IM1直後設定。あの指輪にまつわるif話。
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退屈な3日間の会議が終わり、トニーは椅子の上で大きく背伸びをした。
向かいの窓からは、名所であるビッグ・ベンが見え隠れしており、こうやってせっかくロンドンまでやって来たのだから、何も明日帰国する必要はないだろう、この地で2、3日過ごすのも良いかもしれない…、と考えたトニーは、まずは彼の優秀な秘書であるペッパー・ポッツを説き伏せようと、彼女の姿を素早く探した。お目当ての彼女はすぐに見つかった。部屋の隅で電話をしている彼女だが、いつになく神妙な顔をしているではないか。髪を掻き分け、時折顔を悲しそうに歪める彼女は美しく、その横顔をボンヤリと眺めていたトニーだったが、思いの外見惚れていたようで、ペッパーがそばにやって来ても気づくことはなかった。
「社長、よろしいですか?」
ペッパーに肩を突かれ、ようやく我に返ったトニーは椅子の上で飛び上がりそうになったが、見惚れていたのを隠すように咳払いをすると慌てて姿勢を正した。
「どうした、ポッツくん」
わざとらしいくらいの咳払いに、いつもなら一言二言口に出すはずのペッパーなのに、心なしか目を潤ませた彼女はやや俯き加減で話し始めた。
「実は、明日から数日、休暇を頂きたいんです」
彼女も遊んで帰りたいのかと、本当に一瞬だが頭を過ったトニーだが、先程の様子から推測すると、おそらく並々ならぬ事情があるのだろう。それを聞いていいものか迷ったトニーだが、上司には話しておかねばならないと考えたのだろう、ペッパーは顔を上げるとトニーを見つめた。
「実は、祖母の具合が…かなり悪くて…」
ペッパーの祖母が健在であるとは知らなかった。彼女の両親は彼女が20過ぎた頃、事件に巻き込まれて他界したと聞いていたが…。
「君のおばあさんが?」
目を丸くしたトニーに、ペッパーは力なく頷いた。
「はい…。父方の祖母で、ロンドンに住んでいるんです…」
そう告げたペッパーの手は小さく震えており、彼女を一人してはいけないという思いがトニーの胸に襲い掛かった。
「私も行ってもいいか?」
思いもよらないトニーの言葉に、ペッパーは息を飲むと唇を震わせた。が、誰かに…それも心から信頼できる人にそばにいて欲しかったため、目を瞬かせたペッパーは小さく笑みを浮かべると、コクンと頷いた。
***
数時間後、トニーの運転する車で2人はロンドンの郊外にある病院へと向かったが、その道中、ペッパーは祖母についてトニーに話した。
祖父母は息子…つまりペッパーの父親が結婚後、ハネムーンで訪れた思い出の地であるロンドンへ移住したこと、祖父が他界した後も祖母はこの地へ留まり続けたこと。そして両親亡き後は、母方の祖父母はとうの昔に他界しており、両親も一人っ子だったため、今や祖母だけが唯一の身内であることを語り終えたペッパーは、小さく息を吐いた。
「3ヶ月前に自宅で倒れて…余命3ヶ月だと宣告されたわ。それからずっと入院してるの。それと…祖母は、私が結婚してると思い込んでるの。だから、トニー、もし祖母が失礼なことを言っても聞き流して頂戴」
そう言うと寂しそうに笑みを浮かべたペッパーだが、タイミングよく病院へ到着したため、2人は黙って病室へと向かった。
ナースステーションの前の病室がペッパーの祖母の部屋だった。担当医からもう数日だろうと宣告され大粒の涙を流したペッパーの肩をトニーはそっと抱き寄せた。
しばらくして落ち着いたペッパーは、無理矢理笑みを作ると病室へと入って行った。
「まぁ、ジニー!」
孫娘の訪問に、ベッドに横たわったペッパーの祖母は腕を伸ばした。その手を握りしめたペッパーは、ベッドサイドの椅子に腰掛けた。
「仕事でロンドンに来たから、おばあさまに会いたくなって…」
嬉しそうに頷いた祖母だが、入っていいものかと入り口に佇んでいるトニーに気づくと、パッと顔を輝かせた。
「あちらが、あなたの旦那様?」
「おばあさま、違…」
否定しようとしたペッパーだが、ツカツカとやって来たトニーは、満面の笑みを浮かべると、ペッパーの隣に腰を下ろした。
「初めまして、ミセス・ポッツ。ヴァージニアの夫のトニー・スタークです。トニーと呼んで下さい」
思わずトニーを凝視したペッパーだが、トニーがペッパーを肘で軽く小突いた。まるで『話を合わせろ』と言うように…。
「まあまあ、ジニーったら、凄くカッコいい方を捕まえたのね」
心の底から嬉しそうな祖母に、ペッパーはこの小さな嘘を突き通すことを決めると、トニーの手を握った。
「えぇ。素敵な人でしょ?」
繋がれた手を握り返したトニーはペッパーに向かって微笑むと、彼女の祖母にも微笑みかけた。
「ミセス・ポッツ。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。ですが、ようやくお会いできましたね」
孫娘の婿と念願の対面を果たしたのだ。ペッパーの祖母はいつになく饒舌だった。
「お仕事は何をされているの?」
「実業家…と言えばいいでしょうか。一応会社を経営しています。それから、ヒーロー活動を少々…」
「あなたはヒーローなの?ヒーローといえば、私の若い頃に、キャプテン・アメリカという人がいたわよ」
「キャプテンをご存知ですか?私の亡き父の知り合いでした」
「あら、まあ。トニーは凄い方なのね」
感心したように息を吐いたペッパーの祖母だが、ひとしきりトニーの素性を知ったところで、次に知りたいのは彼が孫娘のことを本当に愛しているのかということだった。
「ジニーとはどこで出会ったの?」
まずは差し障りのないことから尋ねると、トニーはペッパーをチラリと見ると口を開いた。
「ヴァージニアさんは私の秘書なんです。彼女と出会ったのは10年程前ですが、彼女はずっと献身的に私を支えてくれました。そして私に本当の愛を教えてくれたんです。ペッパーは…ヴァージニアさんは本当に素晴らしい女性です。彼女を妻とできて、私は本当に幸せな男です」
トニーの言葉にペッパーは思わず彼を見つめた。なぜなら、彼の言葉は余命僅かな祖母のために演じている夫としてではなく、彼自身の言葉のように聞こえたからだ。
目を潤ませたペッパーに一際優しい視線を送ったトニーは、ペッパーの祖母の手を握りしめた。
「ミセス・ポッツ。ご安心下さい。ヴァージニアさんのことは、私が命を懸けて守りますから…」
トニーの真剣な眼差しが全てを語っていた。彼はヴァージニアのことを心の底から愛し大切にしてくれていると…。
(彼になら…ジニーの事、安心して任せられるわ…)
誰も何も言わないが、自分の余命が僅かなことは分かっている。自分の人生には何の心残りもないが、唯一の心配事は最愛の孫娘のことだった。たった一人の肉親である自分亡き後の彼女の行く末が心配だった。だが、孫娘は彼女にとって最高の伴侶を見つけることができたようだ。
「トニー…いえ、スタークさん、お願いします。ジニーは…幸せにならなきゃいけないんですから…」
そう言うと、ペッパーの祖母は孫娘に目を向けた。
「ジニー、いい人と巡り会えたのね。おばあちゃん、安心したわ…。天国に行ったら、あなたのお父さんとお母さんに報告するわ。ジニーはステキな男性と結婚して、幸せに暮らしてるって…」
***
「トニー、ありがとう」
病室を出ると、ペッパーはトニーに向かって頭を下げた。
「何が?」
首を傾げるトニーに、ペッパーは小さく笑みを浮かべた。
「私の夫のふりをしてくれてありがとう。祖母も喜んでたわ…」
(ふりじゃなくて、本当にそうなっても…)
トニーは思わずポケットに忍ばせた小さな箱に触れた。
数か月前のあの事件で、彼女の存在の大きさにようやく気付いた。気持ちを直接確認した訳ではないのに、ふらりと立ち寄ったロンドンのとある宝飾店で婚約指輪を購入してしまった。
いつか彼女と思いが通じ合ったら渡そうと用意したのだが、いくら何でもこのタイミングでプロポーズすべきではないだろう。
そう思い止まったトニーは、ペッパーにしばらくロンドンに滞在するよう告げると、一人LAへの帰路へと就いた。
***
数日後。
葬儀も終わり、雨が降り始めたこともあり、参列者は足早に馴染みのパブへと向かったが、ペッパーは火葬場から立ち上る煙が見える場所から動けなかった。
両親亡き後、唯一の肉親だった祖母。ロンドンとLAは距離もあり、頻繁に会える訳でもなかったが、週に一度か二度の電話や時折送られてくる手紙と贈り物は、いつも心の支えだった。
だが、それも今日で終わり。これで本当に一人ぼっちになってしまった。
明るく楽しいことが大好きな祖母だったから、いつまでもめそめそ泣いていては怒られるかもしれない。だが、涙は止まらなかった。
誰かにそばにいて欲しかった。ただそばにいて寄り添ってくれる誰かが…。
と、雨が止んだ。
いや、誰かが傘を差し出してくれたのだ。
隣を見ると、アメリカにいるはずのトニーがいた。祖母が亡くなったことを電話で伝えた時、地方で開催されている展示会に出席していたはずなのに、こうしてこの場にいるということは、急いで駆けつけてくれたということなのだろうか…。
「トニー…」
祖母と対面した時のように、一際優しい瞳をしたトニーに堪らなくなったペッパーは、彼に抱きつくと泣き始めた。
震える背中にそっと手を回したトニーは、傘を離すとペッパーをぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫…大丈夫だ、ペッパー。私がいる…」
何度も何度もそう囁いたトニーは、しばらくして泣き止み顔を上げたペッパーの額に、無意識のうちにそっとキスを落とした。
と、その時。しとしとと降り続いていた雨が止み、空に大きな虹がかかったのだ。
「ペッパー、見ろ。虹だ」
ペッパーの涙を拭ったトニーは、空を見上げた。つられてペッパーも空を見上げたのだが、空には2つの虹がかかっていた。
幸運の印、ダブルレインボー。それは幸せになりなさいという祖母からのメッセージなのかもしれない。それも誰よりも愛し支えてくれるトニーと共に…。
「トニー、ありがとう…」
トニーの手を握ったペッパーは、傘を拾うと彼に手渡した。
「葬儀に来てくださった方はみんなパブへ向かったわ。祖母の思い出話をしましょうって。私たちも行きましょ?」
「それは君の上司として?それとも『夫』として?」
わざとニヤニヤと笑みを作ったトニーに、ペッパーはクスクス笑い声を上げた。
「お任せするわ。でも…」
何か言おうとしたペッパーだが、慌てて口を噤むとトニーの手を引っ張った。
(トニー、愛してるわ…)
今はまだ口に出すことができないその言葉を胸に、ペッパーはトニーと共に前へと歩き始めた。