ?)
そう声を大にして叫びたいが、自分にしか見せないペッパーの姿を大衆の前に晒そうとは思っていないので、やれやれと首を振ったトニーは音楽のボリュームと共にスピードを上げた。

***
その夜。
リビングのソファーで、コーヒーを飲みながら寛いでいると、ペッパーがはぁとため息を付いた。
「ねぇ、トニー…。私って…冷たいのかしら…」
甘えたようにトニーの肩に頭を乗せたペッパーは、いつになくしょんぼりとしている。
「どうしたんだ、急に」
さては、今日の一件を気にしているなと気づいたトニーは、ペッパーの肩を抱き寄せると髪を撫でた。
「今日もみんなの前で、あなたに用がないなら帰ってって言っちゃったでしょ?」
顔を上げたペッパーは、トニーを見つめると優しく髭を撫でた。
「ごめんなさい。もう少し、あなたに優しくしないとって分かってるのよ。でも…みんなの前だと恥ずかしくて…」
申し訳なさそうに目を瞬かせたペッパーにキスをしたトニーは、彼女を膝の上に乗せた。
「なぁ、ハニー。君は冷たくなんかないさ。確かに今日は少しばかり周りが驚いていたが…。だが、君は仕事に誇りを持っている。仕事だけではなく、君は何事にも全力で、それも真面目に取り組んでいる。君が本当は心優しく美しく、完璧な女性であることは私が一番よく分かっている。だからいいじゃないか」
トニーの言葉に目にうっすらと涙を浮かべたペッパーだが、小さく頷くと彼にギュッと抱き付いた。
首筋に唇を滑らせたトニーは、チュッと音を立てて印を付けると、甘ったるい声で囁いた。
「こういう甘えてくれる君を見れるのは、私だけの特権だ」
「そうよ。あなたにしか見せるつもりはないから」
顔を見合わせた2人だが、クスクス笑い声を上げると、キスの続きを始めた。

***

数日後。
トニーはまたしても退屈な会議に出席していた。あまりに退屈なので、眠気覚ましにスタークPadでアーマーをデザインしているうちに、会議は終了。
「…ニー……トニー」
何度かペッパーに名前を呼ばれ、ようやく気付いたトニーは可愛らしく睨みつけてくるペッパーに手を振ると、立ち上がった。
先日と同じやり取りが聞けるぞというように騒めく社員に気付いたペッパーは、立ち去ろうとしているトニーを呼び止めた。
「待って」
振り返ったトニーに小走りで駆け寄ったペッパーは、
「忘れ物よ」
と言うと、唇にキスをした。そして
「愛してるわ」
と、小声だが2人きりの時にしか出さないような甘ったるい声で囁いたペッパーに、室内はシーンと静まり返った。
予想外のペッパーの姿に、次の展開を固唾を飲んで見守っている社員を見渡したトニーは、ペッパーの腰を抱き寄せると、今度は自分から唇を奪った。
「知ってるさ。私も君のことを愛してるから…」
頬を真っ赤に染めたペッパーにもう一度キスをしたトニーは、手を振りながら会議室を後にした。

***
Happy Birthday Gwyneth!

付き合い始めのトニペパ

最初にいいねと言ってみませんか?

Cupid of love

とある国に3人の美しい娘がおりました。中でも末娘のペッパーの美しさは、言葉では表せないほどです。その美しさを一目見ようと、たくさんの人々がこの国にやってきました。そのためこの国の城主の妻であるマリアを訪れる人も少なくなり、ペッパーはマリアの嫉妬を買ってしまいました。
「私は国の美人コンテストで優勝してハワード様に選ばれ、国中の人間は私が世界一だと言っていたのに!それなのに、今やあのペッパーという娘のことばかりじゃない!」
きっとその娘は美貌を武器に男を垂らし込んでいる悪女に違いない。キーっとハンカチを噛み締めたマリアは、息子であるトニーを呼びました。
「あのペッパーという娘を始末しなさい」
マリアの息子、つまりこの国の王子であるトニーは、大の女好き。ですからペッパーの噂ももちろん知っていました。一度是非お相手願いたいものだと機会を伺っていましたが、身分の問題もあり、迂闊に手を出せなかったのです。それが母親の命令とはいえ、会えることになったと、トニーは二つ返事で了承するとペッパーの家へ向かいました。

闇に紛れてトニーはペッパーの寝室に入りました。寝ている彼女は美しく、トニーはそのあまりの美しさに自分を抑えることができませんでした。始末なんてとんでもない。このままお持ち帰りしたいくらいだ…。そう思ったトニーですが、母親の命令は絶対です。今すぐには連れて帰れないのなら、せめて口付けだけでも…と、トニーはペッパーの額にキスをしました。するとペッパーが目を覚ましてしまいました。暗闇に誰かいることには気づきましたが、姿は見えません。ですが先程のキスの感触は忘れ難く、2人はお互いの存在を知らぬまま恋に落ちてしまったのです。

ところで、ペッパーの姉たちは、すでに結婚していました。が、マリアの不興がたたって、誰もが誉めたたえる美しさを持ちながらも、誰もペッパーにプロポーズしなかったのです。ペッパーの両親は心配のあまり、マンダリンという占い師の元へ彼女を連れて行きました。
「ペッパーは人間の誰とも結婚できない。山の頂きに連れて行き、そこに置いていきなさい。山の怪物が彼女と結婚するだろう」
この国ではマンダリンの占いは絶対です。悲しみながらもペッパーの両親は、婚礼衣装を着させてペッパーを山に連れていったのでした。
ところがこのマンダリン、とある事件で偽物だとばれ、トニーに弱みを握られていました。つまり先程の占いは全てトニーの指示だったのです。そうとは知らないペッパーは、山の中に一人ぼっち。暫くは悲嘆に暮れていましたが、山の美しさに癒やされ落ちついてきました。そして崖から回りを眺めていると、突然ローディーという男性が現れました。厳つい甲冑のような物を着た彼は、ペッパーに向かって一礼すると、彼女を抱き空高く飛び上がりました。そしてペッパーを美しい森に連れて行きました。
その森には立派な宮殿と澄んだ泉がありました。ペッパーがその家に入っていくと、突然どこからともなく声が聞こえました。
『ペッパー様、私はジャーヴィスと申します。ここにあるものはすべてあなた様のものです。何なりとお申し付けください』
どこから声がするのか全く検討も付きませんが、ある意味度胸の座っているペッパーは、しばし宮殿の中を散策すると、湯浴みし用意されていた夕食を食べました。お腹が満たされたペッパーは、指示された寝室へ向かうと、ベッドに潜り込みました。しばらくして、寝室に誰かが入ってきた気配がし、優しい声が聞こえました。
「私がお前の夫だ。しかし、絶対に、ぜーったいに、私を見てはダメだぞ!」
鼻息荒く告げた彼女の夫は、ベッドに潜り込むとペッパーを抱きしめました。力強く優しい腕に抱かれたペッパーはすっかり安心してしまい、その声の主…つまりはトニーとともに幸せに暮らし始めました。

***
幸せに暮らしていたペッパーでしたが、ふと思い出したのは両親や姉たちのこと。きっとみんなは私が山の怪物に食べられたと思っているはず。だけど私がこうして、幸せに暮らしていることを知って欲しい……。そう思ったペッパーは、夜になりやって来た夫に頼みました。
「お願いします。お姉様たちに会わせて下さい」
騙して連れてきたようなものなのです。もしペッパーが生きていることが母親の耳に入れば、どうなるか分かりません。ですが結局のところペッパーには甘いトニーですから、しぶしぶながらこの願いを聞き入れました。
数日後、ペッパーの2人の姉はローディーに連れられ宮殿にやって来ました。姉たちはその立派な宮殿の外観に驚き、そして中に入っても立派な家具や調度品にも感嘆しました。
(どうして末っ子のあの子が一番良い暮らしをしているの?!)
もちろん声には出しませんが、2人の姉は嫉妬心を抑えることが出来ません。
「御主人は何をされているの?」
これまた豪勢な客間で、2人の姉はペッパーを質問攻めにしました。
「昼間は狩りに出ていますが、毎日夕方にはお帰りになられます」
と、トニーに教わった通りにペッパーは答えます。ですが、
「そんなはずはないでしょ?毎日狩りになんか行くはずがないわ」
と、姉も負けてはいません。姉の迫力に負けたペッパーはとうとう
「実は何も知らないの」
と、白状してしまいました。
思った通り、彼女は所詮夜だけのオンナなのよと鼻で笑った姉たちは嫌がらせの質問をしました。
「マンダリン様の占いでは、怪物がお前の夫になるんでしょ?夜しか姿を見せないなんて、大蛇に違いないわ!お前を太らせてから、食べてしまうのよ」
「今夜、ナイフと明かりを用意して、確かめてみた方がいいわ。大蛇だったら、その首を切っておしまいなさい!」

言われてみれば、名前も名乗らず、1度も姿を見た事がないなんておかしい。ベッドの中で抱かれる時だって、彼は1度も顔を見せたことはないのだから…。
姉たちの言葉にペッパーもだんだん不安になりました。そこでその夜、彼女はこっそりランプとナイフを持って寝室に入りました。
愛し合った後、トニーが寝入るのを待ったペッパーは、手にナイフを持ち、ランプを掲げました。ですが、そこにいたのは大蛇や怪物などではない、1人のハンサムな男性でした。
(あぁ…やっぱり!思っていた通り、世界一素敵な方だわ!)
一目で恋に落ちてしまったペッパーですが、その神々しい美しさに動揺し、ランプの熱い油をトニーの肩に落としてしまいました。
「熱っ!!!」
あまりの熱さに飛び起きたトニーですが、見ると眠っていたはずのペッパーが、やけにキラキラした瞳で自分を見つめているではありませんか。
「ペッパーよ、私の姿は見てはならぬと約束したではないか」
その約束はトニーにとって、もうどうでもいい約束だったのですが、約束は約束です。彼女がきちんと守ってくれなかったことを悲嘆したトニーは、アーマーを呼び寄せると窓から夜空に飛んで行ってしまいました。

「あぁ…私はどうして約束を破ってしまったのかしら…」
そのまま泣きながら夜を明かしたペッパーですが、トニーは帰ってきません。その後、ペッパーはトニーを探しましたが、見つかるはずもありません。
帰るところもないペッパーは、一先ず姉たちの所に行きましたが、そこで夫が戻って来ないことをうっかり話してしまいました。姉たちは表面上は心配しましたが、『これはチャンス!今度は私が奥さんになれるかもしれない』と思いました。そこで2人揃って山に行ったのですが、足を滑らせ崖から落ちて死んでしまいました。

2人の姉も戻って来なくなり、ペッパーは再びトニーと暮らした宮殿へやって来ました。そこでペッパーはジャーヴィスからトニーの正体含め、事の顛末を教えられたのです。
『トニー様は城に戻られて、傷の手当をされています。ペッパー様がご存命であり、トニー様と暮らされていたことはマリア様の耳にも届いております。罰としてトニー様はお城から出ることを禁じられています。あの時衝動的に飛び出してしまったが、本当なら一刻も早くペッパー様の元に戻りたい。だからこのことを伝えて欲しいと、毎日のようにトニー様は言われています』
彼女の夫…つまりこの国の王子であるトニーは、自分のことを求めている。そう感じたペッパーは、どんなお咎めでも覚悟しようと誓うと、城へ向かいました。
城ではこの国の王妃であり、トニーの母親であるマリアが待ち構えていました。

ところでこのマリア、今回の一件を密かに喜んでいました。というのも、息子であるトニーはいつまで経っても女性の尻を追いかけており、誰かいい人が現れて落ち着いてくれないかしらというのが、ここ数年のマリアの悩みの種でした。ですが、その女性が突然現れたのです。それがあのペッパーというのに最初は難色を示したマリアですが、ジャーヴィスから2人の日々の暮らしを聞くと、ペッパーという娘は想像していたような悪いオンナではないのかもしれないと思い始めたのです。ですが、ペッパーのことを疎んでいるという噂が立っている以上、嬉嬉として優遇する訳にはいきません。それに彼女のトニーに対する思いが本物なのかも厳しく確かめなければなりません。
「何でもいたしますので、どうかお許しを」
とマリアと対面したペッパーは必死でお願いしました。
「恥知らずな娘ですこと!トニーはいまだ傷が治っておらず、寝室にこもりっきりなのよ!本来ならばあなたは極刑です。ですがトニーはあなたのことを大切に思っているようです。ですからあなたに3つの試練を与えます。これを無事クリアすれば、トニーと一緒になることを許します」
マリアの言葉にペッパーは、大きく頷きました。何としても試練をクリアして、トニーに会いたい。ペッパーの思いはただそれだけでした。

***
1つ目の試練、それは食料庫に山積みになった小麦、大麦、えんどう豆などを、夕方までにそれぞれより分けること。
自分の背の高さの何倍もある山を前に、ペッパーはどうしていいか分かりませんでした。夕方までにより分けるなんて無理に決まっている…。でもこの試練を乗り越えなければ、トニーに会うことはできないのだ。
「少しずつするしかないわよね…」
跪いたペッパーは、笊いっぱいに穀物を取ると、一つずつ選別し始めました。
これを見ていたのはトニー。ペッパーが城にやって来て、母親が無理難題を出したと聞いたトニーは、飛んでやって来たのです。ですが、自分が手伝う訳にはいきません。一人で奮闘しているペッパーを何とかしてやりたいと思ったトニーは、友人であるスコット・ラングの元へすっ飛んでいきました。
事情を話すと、スコットはトニーの頼みならと、快諾してくれました。このスコット、実はアリを自由自在に操れるのです。アントニーというアリに何やら指示を出すと、そのアリは大勢の仲間を連れてペッパーのいる倉庫へ向かいました。突然押し寄せてきた大量のアリに悲鳴を上げたペッパーですが、アリたちはあっという間に山を選別してくれました。
「もしかして、トニー様が助けて下さったの?」
姿は見えないトニーですが、その心遣いに感謝したペッパーは、早速マリアに報告に向かいました。
「では、次の試練よ…」
と、ペッパーに第2の試練を告げたマリアですが、彼女が姿を消すとため息を付きました。
「全くトニーったら…。放っておけなかったのは分かるけど、ママはアリが嫌いって言ったでしょ!」

第2の試練は羊毛を刈ることでした。
「森の水辺にいるヒツジの毛を取ってきてくださる?あのヒツジの毛は高価なの」
ヒツジの毛なら何度か刈ったことがあります。これなら簡単だわと川へ向かったペッパーですが、そこにいたバートンと名乗った農夫は顔を顰めました。
「あんた、ここのヒツジの恐ろしさを知ってるのか?陽の登っている午前中、ここのヒツジたちは残忍だ。群れに近づけば何をされるか…。だが、真昼時になるとヒツジたちも木陰に入り、昼寝する。その時がチャンスだ。川を渡りヤブや木立についた羊毛を集めろ」
そんな恐ろしいヒツジだとは思いもしなかったペッパーは震え上がりましたが、面識もないのに親切に教えてくれたバートンの手を握りしめました。
「まぁ、ご親切にありがとうございます!」
ニッコリと笑ったペッパーは可愛らしく、バートンは思わず顔を赤らめました。手を振りながら歩いていくペッパーに、バートンはヤレヤレと肩をすくめました。
「親切にしないと、後でトニーに殺されるからな…」

バートンに教わった方法で、ペッパーが羊毛を集めまくりました。そして大量の羊毛と共に帰ってきたペッパーに、マリアは思わずニンマリと微笑みました。
(あらあら、ペッパーちゃんったらやるわね。どうせトニーが助けたんでしょうけど。でもこれで可愛らしいケープを作らせましょう。ペッパーちゃんとお揃いのね!)
ですが、そんなことを考えていると表情に出さないマリアは、ペッパーに最後の試練を告げました。

第3の試練は、今まで以上に難関でした。
「アスガルドのフリッガ様からお肌のツヤが出る化粧品をもらってくること」
ここにきて、ペッパーはついに自分の死を覚悟しました。生きたままでは、神の国アスガルドへは行けないと考えたからです。そこでペッパーは高い塔から身を投げ、神の国へ行こうと決心しました。そしていざ塔を登ったペッパーですが、そこへ聞きなれぬ声が聞こえてきました。
「哀れな不幸な娘よ、なにゆえ、そのような生涯の閉じ方をするのか?今までだって、奇跡的に助けてもらったではないか!」
どこから聞こえるのかとキョロキョロしていると、突然すぐそばに雷が落ちました。あまりの眩さに目を閉じたペッパーですが、再び目を開けるとハンマーを振り回しながら空に浮かぶ男が目の前にいるではありませんか。男はソーと名乗り、自分はフリッガの息子だと告げました。事情を話すとソーは少し待つようペッパーに告げると、小さな箱を手に戻って来ました。どうして親切にしてくれるのかと尋ねると、ソーは笑って答えました。
「スタークの大切な女性を邪険にする訳には行かぬ。だが忠告しておく。その箱は決して開けてはならぬぞ!」
そう言うと、ハンマーを掲げたソーは稲光と共に姿を消しました。

こうして、ペッパーは無事帰ってくることができました。が、危険な試練が終わったと思うと、ホッとした彼女は心にスキが生まれました。
「少しくらいなら頂いてもいいかしら?これからトニー様にお会いするんですもの。美しい私を見て頂きたいわ」
そう思うと、どうにも止まりません。忠告されたにも関わらず、ペッパーはとうとう箱を開けてしまいました。実はその箱は、『眠りの箱』だったのです。突然猛烈な睡魔に襲われたペッパーは、その場にパタリと倒れてしまいました。
「ペッパー!」
ペッパーが地面に倒れる寸前、どこからともなくトニーが飛び出してきました。実はペッパーを心配するあまり、トニーはずっと跡をつけていたのです。死んだように眠るペッパーに、トニーは箱の中身が何か気が付きました。トニーが急いで箱を閉じ、ペッパーの唇にキスをすると、彼女はゆっくりと目を覚ましました。
「まぁ、トニー様」
目を覚ますとトニーにキスをされていたのですから、ペッパーは真っ赤になると恥ずかしそうに顔を隠しました。よくよく考えれば、こんなに明るい場所でハッキリとお互いの顔を見たのは初めてです。
「ペッパー、お前は大胆な女性だな。だが、純粋で健気なお前に惚れ直した。それに私に向けられる愛情も…。お前は母上の試練を見事成し遂げた。だがあの母上だ。もしやまた無理難題を押し付けるかもしれぬ。丁度父上が隣国から戻られた。母上を説得するよう父上に頼んでみよう」
ペッパーに何度もキスをしたトニーは、馬に飛び乗ると城へと向かいました。

トニーは父親であるハワードに二人の結婚を許してもらうようお願いに行きました。控えめで美しいペッパーをハワードは一目で気に入りました。ということで、ハワードはトニーにマリアを全力で説き伏せると約束したのですが…。
「ハワードったら!私がいつ反対したのよ!」
頬を膨らませたマリアは、ハワードを睨み付けました。
「だが、マリア。トニーや部下の話によると、お前はペッパーが美しいことを妬み、命を奪おうとしたばかりか、無理難題を押し付け困らせたそうじゃないか」
誰がそんな酷いことを…と言おうとしたマリアですが、その酷いことを実際にしたのは自分です。きちんと認めろと言わんばかりに腕組みしているハワードに、マリアはドレスの袖口を弄び始めました。
「命を奪おうとしたのは認めます。あの時は噂でしか分からないペッパーちゃんのことを疎ましく思っていました。ですけど、私がトニーをペッパーちゃんの元に向かわせなければ、あの2人は出会っていなかったんですよ!それにトニーが初めて恋に落ちたお相手なのよ。反対する訳ないわ!むしろ熨斗をつけてあの子にお任せしたいわよ!それに、無理難題を押し付けたのは、あの子達が本当に愛し合っているのか確かめたかったからです。私の計画は上手くいきました。ですから、あなた、私に…」
「もういい。とにかく、あの2人が一緒になることに異論はないな?」
これ以上喋らせれば、何を言い出すか分からない。妻を制したハワードは、自室で待たせてあるトニーとペッパーの元へ向かいました。
その後、トニーとペッパーはめでたく結ばれ、すっかり打ち解け、本当の親子のようにペッパーと仲良くなったマリアの仕切りで、歴史上に残るような盛大な結婚式が行われました。そしてすぐにペッパーとトニーの間には可愛らしい女の子が産まれ、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。

*****
ギリシャ神話「エロースとプシュケー」のパロです。フォロワーさんの『声のない召使ってジャーヴィスだよね』という呟きから神話にまで手を出してしまった有様です(;^ω^)
文章は多少改変していますが、こちらの「1話5分で読めるギリシャ神話」様を参考にさせて頂いてます。

2 人がいいねと言っています。