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8.College! au

ヴァージニア・ポッツは走っていた。こんなに走ったのは何年ぶりだろうというくらい。
と言うのも、彼女はかなり急いでいたから。

ハーバード大に通う彼女は、大学間の交流セミナーのため、M.I.T.に行くことになった。3ヶ月という期間限定で、週に2度ゼミに入り、そこで講義を受けることになっている。
が、その大事な初日に、うっかり寝坊してしまったのだ。あと5分で講義が始まるというのに、彼女はまだ建物にすら辿り着いていなかった。

慣れない道を猛ダッシュしていたせいか、それとも慌てすぎて足元を見ていなかったせいか、ヴァージニアは段差に躓き、派手に転倒してしまった。
「痛ーっい!」
今日のために集めた資料は散らばるし、膝は擦りむいて血が出てるし、初日から散々だ。
慌てて散らばった荷物を掻き集めていると、誰かが手伝ってくれた。
「はい、どうぞ」
資料をまとめて渡してくれたのは、同じくらいの年齢の男性だった。
「大丈夫かい?」
手を差し出した男性は、心配そうに顔を覗き込みながら、ヴァージニアを立ち上がらせた。
「大丈夫です。ありがとうございます」
礼を言うヴァージニアに、
「結構段差があるんだ。気をつけて」
と言うと、男性は手を振りながら立ち去った。
笑顔が眩しい男性に、きっとここの学生さんね…と見惚れてしまったヴァージニアだが、我に返ると再び走り出した。

この交流セミナーは、自分の好きなゼミを選べるのだが、経営学を専攻しているヴァージニアが選んだのは、ロボット工学のゼミだった。これからの時代、A.I.やロボットが必要不可欠になるから学びたいと理由付けたのだが、実はヴァージニアには誰にも言っていない理由があった。それは、どうしても会いたい人物がいたから。
15歳でM.I.T.に入学し、17歳で首席で卒業、そして大学院に進学したという、現在18歳の超天才と言われる男…。彼の名はトニー・スターク。彼は有名だった。天才であると同時に、あのスターク・インダストリーズの御曹司でもあったからだ。そして彼は女好きということでも有名だったが、ヴァージニアはその辺りのことには全く興味はなかったので、顔は知らない。
だが、ヴァージニアは、同じ年のトニーがどれほど優秀なのか、肌で体感してみたかったのだ。
そこで、トニーが在籍しているゼミに希望を出してみた。が、誰も希望しなかったらしく、ヴァージニアは彼のいるゼミに入ることができたのだ。

走って走って走りまくったおかげで、ヴァージニアは時間ギリギリに到着することができた。額の汗を拭ったヴァージニアは呼吸を整えると、ノックをしドアを開けた。
が、部屋には誰もいなかった。
「あら?」
時間を間違えたのかと、メールを確認したが、日にちも時間も合っている。
もしかしたら時間ぴったりに始まらないのかもしれないと考え直したヴァージニアは、部屋の中で待つことにした。

部屋のあちこちには、珍しい形のロボットが沢山あった。どんなロボットなのかは分からないが、確かにここには自分の知らない世界が広がっていた。途端に今日からの講義が楽しみになったヴァージニアだが、突然バタバタと足音がし、ドアが勢いよく開いたので、驚いた彼女は飛び上がった。
「すまない!遅刻した!!」
部屋に駆け込んできたのは、何と先程助けてくれた男性だった。
「あれ?さっきの…」
男性は目をパチクリさせているが、ヴァージニアもヴァージニアで驚いた。まさかこんな所で再会するとは思ってもみなかったが、あの時少しだけ彼の優しさにときめいていた彼女は、偶然の再会に心の中で感謝した。

机の上に荷物を置いた男性は、部屋を見渡すと、やれやれと溜息を付いた。
「今日は俺の講義だから、あいつら逃げたな…」
「え??」
どういうことなのかと首を傾げたヴァージニアだが、男性が近づいてきたので、姿勢を正した。
「君は、ハーバードからの?」
「は、はい。ヴァージニア・ポッツです」
鞄の中から書類を取り出したヴァージニアは男性に渡した。それを眺めた男性は、ヴァージニアに向かって手を差し出した。
「俺はトニー・スターク。ここのゼミの院生をやってる」
会いたかった憧れの人物が目の前にいるのだ。ヴァージニアは目を輝かせるとトニーの手を握った。
「は、初めまして!短い間ですが、よろしくお願いします!!」
トニーの手をブンブン振り回したヴァージニアは満面の笑みで、可愛らしい彼女にトニーは頬を赤らめた。
「本当はさ、もっと大勢いるはずなんだけど。うちの教授、自分が講義するのは面倒だからって、俺に押し付けるんだ。で、学生はさ、俺の講義はサボるんだ。俺の方が年下だから、俺の講義は受けたくないんだってさ」
肩を竦めたトニーは、近くにあった椅子に座らせると、彼女の足元に跪いた。
「あ、やっぱり。擦り剥いてるじゃんか!ちょっと待ってて」
立ち上がったトニーは部屋の奥に向かうと、救急箱片手に戻ってきた。そしてヴァージニアの膝を消毒しバンドエイドを貼ったトニーは、満足げに頷いた。
「これでよし」
救急箱を片付けたトニーは、ヴァージニアの隣に腰掛けると、彼女に顔を向けた。
「で、何が知りたい?今日はさ、初日だし、ポッツさんが知りたいこととかやりたいことを教えて。それを元に、この3ヶ月で何をするか決めるから」
そこでヴァージニアは考えてきていた質問をまとめた資料を取り出した。山程ある質問にトニーは「すごいな…」と言いながら目を通した。そして資料を読み終えたトニーは、パソコンを開いた。
「よし。まずは、俺たちがどんなことを研究しているか教えるよ」

***
トニーの説明は分かりやすく、しかも面白おかしく、あっという間に時間は過ぎてしまった。
「今日は終わりにしよう。この後は?」
時計を見たトニーは、パソコンを閉じるとヴァージニアに尋ねた。
「今日は特に何も…」
今日は午後からも講義もないし用事もないヴァージニアは、何度か瞬きするとそう答えた。するとトニーはパッと顔を輝かせた。
「だったらさ、ランチでもどう?君もまだ質問したそうな顔してるし」
まだまだ聞きたいことは山のようにあった。そのため、トニーのこの有難い提案に、ヴァージニアも笑みを浮かべ頷いた。

トニーはヴァージニアを連れてカフェテリアに向かった。学内で一番大きなカフェテリアらしく、中は大勢の学生で賑わっていた。
「これがオススメ。めちゃくちゃ美味いんだ」
料理を取る間も、トニーはヴァージニアにずっと話しかけていたが、ヴァージニアは気づいた。カフェテリア中の女子学生が自分たちの方を見ていることに…。

「あの子、誰?」
「スタークくんとやけに親しそうじゃない?」

コソコソとそんな声が聞こえてきたが、ヴァージニアは聞かなかったことにしようと、トニーの後を付いて席に着いた。

ランチの間中も、ヴァージニアはトニー に質問し続けた。トニーは的確な答えをくれるのだから、2人の議論は白熱し、気づけばカフェテリアは閑散としていた。
いい加減お開きにしようと2人は荷物をまとめ始めた。
「次は3日後だっけ?」
「はい」
するとトニーはレポート用紙を破ると、何やら書き、それをヴァージニアに渡した。
「もしさ、何かしたいこととかあったら連絡して。用意しておくから」
渡された紙に書いてあったのは、メールアドレス。目をパチクリさせているヴァージニアに、トニーはクスッと笑みを浮かべた。
「俺の個人的なメアド。質問があったらさ、遠慮なく連絡してくれていいから」
ご丁寧にもウインクをしたトニーは、学外まで送ると、ヴァージニアの荷物を持ち歩き始めた。

***

3日後。今度は時間前に集まった2人だが、いるはずの学生は誰も来ず、ヴァージニアだけだった。そして前回同様、講義の後はランチを食べ、夕方まで2人は話し込んだ。

2週目も誰も来ず、一体どうしたのだろうかと、ヴァージニアはトニーに尋ねた。
「他の学生さん、3回もサボって大丈夫なの?」
瞬きしたトニーは、鼻の頭を掻いた。
「あぁ…そのことだけどさ…俺は君専属になったんだ」
「え?」
専属とはどういうことなのだろうかと、ヴァージニアはトニーを見つめた。すると彼は嬉しそうに笑みを浮かべているではないか。
「せっかくハーバードから来てくれてるんだから、マンツーマンで指導してあげろって。だから俺は君だけを教えていればいいってこと。君は君が知りたいことだけを勉強できるんだ」
そんな優遇されることになるとは思ってもいなかったヴァージニアだが、あのトニー・スターク直々にマンツーマンで教えてもらえるのだから、ニコニコと嬉しそうなトニーに、彼女もにっこりと笑った。

***

1月も経つと、恒例となったランチタイムには、2人はお互いのことも話すようになっていた。そして「トニー」「ジニー」と呼び合うようになり、すっかり意気投合していた。

ヴァージニアはトニーが天才たる故を身を持って実感しっぱなしだった。
「トニーって本当に凄いわね」
今日も感心したように告げると、トニーは照れたように鼻の頭を擦った。

***

そしてあっという間に3ヶ月が過ぎてしまった。
「今日が最後だな」
どこか寂しそうに呟いたトニーに、ヴァージニアもしょんぼりと首を垂れた。
トニーと過ごすこの時間は、ヴァージニアの中で大切な一時になっていた。憧れと尊敬の念を抱いていた彼を、いつの間にか男性として意識するようになっていたし、彼のことを好きになっていたのだから…。
だが、それも今日で終わり。彼との接点は今日限りで消えてしまうのだから…。
寂しさを振り払うように、ヴァージニアは無理矢理笑みを作った。
「すごく楽しかったわ。私の知らなかった世界を教えてくれたから…。トニー、ありがとうございました」
立ち上がったヴァージニアはトニーに向かって頭を下げた。トニーも慌てて軽く頭を下げたが、何も言わない。
最後なのだから、何か言葉を交わしたかったが、彼は一言も発しないのだから、ヴァージニアは諦めて帰ろうとした。
と、その時、ヴァージニアの腕をトニーが掴んだ。振り返ったヴァージニアは、ドキッとした。トニーはいつになく真剣な眼差しで見つめてくるのだから…。
ドキドキという鼓動の音が耳の奥に響き渡り、ヴァージニアは頬を赤らめた。すると何度も深呼吸をしたトニーが、ようやく口を開いた。
「あ、あのさ。よかったら、これからも会えないかな?」
一瞬どういうことかと考えてしまったヴァージニアだが、何度か瞬きした。
「お、俺…君のこと……」
「トニー……」
その続きは聞かずとも分かった。なぜならヴァージニアも同じ気持ちだから…。
耳の先まで真っ赤になったヴァージニアは、今や口から心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしていたが、ゴクリと唾を飲み込むと、トニーの言葉の続きを待った。
一方のトニーは、潤んだ瞳で見つめられているのだから、どうにも我慢出来なくなった彼は、ヴァージニアを抱きしめた。
ギュッとヴァージニアを抱きしめたトニーは、彼女の耳元で囁いた。

「好きだ。ジニーのこと…好きなんだ。だからずっとそばにいてくれ…」

いつもよりも低く甘い声に、ヴァージニアは胸がいっぱいになった。ヴァージニアの中で、トニーの存在もまた、かけがえのない存在になっていたから。
ヴァージニアがトニーの背中にそっと腕を回した。そして目を閉じた彼女は、トニーの胸元に顔を押し付けた。
「私も…。トニーのこと…大好きよ…」
ヴァージニアの言葉にホッとしたのか、ふぅと大きく息を吐いたトニーは、彼女の頭にそっとキスをした。
「よし、じゃあさ、早速ランチに行こう。でも今日は、いつものカフェテリアじゃなくて、遠出しないか?オススメの店があるんだ」
「うん!」
満面の笑みで頷いたヴァージニアの荷物を持ったトニーは、彼女と手を繋ぎ、部屋をあとにした。

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4.mafia! au

NYのスターク・インダストリーズといえば、世界屈指の軍事企業として名を馳せており、そのCEOであるトニー・スタークは、若くして才能溢れた人物だと、皆の憧れの的だった。が、彼にはもう一つの顔があった。それは、NY界隈を取り仕切るマフィアのボスという顔。マフィアと言っても、スターク家の者は皆品行旺盛で、争い事も起こすことなく、街中で起こる小競り合いを取り締まっているのだから、街の人々はスターク家のことを慕っている者が多かった。
が、最近になり、中西部からとある組織がNYへやって来た。ポッツという名の組織は、スターク家とは違い、荒っぽく諍いを良く起こした。街の者はスターク家に何とかしてくれと頼んだ。スターク家としても街の平穏を荒らす者は許せなかったため、トニーの命で昼夜問わず街をパトロールし始めた。が、ポッツ家の者は何かにつけてスターク家を目の敵にしたため、街中ではいざこざがよく起こるようになっていた。

そんなある日のこと。トニーは市長主催のパーティーに出席していた。
若く知的なトニーは昔から女性に非常にモテた。一夜を共にした女性は星の数程いるのだが、どうしたものか、生涯を共にしたい女性は一向に現れない。今宵も共に過ごす女性を探していたトニーだったが、一人の女性にぶつかってしまった。転倒してしまった女性を慌てて抱き起こしたトニーは、頭を下げた。
「申し訳ありません」
「いいえ、私もぼんやりしていたので…」
顔を上げた女性に、トニーは一目で魅了された。赤毛の美しい女性のオーシャンブルーの瞳に引き寄せられたトニーは、彼女から目が離せなくなった。
すると、女性は真っ赤な顔をして俯いた。
自分よりも随分年下の女性は、そのまま恥ずかしそうに立ち去ってしまい、名を聞くチャンスを逃したトニーは、ガックリと首を垂れた。するとそこに、ボディーガードのハッピーがやって来た。ハッピーは顔が広く、街中の者に精通している。そこでトニーは先程の女性についてハッピーに尋ねてみることにした。
「あれは…誰だ?」
するとハッピーは顔を曇らせた。
「ボス、あれはポッツ家のご令嬢のヴァージニアです」
ヴァージニア・ポッツ…スターク家とは敵対関係にある組織の一人娘…。つまり、絶対に関わってはいけない人物…。
「そうか…」
そう呟いたトニーは、彼女のことを忘れようとした。が、どうしても忘れられなかった。

***

数日後。工場への視察を終えたトニーは、社へ戻る車の中にいた。窓から外を眺めていたトニーは、道行く人の中に『彼女』の姿を見つけると、運転手に車を停めるよう告げた。
車から降りたトニーは、ヴァージニアの元へ向かった。

突然目の前に現れた男性…それは数日前のパーティーでぶつかったあの男性だった。
「あ、あなたは…」
ヴァージニアは頬を真っ赤に染めた。というのも、あの日以来、彼女もトニーのことが忘れられなかったから…。
笑顔を向けたトニーは
「こんな所で奇遇ですね。よければ、お茶でもどうですか?先日ご迷惑をおかけしたお詫びに…」
と、ヴァージニアを誘ってみた。するとヴァージニアはますます頬を赤らめると、嬉しそうに頷いた。
付き添っていたハッピーは堪らずトニーに声を掛けた。
「ボス」
深入りするなというように顔を顰めたハッピーに、トニーは心配するなと肩を竦めた。

トニーは近くのカフェにヴァージニアを連れて行った。
コーヒーと紅茶を頼んだトニーは、ヴァージニアに向かって微笑んだ。
「自己紹介もまだでしたね。私はトニーです」
「ゔ、ヴァージニアです」

まだ18歳のヴァージニアにとって、35歳の随分と年上なトニーと話すこと自体が、気恥ずかしかった。だがトニーは優しく紳士だった。ヴァージニアの話に耳を傾け、真剣に聞いてくれた。そのため、1時間もすると、2人はすっかり仲良くなっていた。
気付けば数時間経っており、窓からは夕日が差し込んでいる。そろそろお開きにしようと店を出た2人だが、モジモジしていたヴァージニアが意を決したように口を開いた。
「あ、あの…またお会いできますか?」
「ヴァージニアさんが良ければ、是非」
トニーがそう告げると、ヴァージニアはパッと満面の笑みを浮かべた。
そのため2人は、1週間後の再会を約束し、別れた。

ヴァージニアを見送ったトニーは車に戻ったが、案の定、ハッピーは苦虫を潰したような顔をしているではないか。
「ハッピー、深入りはしない。大丈夫だ」
トニーはそう言ったが、ハッピーは不安だった。そこで彼は必ず店内に護衛を付けるとトニーに約束させた。

***

それから2人は週に一度、おしゃべりを楽しんだ。
3ヶ月も経つと、ヴァージニアはどうしようもないほどトニーに好意を抱いていた。
それはトニーも同じだったが、相手は敵対する一族の娘なのだから、彼は自分の素性を明かすことすら出来なかった。

2人はただ話をするだけだったが、半年程経った頃、ついにポッツ家の人間に2人の秘密の逢瀬がばれてしまった。
ヴァージニアがトニーに会っていることは、すぐにヴァージニアの父親であるポッツ氏に告げられた。激怒したポッツ氏は、娘を呼び問い正した。
が、ヴァージニアはトニーの正体を知らなかったため、トニーの素性を知った彼女は腰を抜かしそうになる程驚いた。が、自分の知っているトニーは心優しく素晴らしい男性だったため、彼女は父親に反論した。
「トニーは素晴らしい方です。確かに彼はスターク家の方かもしれませんが、関係ありません!私にとっては大切な方です!」
娘が彼に好意を抱いていると気づいたポッツ氏は、ますます激怒し、ヴァージニアは外出禁止になってしまった。

そんなことがあったとは知らないトニーは、いつものようにカフェでヴァージニアを待っていた。
だが、ヴァージニアは現れない。
何かあったのだろうかと心配になったトニーだが、連絡を取る術もないのだから、もう少し待ってみることにした。
とそこへ、一人の男性がトニーに近づいてきた。男の顔に見覚えはないトニーだったが、彼の醸し出す雰囲気は自分たちと同じだと気付いた。だが、自分の部下ではない…つまり、ポッツ家の人間だ。慌てて立ち上がったトニーに、男は無表情で告げた。
「トニー・スターク、ボスからの伝言だ。二度と娘に近づくなと…」
関係がバレたと目を丸くしたトニーは、懐からもしもの時のために携帯している銃を取り出そうとしたが、遅かった。

パンっと乾いた音が二度響き渡った。

呻き声を上げたトニーは、腹を押さえるとその場に崩れ落ちた。

キャー!と悲鳴が店内に響き渡り、離れた場所に座っていたトニーの腹心のローディは、慌ててボスの元に駆け寄った。
「ボス!」
外にいたハッピーも店内に駆け込んできた。
どさくさに紛れて、狙撃犯は姿を消してしまい、ハッピーとローディは血塗れでぐったりとしたトニーを病院へ連れて行った。

***

翌朝。
「ヴァージニア様…」
侍女のナターシャが、青い顔をして新聞片手にやってきた。手渡された新聞を開いたヴァージニアは、倒れそうになった。

『トニー・スターク、狙撃される』

一面の見出しの下には、血塗れで店内から運び出されるトニーの姿が掲載されていた。
トニーは意識不明の重体で病院に運ばれたと書かれており、ヴァージニアは涙が止まらなかった。
「どうして……」
新聞を持つ手が震え始めた。
トニーを狙撃したのは、おそらくポッツ家の人間…つまり、父親が命じたに違いない。
椅子に座り込んだヴァージニアは、新聞を握りしめると、声を上げて泣き始めた。
トニーとヴァージニアの関係を知っているナターシャは、彼の正体も最初から知っていたにも関わらず、何も言わずに陰ながら応援していたのだが、今こそ胸に秘めていた話をすべきだと、口を開いた。
「ヴァージニア様にはお話ししておりませんでしたが、スターク様とヴァージニア様が出会われて間もない頃、私はスターク様とお話ししたことがありました。向こうは初めからヴァージニア様のことをご存知でしたから、どういうつもりかとお尋ねしたんです。するとスターク様は言われました。『俺はヴァージニアがポッツ家の人間だから近づいたのではない。ヴァージニアのことが気になったから、彼女のことを知りたいと思ったんだ。だから俺も彼女の前ではトニー・スタークではなく、ただのトニーでいるつもりだ。ただのトニーとヴァージニアとして、仲良くなりたい…それだけだ。だから俺は彼女に自分の素性を明かすつもりはない』と…。スターク様は、ヴァージニア様のことを愛していらっしゃいました」
ナターシャの言葉に、ヴァージニアは顔を上げた。トニーのことを愛していたのは自分も同じだったから…。
ポロポロと大粒の涙を溢したヴァージニアは、しゃくりあげながら涙を拭った。
「私……トニーに…会いたい……。トニーにお会いして…父のしたことを謝りたい…。そばにいてあげたい…。ただのヴァージニアとして…彼のそばにいたいの…」
真剣なヴァージニアの眼差しに、ナターシャは腹を括った。
「分かりました。私にお任せください」
にっこり微笑んだナターシャは、早速動き始めた。

実はナターシャには、スターク家に仕えているクリント・バートンという知り合いがいた。以前街で困っていた時に助けてくれたのがクリントだったのだが、やけにウマがあった彼とはそれ以外、密かに交流を続けていたのだ。
クリントに連絡を取ったナターシャは、ヴァージニア脱出の綿密な計画を練った。
ポッツ家ではトニーが意識不明の間に一気にスターク家を潰そうと、屋敷中がバタバタとしていた。その騒々しさに紛れて、ナターシャは必要最低限の物だけを持つと、ヴァージニアを連れ、屋敷を脱出した。

待ち合わせの場所にはクリントともう一人見知らぬ男性がいた。
「ヴァージニア様ですね」
スティーブ・ロジャースと名乗った男性は、ヴァージニアとナターシャを車に乗せると、病院へ向かった。
「そっちはどうなの?」
助手席に座ったクリントにナターシャが尋ねた。
「ポッツ家に報復しようと皆いきり立ってる。だが、トニー様が…もし万が一自分に何かあっても迂闊に動くなと前々から言われていたんだ。だから今はブルースとソーが必死に皆を抑えている」
トニーはこの展開を薄々予見していたのかしら…と、思ったヴァージニアだが、程なくして病院へ到着し、彼女は身を潜めるようにトニーの病室へ向かった。
トニーは眠っていた。
青白い顔をしたトニーの手を握りしめたヴァージニアは、彼に呼びかけた。
「トニー…。あなたのそばにいるわ…。だから頑張って…」

***

ヴァージニアはトニーに寄り添い続けた。
その甲斐あってか、トニーは数日後目を覚ました。
自分の手を握りしめているのがヴァージニアだと気づいた彼は、どうして彼女がここにいるのかと目を白黒させた。するとヴァージニアは、トニーの頬を愛おしそうに撫でた。
「私…ポッツではなく、ただのヴァージニアになるって決めたんです」
トニーは困惑した。彼女はそれで良くても、彼女の父親は許さないだろうと考えたからだ。
が、ヴァージニアはトニーのそばを離れようとしなかった。ポッツ家もさすがに病院を襲撃することはできないようで、何事もなく2週間が過ぎた。
何とか動けるようになったトニーは家へと戻ってきた。ヴァージニアも勿論トニーに付いて行ったのだが、初めて入るスターク家に、彼女はビクビクしっぱなしだった。車椅子に乗ったトニーは彼女の手を握りしめると、トニーを出迎えるために並んでいる部下たちをジロリと見渡した。
「彼女はヴァージニアだ。私の大切な女性だ。よろしく頼むぞ」
皆の目が一斉に自分に向いたのだから、ヴァージニアはブルッと身震いしたが、
「ヴァージニアです。よ、よろしくお願いします」
と、ピョコンと頭を下げた。その可愛らしい仕草と、そして純粋無垢な瞳に皆引き付けられた。心優しいヴァージニアは、スターク家にあっという間に受け入れられ、可愛がられるようになった。

トニーは報復は絶対にしてはならぬと言い続けた。
ポッツ家もヴァージニアがいるためだろう、特に何も仕掛けてくることもなく、事件から2ヶ月が経った。この頃になるとヴァージニアはすっかりスターク家での生活にも慣れ、彼女は屋敷内を切り盛りし始めた。
料理が得意な彼女は時折腕を奮い、皆にご馳走を振る舞った。
トニーも一人で動けるようになったが、外を出歩くのは危険だと、家から出ることが出来なかった。そこで、会社の重役は家を訪れ、打ち合わせや会議を行ったため、ひっきりなしに人が訪れていた。

***

その日は久しぶりに誰も訪れる者もおらず、2人はトニーの書斎で地球儀を前に語り合っていた。生まれ育った街とNY以外は行ったことのないヴァージニアに、トニーは自分が見聞きした世界の話をした。目を輝かせて聞いているヴァージニアに、トニーは彼女に触れたいという欲望を、次第に抑えられなくなっていた。というのも、2人はまだキスすらしていなかったのだ。
「凄いですね。私も世界中の色々な所を旅してみたいです」
興奮気味に頬を赤らめているヴァージニアの手に、トニーはそっと触れた。すると、耳の先まで真っ赤になったヴァージニアがトニーを見つめた。潤んだ瞳で見つめられたトニーは、吸い寄せられるようにヴァージニアに唇を重ねた。触れる程度の優しいキスだったが、2人の心に火がついた。
「トニー……」
唇を震わせたヴァージニアは、おずおずとトニーのシャツを掴んだ。
「ヴァージニア……」
甘ったるい声で囁いたトニーは再び口づけした。先ほどよりも濃厚な大人のキスに、ヴァージニアはトニーにしがみついた。
「口を開け」
キスの合間に囁いたトニーはヴァージニアが唇を開くと舌を入れた。そして彼女の小さな舌に自分の舌を絡めた。
初めての激しいキスに酔ってしまったヴァージニアは、身体の力を抜くとトニーに身を預けた。お腹の奥が熱くなってきた彼女は、もじもじと太腿を擦り合わせた。
トニーは貪るようなキスを続けながら、彼女の背中に手を這わせた。

キスに夢中の2人だったが、ドアをノックする音で我に返った。
「ボス…」
青い顔をしたハッピーが何かを手に部屋に入ってきた。
「どうした?」
彼は黙ったまま箱をトニーに手渡した。蓋を開けたトニーは息を飲んだ。
何事かと箱の中を覗き込んだヴァージニアは、小さく悲鳴を上げた。
箱の中にはナイフの突き刺さったトニーの写真、そして血に塗れた写真には文字が書かれていた。
『ヴァージニアを返せ。さもなくば、今度こそ息の根を止める』
泣きながら震え始めたヴァージニアをトニーは抱き寄せた。
「心配するな。大丈夫だ。君には言ってなかったが、もう何十通と届いている」
トニーは狙撃されたばかりか、あれ以来ずっと脅迫されていたと知ったヴァージニアは震え上がった。
「で、ですが…。トニー、あなたが危険なんですよ!私が父を説得します。あなたと共になれるように、父を説得しますから…」
が、トニーは口をへの字に曲げると首を振った。
「ヴァージニア、今戻れば君は二度と外の世界に出ることはできない。ロマノフの情報だと、家に戻れば、君はイギリスに送られて、そこで名も知らぬ男と結婚する段取りらしい」
「え…」
自分の知らぬところで、事態はどうにもならないことになっていた。トニーが話してくれなかったのは、きっと心配かけたくなかったからだろう。トニーに守られるだけで何もできない自分が情けなくなったヴァージニアは、トニーに抱きつき泣くことしか出来なかった。
泣きじゃくるヴァージニアを抱きしめたトニーは、心を決めた。自分が解決するしかないと…。

翌日。
正装したトニーはポッツ家の前に立っていた。勿論誰にも言わずに来た。言えば反対されると分かっていたから…。
武器も何も持たず、一人で乗り込んできたトニーに、ポッツ氏は面食らった。
ポッツ家の者は、この機会に殺そうといきり立った。が、ポッツ氏はトニーの度胸に、話だけでも聞いてみようと皆を制した。

応接室に通されたトニーだが、壁際にはずらりとポッツ家の者が並んでいるのだ。辺りから漂う殺気に、さすがのトニーもゴクリと唾を飲み込んだ。
と、眼光鋭い男が部屋に入ってきた。
ポッツ氏だ。
トニーの正面に腰掛けたポッツ氏は、葉巻に火を付けると、ふぅと一息吐いた。
「スターク、一人乗り込んでくるとは、いい度胸だな」
ポッツ氏を真っ直ぐに見つめたトニーは、頭を下げた。
「ポッツさん、今日はトニー・スタークではなく、ただのトニーとしてやって来ました。お嬢さんの…ヴァージニアさんのことです。ヴァージニアさんと結婚させて下さい」
頭を下げたままのトニーに、ポッツ氏は溜息を付いた。
「どうして娘だったんだ?お前には大勢のオンナがいる。それなのに、どうして娘を誑し込んだんだ」
一人娘を奪われた怒りをぶつけるように、ポッツ氏はトニーを睨みつけた。が、トニーは負けじとポッツ氏を見つめた。
「ヴァージニアさんと出会ったのは、偶然でした。偶然出会い、惹かれました。あなたの娘さんと知り、一度は諦めようと思いました。ですが、諦められませんでした。街でヴァージニアさんを見かけ、堪らず声を掛けました。私の素性は明かさず…。ヴァージニアさんも自分から素性は明かしませんでした。私たちは、スタークでもポッツでもない、ただのトニーとヴァージニアとして、親交を深めました。そしてお互いに好意を持つようになりました。ヴァージニアさんは素晴らしい女性です。ポッツさんが娘さんのことを大切に育てられたのは分かります。ですが、彼女を愛する気持ち、それだけは誰にも負けません。初めてなんです。生涯を共にしたいと思った女性は、ヴァージニアさんが初めてなんです。ですから私は彼女のためなら命を掛けても良いと思ってます。お願いします。彼女のことは絶対に幸せにしてみせます。ですから、ヴァージニアさんとの結婚を許して下さい」
再び頭を下げたトニーに、ポッツ氏は感銘を受けた。
(この男はなかなか大した男だ。こいつになら、ヴァージニアを預けても大丈夫だ…)
そう思ったポッツ氏だが、目の前の男はトニー・スタークだ。敵対する憎きスターク家のボスだ。親としての自分は、この結婚を祝福できる。娘の選んだ相手だし、噂とは違い実直で真面目なトニーは、娘を生涯幸せにしてくれると感じたから…。だが、ポッツ家のボスとしては、絶対に許してはいけないのだ。
ポッツ氏の心は揺れた。親であることと、マフィアのボスであることの狭間で、彼の心は揺らぎ続けた。

(お父様…)
ヴァージニアの声が聞こえた。幸せそうに笑っている娘の姿が目に浮かび、ポッツ氏は親としての感情を抑えることができなくなってしまった。

そこでポッツ氏は心を鬼にした。
娘とは縁を切る。そうすれば娘は愛する男と幸せになれる。
そして自分は恨まれるように仕向けよう…。娘がこれから幸せに生きていくためには、自分が悪者になり、そして自分たちの影から…いや、存在から娘が解放される…それが必要だと…。

ポッツ氏は深呼吸をすると、トニーを見つめた。
「分かった。君の気持ちは良く分かった。だがな、君はスタークの人間だ。だから、簡単には娘はやれん。こうしようじゃないか。お前の腕を一本置いていけ。お前の腕と娘と交換だ」
その言葉に、トニーが顔を上げた。
青い顔をしたトニーは、ポッツ氏の言葉の真意を探ろうと、彼を見つめた。ポッツ氏は目を潤ませていた。そして彼は周りに気づかれないようにトニーに頷いた。
(娘を頼む…)
トニーはポッツ氏の真意に気づいた。娘の幸せを祈る彼の親心とその先の覚悟に…。
彼の思いを受け取ったトニーも、覚悟を決めると頷いた。
「それで許して頂けるのなら…」
静かな声で答えたトニーは左腕を差し出した。
ポッツ氏が部下に合図をした。すると数人の部下がトニーの身体を押さえこんだ。口に猿轡を噛ませると、左腕をテーブルの上に押しつけた。
「やれ」
ポッツ氏の命令に、部下が斧を振りかざした。

トニーがくぐもった悲鳴を上げた。
肘から下が転がり落ち、血が噴き出した。辺りは血で真っ赤に染まり、ポッツ氏の足元にまで血の海が広がった。
あまりの痛さに悲鳴を上げ続けるトニーだが、煩いとばかりに部下は腹を蹴り上げた。
何度も何度も腹を蹴られたトニーは咳き込み、口の端から血が流れ落ちた。

意識が朦朧とし始めたトニーは大人しくなり、そんなトニーの頭を掴んだポッツ氏は周囲に気づかれないように耳元で囁いた。
「すまない…許してくれ…」
そして表情を作り直したポッツ氏は、トニーの頭を机に叩きつけると、大声で告げた。
「お前は二度とここへは来るな!だか、報復したければ報復しに来い!いくらでも受けて立ってやる!それから娘に伝えろ!お前とは縁を切ると…。二度と戻ってくるなと…」

屋敷の外に蹴飛ばされたトニーは、倒れ込んだ。痛みが全身に襲いかかり、血は止まることなく流れ続けている。
何とか立ち上がったトニーは、這うようにして歩き始めた。が、彼は自分がどこを歩いているのかも定かではなかった。
やがて人の往来の激しい通りにやってきた。血を流しながら歩いている男性がトニー・スタークだと気付いた者が、トニーに駆け寄った。
「スタークさん!」
倒れかかった身体を受け止める者もいれば、
「誰か!スタークさんの家の者に連絡しろ!」
と、叫ぶ者もいた。
辺りは騒然とし始めたが、トニーの意識はそこでプツリと途絶えた。

その頃、トニーがいなくなったと屋敷の者は総出で彼を探し回っていた。
ヴァージニアも屋敷の前でウロウロと彼の帰宅を待っていたのだが、そこへブルースが走って戻って来た。
「ヴァージニア様!大変です!」
トニーに何かあったと悟ったヴァージニアは顔色を変えた。すると、ソーに担がれるようにトニーが姿を現した。
トニーの左腕からは血が流れ落ちており、彼の全身は血で真っ赤に染まっていた。そして彼の左腕は…肘から下がなくなっていた。

ヴァージニアは泣き叫びながらトニーに駆け寄った。だがトニーは気を失っており、グッタリとした彼は叫び声と怒声の響き渡る中、寝室へと運ばれた。

すぐにやってきた医師に、大量に出血しているが命に別状はないと言われ、一安心したヴァージニアだが、どうしてこんなことになったのかと、彼女は泣きながら彼に付き添った。

翌日。
ポッツ家から侍女がやって来た。ヴァージニアに仕えていたという彼女は、ポッツ氏からの贈り物だと大きな箱を抱えてやって来た。
トニーはまだ意識が戻っていないため、ヴァージニアが代わりに対応することになった。
ヴァージニアの姿を見た侍女は泣き始めた。
「お嬢様……」
侍女は泣きながら箱を開いた。
中には切り落とされたトニーの左腕が入っていた。そして切り刻まれたヴァージニアの写真も…。
侍女は泣きながら昨日の顛末を話した。
トニーがヴァージニアとの結婚を許してもらうために一人乗り込んできたこと、ヴァージニアの父親はトニーの左腕を斬り落としたこと、そしてヴァージニアとは縁を切ると宣言したこと…。
「旦那様が二度と戻ってくるなと…。私は追い出されました。お願いします。ヴァージニア様…。私をここへ置いて頂けませんか?お願いします…お願いします…」
年若い侍女に、ヴァージニアはトニーが意識を取り戻したら頼んでみる、だからそれまでは私のそばにいてと告げた。

侍女の話を聞いたヴァージニアは、父親を憎んだ。縁を切られたことではない。トニーの左腕を斬り落としたことを恨んだ。

***

3日経ちトニーが意識を取り戻した。
「トニー…どうして…」
何度尋ねても、トニーは何も語らなかった。ただ一言、
「これで全てうまくいくから…」
と、言うだけだった。

片腕になったトニーは、食事をするのも何もかも四苦八苦していたが、1ヶ月もするとそんな生活にも慣れたため、ヴァージニアと結婚式を挙げることになった。だが、街中で行えば襲撃される可能性もある。そこで屋敷で友人だけを呼んだこじんまりとした式を挙げることにした。
式の当日、ブライダルベールの鉢植えが届いた。送り主の名前はないその花の言葉は『あなたの幸せを祈る』。
「どなたが送ってくださったんですかね?」
可愛らしい鉢植えが気に入ったヴァージニアは、自分たちの寝室に飾ることにした。
だが、トニーだけは気づいていた。その送り主に…。

その夜。
「ようやく君をミセス・スタークにできる」
満面の笑みのトニーは本当に嬉しそうにヴァージニアを抱きしめた。
トニーに抱かれ、ヴァージニアは幸せ以外の何も感じることはなかった。ただひたすら、2人は求めあった。2人きりで愛し合っている時だけは、何もかも忘れることが出来たから…。

***

結婚式が終わってから、屋敷には頻繁に人が出入りするようになった。トニーも一日中、部屋に篭って話し合っていることが多かった。何も出来ないヴァージニアは、屋敷の中の雰囲気が少しでも明るくなるようにと、侍女たちと庭で花を植えたり、部屋に花を飾ったりした。時には菓子や料理を作り、部屋に篭りっきりの夫たちの元に届けた。そんな時トニーは、心配りを忘れない心優しい新妻のことを皆の前で褒め称えた。

が、トニーは何をしているのか、ヴァージニアには何も言わなかった。だが、ヴァージニアは薄々感じていた。彼女も組織の中で育ってきた娘だ。こういう時は何かが起こる前だと、彼女は気づいていた。

***

結婚式から2ヶ月ほど経ったある日のこと。
夕方になりトニーが戻ってきた。
土砂降りの雨の中戻ってきた夫はずぶ濡れで、出迎えたヴァージニアは身体を冷やさぬようにとタオルで夫を包み込んだ。
「風邪を引かれては大変です。お風呂の準備が整っていますので…」
妻を見つめたトニーは
「共に入ろう」
と告げると、ヴァージニアの手を引っ張りバスルームへと向かった。

バスタブの中でも、トニーは何も話さなかった。どこか緊張した表情の夫を和ませようと、ヴァージニアは夫の膝の上に座ると向かい合いキスをした。
「ねぇ、あなた…」
そう言いながらヴァージニアは、夫の下腹部のものに指を這わせた。するとトニーが…怖いほどの瞳をしたトニーがヴァージニアの手を掴んだ。あまりの力強さにヴァージニアはトニーを見つめた。するとトニーはヴァージニアを右腕で抱きしめた。
「ヴァージニア…今宵お前は俺を嫌いになるかもしれない……。俺を許してくれ…」
トニーの言葉にヴァージニアは気づいた。いや、とっくに気づいていた。今、この瞬間、何が起こっているかを…。
だが、自分は今はスターク家の人間だ。ポッツ家とは縁を切られた人間だ。
生涯トニーと添い遂げると誓ったのだ。
だからポッツ家で今起こっていることは、自分には無関係であると思わねばならないのだ。
それでもヴァージニアは涙を抑えることは出来なかった。父親と母親の姿が…楽しかった子供の頃の思い出が蘇ってきたから…。

そんな感情を振り払うように、ヴァージニアは小さく首を振った。
ヴァージニアは夫の左腕の付け根を撫でた。本来あるべきはずの肘から下は、自分の父親だった男のせいで失われたのだ。これだけは許せなかった。愛する夫は、生涯苦しまなければならなくなったのだから…。
「私はスターク家の人間です。ですから…大丈夫です…。あなたへの仕打ちを考えれば…当然の報いですから……。それに、あなたのことを嫌いになるなんてあり得ません。私はあなたに生涯を捧げました。あなただけを愛すると誓ったんです…。あなたがそばにいて下さるんですもの…。ですから私は大丈夫です…」
泣きながら無理矢理笑みを浮かべる妻をトニーは力強く抱きしめた。トニーの腕の温かさに、ヴァージニアは幼い頃の両親の腕の温もりを思い出した。途端に彼女の胸にどうしようもない虚無感と悲しみが襲い掛かった。

大丈夫だなんて、嘘だ。
平気な顔なんてできるはずがない。
自分の血を分けた両親、そして幼い頃から可愛がってくれた人々が、今この瞬間にも無残に命を絶たれているのだから…。
それも全て、目の前にいる男性が命じたから…。
だから、今日だけは、トニーのことが憎かった。

ヴァージニアは声を上げて泣き始めた。すると彼女の肩にポツリポツリと冷たいものが降り注いだ。
トニーは泣いていた。肩を震わせ、声を押し殺しトニーは泣いていた。
トニーは悲しんでくれているのだ…。トニーも苦渋の決断をしなければならなかったのだ…。
ヴァージニアはそれだけで十分だった。
先ほどまでの憎しみはきれいさっぱり消えてしまった。
後に残ったのは、深い悲しみだけだった。

トニーの背中に手を回したヴァージニアは、泣き続けた。

***

翌朝。
結局トニーは一睡もすることができず、妻の寝顔を見つめていた。
いくらポッツ氏の頼みとはいえ、この決断が本当に正しかったのか、彼はずっと自問していた。ヴァージニアを苦しめただけなのではないか…、彼女は本当は憎んでいるのではないか…。そんな考えをトニーは拭い去ることが出来なかった。

と、ノックの音と共にドアが開いた。
「ボス…」
振り返ると、ドアの隙間からスティーブの顔が見えた。
ガウンを羽織ったトニーは妻を起こさないように寝室を後にした。

「終わったか?」
静かに問うトニーにスティーブも頷いた。
「一人残らず始末しました。屋敷にも火を放ち、何もかも燃やしました」
黙って頷いたトニーだが、その表情は暗かった。スティーブやローディたち側近は、今回の経緯をトニーから全て聞いていた。『腕を切り落とし痛めつけられた』ことに対する報復として、ポッツ家は根絶やしにする…それは同時にヴァージニアを自由にすることでもあり、ポッツ氏の意向だった。だが、いくらポッツ氏の望んだこととは言え、表向きはトニー・スタークが命じポッツ家を皆殺しにしたのだ。おそらくトニーはヴァージニアにはそこまで話していないだろうし、これからも話す気はないだろう。ヴァージニアはトニーのことを恨むかもしれない。主人の心中を思うと、スティーブは胸が張り裂けそうになった。
「ヴァージニア様は……」
するとトニーは首を小さく振った。
「ヴァージニアは気丈だな…。自分はもうスターク家の人間だ…、俺にした仕打ちを思えば当然の報いだ…、だから大丈夫だと…。泣きながらもそう言った…。俺の方が心が折れそうだった…。」
ふぅと息を吐いたトニーは、スティーブの肩を軽く叩いた。
「全員、手厚く葬ってやれ」
「はい。すでに葬儀の手配もしております」
「頼むぞ…」
悲しそうに顔を歪めたトニーに、スティーブは懐から取り出した物を渡した。
「トニー様…これをヴァージニア様に…」
それは一通の手紙だった。
「ポッツ氏が…時が来たら娘に渡してくれと…」
「分かった…」
手紙を受け取ったトニーは寝室へと戻っていった。

それからヴァージニアはその件に関しては何も言わなかった。以前と同じように、皆に笑顔で接していた。ただ時々、彼女は窓の外を眺めては泣いていた。
そんな妻をトニーは黙って見守った。トニーも敢えて何も聞かなかったのだ。

***

それから3ヶ月経った頃、ヴァージニアは身篭った。
子が出来たと聞いたトニーは泣いた。
また一人家族が増えたと嬉し泣きした。
ヴァージニアも嬉しくてたまらなかった。
「お前の父と母も喜んでいらっしゃるだろうな」
トニーがそう言うと、ヴァージニアは顔を曇らせた。
「トニー、私には父も母もおりません」
あの日以来、ヴァージニアは頑なに両親の存在を拒否し続けた。何度か墓参りに行こうとトニーは提案したのだが、彼女はそれすらも拒否していた。
ヴァージニアはあの時の経緯を知らない。トニーも話す気はなかった。話したところで、ヴァージニアを余計に苦しめることになるかもしれないと、彼は話せないでいたのだ。
だが、彼女の両親…特に父親が誤解されたままというのも、トニーは許せなかった。そこで彼はあの日託された手紙を妻に渡すことにした。
「ヴァージニア、これを…」
トニーが差し出したのは、一通の手紙。『ヴァージニアへ』という文字は、亡き父親の筆跡ではないか。
目を丸くしたヴァージニアは夫を見つめた。するとトニーは悲しそうに笑みを浮かべた。
「あの日…お前の父が俺の部下に託したそうだ。時が来たらお前に渡すよう頼まれた」
そう言うと、トニーはそっと部屋を出て行った。

暫く手紙を見つめていたヴァージニアだが、封を切ると読み始めた。

『ヴァージニア。お前がこの手紙を読んでいる時には、父も母もこの世にはいないだろう。

お前が初めて恋をした相手が彼だと知った時、腹が立った。お前の相手がスタークだと知った時、どうしてあいつなのだと、腑が煮え繰り返る思いだった。だが、時が経つにつれ、悲しみも襲ってきた。どうしてこんな時代にお前は生まれてしまったのだろう…と。好きになった男と皆から祝福され結ばれる…そんな時代にどうして生まれなかったのかと…嘆いた。

お前が彼の元に行ってから、人伝いにお前の話は聞いた。お前はスタークの家で受け入れられ、可愛がられていると…。
父は安心した。お前は自分の手で幸せを掴み取ったのだと、正直安心した。

彼が一人でやって来た時、その度胸に感銘を受けた。そしてお前のことを愛していると話した彼は、嘘偽りのない瞳をしていた。
お前はお前のことを心から大切にしてくれる良い男と出会えたと、父は嬉しかった。彼にならお前を託せると安心した。

だかな、ヴァージニア。この世の中、そう簡単にはいかないんだ。
お前が愛した男は我々の敵対勢力だ。父が賛成しても快く思わぬ奴の方が多い。そういう奴らを力づくで抑えつけ、お前たちの結婚を許しても、いつか必ず反旗を翻す。おそらく父亡き後、トニーもお前も家族もろとも殺されるだろう…。
お前には…たった一人の娘であるお前には、幸せになって欲しかった。お前が掴み取った幸せを、壊されたくなかった。守りたかった。
だから父は悪者になると決めた。そしてポッツ家という存在を消すと決めた。ポッツ家を消すためには、スターク家に恨まれるのが一番だ。報復だと、一族諸共消されるのが一番筋が通っていると考えた。そのためにトニーの左腕を…。すまない。許してくれ。お前の愛する男に一生残る傷を残してしまったことを許してくれ…。

トニーは全てを理解してくれた。言葉にせずとも、彼は全てを分かってくれた。彼は自分の身を傷つけてでも、父の思いを受け止めてくれたんだ。
トニーを憎まないでくれ…。これは全て父が一人で決めたこと。彼はその思いを全て受け止めてくれただけだ。

トニーには本当に申し訳ないことをした。先程も書いたが、彼には多大なる代償を払わしてしまった。生涯不自由な思いをさせることになってしまった。何より彼の心を深く傷つけた。彼はポッツ家を惨殺した者として、歴史に名を残すことになってしまった。彼自身の心にも、生涯癒えない傷を深く刻み付けてしまった。あれ程までにまっすぐで心の優しい男に、父はとんでもない重みを一生背負わせてしまったんだ。
ヴァージニア、トニーに謝っておいてくれ。本来ならば直接謝罪せなばならないが、父にはそれはもう出来ぬ…。心からお詫びしたいと伝えてくれ…。そしてあの時、何も言わずに全てを受け入れてくれありがとうと伝えてくれ。

ヴァージニア、これで何もかもうまくいく。
お前はもう、ポッツ家という存在に縛られることもない。この世にはポッツ家という存在はないのだから…。

愛する男と共にお前は幸せに生きろ。
父と母のことは忘れてくれ…。

ヴァージニア…愛してる…。』

「お父様……」
涙が止まらなかった。
あの日、父親は娘である自分の幸せを守るために、そしてトニーはその幸せを受け止めるために、2人とも自らを犠牲にしたのだ。
2人がどれ程自分のことを愛し、そして考えてくれていたのだろうか…。見えないところで行われていたこととはいえ、あの時トニーを一瞬でも…そして父親をずっと恨んでいたことを、ヴァージニアは後悔した。

暫くしてトニーが戻ってきた。
真っ赤な目をした妻は泣き崩れており、トニーは黙って抱きしめた。ヴァージニアはトニーにしがみつくと声を上げて泣いた。

どれくらい泣き続けていただろうか。暫くしてようやく落ち着いた彼女は、しゃくり上げながら顔を上げた。
「トニー……ありがとう……」
どうして礼を言うんだ?というように眉をつり上げた夫に、ヴァージニアは手紙を差し出した。
「読まれました?」
トニーは首を振った。
「いや、読んではいない。それはポッツ氏が娘であるお前に宛てた手紙だ。だから俺は読むべきではない」
トニーにも是非読んで貰いたいと思ったヴァージニアは夫に手紙を渡した。
「父が…あなたに謝りたいと…。感謝したいと…。そう書いてあります。ですから、これはあなたにも読んでもらいたいです」
妻から渡された手紙に、トニーは目を通した。
トニーの目にも涙が浮かんだ。大粒の涙を流しながら読み終えたトニーは、それを丁寧に畳むと妻に返した。
「礼と謝罪は受け取れない。あの時あの決断をしたのは、俺自身が選んだ道だから…」
そう言いながらトニーはヴァージニアを抱き寄せた。
「だが、ここで改めて違う。君のことは俺が生涯掛けて守る。命を掛けて愛す…」
ヴァージニアは頷いた。新たに浮かんだ涙を隠すようにトニーの胸元に顔を押し付けたヴァージニアは、ようやく心が晴れ渡った気がした。

***

1年後。
トニーとヴァージニアの姿は墓地にあった。
『ポッツ』と刻まれた墓は訪れる者も少なく、寂れていた。
「暫く来れなくてごめんなさい」
そう言いながら墓を掃除したヴァージニアは、花束を置いた。
「お父様とお母様にお見せしようと、今日は連れて来たんですよ」
トニーがヴァージニアの横に腰を下ろした。夫の腕の中の赤ん坊の頬をくすぐったヴァージニアは少し膨らんだお腹に手を当てた。
「2人目はクリスマスの頃に生まれる予定よ。生まれたら、また会いに来ますね」
墓標に向かって微笑んだヴァージニアは、立ち上がった。
「お父様、お母様。私、幸せです。だから安心して下さいね」
そう言って笑ったヴァージニアは、トニーにキスをすると手を繋ぎその場を後にした。

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7.Bookstore! au

その本屋を見つけたのは偶然だった。
仕事帰りに立ち寄った本屋には、他では扱っていないような珍しい本が沢山揃っていた。
元来本好きなヴァージニア・ポッツは、その本屋がお気に入りの場所になった。

休日には必ず本屋を訪れた。
何冊か買い求め、休みになれば足を運んだ。
本屋の店員は自分と同年代の男性だった。
三度目に訪れた時、店員がヴァージニアに声を掛けた。
「よく来られますね。本がお好きなんですか?」
胸元のプレートには『トニー・スターク』とあった。人懐っこいトニーの笑みに、ヴァージニアも微笑み返した。
「えぇ、大好きなんです。ここは珍しい本が沢山揃ってますし、次は何を読もうか探すのが楽しくって。何かおすすめがありますか?」
「そうですねぇ…」
何事か考えていたトニーは、来週までに何冊か見繕っておくと、ヴァージニアに約束した。互いに名乗り合い、ヴァージニアは笑顔で店を後にした。

週末になり、ヴァージニアは本屋へと向かった。
「ポッツさん、いらっしゃい」
笑顔で出迎えてくれたトニーは、カウンターの下から本を取り出した。
「何冊か選んでおきましたよ」
カウンター横の椅子に案内したトニーは、ヴァージニアの前に本を置いた。
トニーは5冊選んでくれていた。
ミステリー小説に、歴史本、文芸作品に科学の読み物…。どれもヴァージニアは読んだことのない本だった。中でも目を引いたのは、写真集だった。世界中の星空を集めた装飾の美しい本に、ヴァージニアは釘付けになった。
「綺麗…。こんな素敵な本があるんですね」
パラパラとページを捲ると、見たことのない世界が広がっており、ヴァージニアはすぐに夢中になった。
「今この瞬間にも、本は沢山誕生しています。脚光を浴びる本はほんの一部です。人目に付くことなく、埋もれてしまう本も沢山あります。僕はそんな本を一冊でもいいから、誰かの元に届けたいんです。その本を受け取った人が幸せになる…そんな本を僕はここを訪れた人にお届けしたいんです」
ヴァージニアはトニーを見つめた。
そんなことは考えたことはなかった。それ故に、トニーの言葉はヴァージニアにとって新鮮だった。
「素敵ですね。スタークさんのような方に見つけてもらった本は幸せですね」
笑みを浮かべたヴァージニアに、トニーはドキッとした。彼は彼女の笑顔から目が離せなくなった。

それから毎週のように、ヴァージニアはやった来た。本の感想をトニーと語り合い、そしてトニーの選んだ本を買って帰る…。
彼の選んだ本は、どれもハズレがなく、ヴァージニアのお気に入りになった。そのため彼女の家の本棚は、さながら小さな本屋のようになっていった。

ヴァージニアは本を選んでもらうこともだが、トニーと話をすることを楽しみに、本屋に通うようになった。
ヴァージニアにとって、トニーは新しい世界を教えてくれる最高の友達だった。だが次第に、ヴァージニアは彼に惹かれていった。そのため半年経った頃には、ヴァージニアはトニーのことを心から愛するようになっていたのだ。トニーの方もヴァージニアに好意を抱いていた。だが、トニーはとある事情で、自分の思いを伝えることができなかった。

そんなある日のこと。
ふとした拍子に、お互いの手が触れ合った。2人は手を離すことが出来なかった。
トニーがヴァージニアを見つめた。真っ赤な顔をしたヴァージニアは、トニーから目が離せなかった。
「トニー……」
掠れた声でヴァージニアが囁いた。
「ヴァージニア……」
トニーが手を握ると同時に、ヴァージニアはそっと目を閉じた。
すると、トニーの唇が重なった。触れる程度のキスだったが、耳の先まで赤くなったヴァージニアは、身を乗り出すともう一度トニーにキスをした。
そして
「また来週…」
と言うと、恥ずかしそうに本で顔を隠し、パタパタと店を後にした。

いつも待ち遠しい週末が、この1週間は特に待ちきれなかった。
それなのに、急に予定が入り、その週末、ヴァージニアは本屋に行くことが出来なかった。結局ヴァージニアが再び本屋を訪れたのは、あのキスの日から3週間後のことだった。
ヴァージニアは走って本屋に向かった。彼に気持ちをしっかり伝えようと、ヴァージニアはトニーにプレゼントを用意していた。偶然見つけた、本の柄のネクタイ。きっと彼は気に入ってくれるだろうと、ヴァージニアは包みを抱きしめると、店に飛び込んだ。
だが、店にトニーはいなかった。
カウンターにはトニーではない、別の男性の店員が座っていた。
「すみません…トニー……いえ、スタークさんは?」
店員に尋ねると、彼は悲しそうに首を振った。
「彼は…辞めました」
「え……」
ヴァージニアはショックだった。どうして彼は何も言わずに急に辞めてしまったのだろうかと…。
「どうして……」
泣き出しそうな女性に、店員はピンときた。
「もしかして…ヴァージニア・ポッツさんですか?」
「は、はい…そうですけど…」
頷いたヴァージニアに、店員はカウンターの下から紙袋を取り出した。
「トニーからの預かり物があるんです。あなたが来たら渡して欲しいって…。お代はいりません。あいつからの…プレゼントです」
店員はそれ以外何も言わなかった。ただ、彼は悲しそうだった。

一体トニーに何があったのだろう…。
店を出たヴァージニアは、悶々とした気持ちのまま、家へと帰った。

家へ戻って来たヴァージニアは、早速紙袋を開けた。が、いつもと違い、本は1冊しか入っていなかった。いや、別の物も入っていた。一通の手紙が…。
ヴァージニアは震える手で手紙を開いた。

『ヴァージニアへ
君がこの手紙を読んでいる時、僕はこの世にはいないだろう。
半年前、君に初めて出会った時、僕は数ヶ月前に余命半年と宣告されていた。自分の人生が半年しかないと知った僕は、それまで勤めていた会社を辞めた。そして残りの半年は、自分の好きなことだけをして生きようと決めた。君と同じく、僕は本が好きだった。だからあの本屋に勤めることにした。そして一冊でも多くの本を、誰かの元に届けようと決めた。そんな中、君と出会ったんだ。
君のために本を選ぶ…それは僕の生きがいになった。痛みで泣きそうな時も、君のための本を選んでいると、不思議と痛みはおさまった。余命半年と言われたけど、それ以上僕は生きることができたんだ。

僕は君のことが好きになっていた。だけど僕は君に自分の思いを伝えることができなかった。もうすぐ死ぬと分かっているんだから、君に余計な悲しみを与えたくなかったんだ。だから、君とのキス、あれは僕の最初で最後の最高の思い出になった。あの瞬間、君と心が繋がった気がした。あれだけ怖かった死が、不思議と怖くなくなった。君みたいな素敵な女性と出会えたこと…僕の気持ちをほんの少しでも分かってくれた人がこの世で生き続けてくれるんだから…。
死を迎えようとしているのに、僕の心はとても穏やかだ。
全て君のおかげだ。
君のように素敵な女性に最後に出会えて、僕は本当に幸せだった。
ありがとう、ヴァージニア…。あの日偶然あの本屋に立ち寄ってくれてありがとう。

最後に君に送る本、何にしようか、今までで一番迷った。これが僕が君に勧める、最後の本になるから…。
僕が好きだった君の瞳…オーシャンブルーの君の瞳と同じ海の写真集にしたよ。

時々でいいんだ。これを見て僕がこの世にほんの少しだけ生きていたことを思い出して欲しい。そして苦しんでいる人、悲しんでいる人がいたら、君が好きな本を勧めて…。僕が君に救われたように、きっと誰かの助けになる本が生まれるから…。

トニー・スターク』

「トニー……」
涙が止まらなかった。
トニーがそんな状態だったとは知らなかった。知っていれば、もっとそばにいることができたのに…。彼に直接伝えたかったのに…。あなたのことを愛してると…。

まだ間に合うかもしれない。
そう思ったヴァージニアは、プレゼントの包みと本を抱きしめると、本屋へと急いだ。

店員は渋った。
ヴァージニアには居場所を教えないというのが、トニーとの約束だと、彼は話そうとしなかった。だが、ヴァージニアは何度も頼み込んだ。彼にどうしても直接伝えたいことがあると…。
ヴァージニアの涙ながらの説得に、店員はトニーの入院先を教えてくれた。

教えられた病院へヴァージニアは走った。
そして受付で彼の病室を教えてもらった彼女は、間に合いますように…と祈りながら向かった。
病室には医師と看護師がいた。
トニーの友人だと告げると、医師は小さく首を振った。
「スタークさんは…もう…」
トニーは昏睡状態だった。
ベッドの横に跪いたヴァージニアは、彼の手を握りしめた。そして耳元で囁いた。
「トニー…ありがとう…。あなたに出会えて…私も本当に楽しかったわ…。愛してる…。あなたのこと、愛してるわ…」
すると不思議なことが起こった。意識のないはずのトニーの目から、涙が一筋零れ落ちたのだ。
「トニー……」
ヴァージニアは泣きながら、トニーの頬にキスをした。
「あの本…大切にするわ…。それから、あなたの想い…私が引き継ぐから…。あなたに教えてもらったこと…絶対に忘れないから…」

ヴァージニアは泣いた。
部屋にピーというモニターの音が響きわたるまで、トニー の手を握りしめ、最期まで彼に寄り添った。

1ヶ月後。
あの本屋にはヴァージニアの姿があった。
そして、訪れた者に本を勧めるヴァージニアの姿を見守るように、カウンターにはトニー の写真が置かれていた。

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6.Coffee shop! au

彼は決まった曜日の決まった時間にやって来る。そして決まったコーヒーを注文する。
『トールサイズ、2ショットのエスプレッソ』
それが彼のお決まりのメニュー。
そのため、『ミスター・エスプレッソ』と店員の間では呼ばれていた。が、彼は『トニー』という名前だ。注文を取る時、名前を聞くと『トニー』というから間違いない。
年は30後半だろうか。彼はいつも高そうなスーツを着ていた。腕には高級ブランドの時計を嵌め、時折サングラスを掛けていたが、茶目っ気たっぷりの琥珀色の瞳は、人を惹きつけるものがあった。
店の周囲は企業のビルばかりなのだから、ミスター・エスプレッソは、きっとどこかの大企業の社員なのだろうと、皆噂していた。

ヴァージニア・ポッツは店に勤めて3年目。可愛らしく愛想の良い彼女には、ファンが大勢おり、彼女目当てにコーヒーを買いに来る男性も大勢いた。
木曜日の今日は本当ならば休みなのだが、人手が足りないということで、ヴァージニアは出勤していた。が、毎朝やって来るはずの彼は、いくら待てども来ないではないか。
「今日はトニーさんは来られないのね」
朝の混雑がひと段落した頃、ヴァージニアはバリスタのクリント・バートンに尋ねた。
「あぁ、ミスター・エスプレッソ?彼は木曜日は来ないんだ。」
毎日来ていると思っていたのに、そうではないことにヴァージニアは驚いた。
「そうなんですか?」
目をパチクリさせているヴァージニアに、クリントは肩を竦めた。
「木曜日と日曜日はミスター・エスプレッソも休みなんだろうな」

木曜日と日曜日、それはヴァージニアも休みの日だ。偶然なのかどうか知らないが、同じ曜日が休みと知ったヴァージニアは、彼に対して妙に親近感を覚えてしまった。

翌日。
カランとドアのベルが鳴り、ヴァージニアが顔を上げると、彼が入ってきた。
真っ直ぐヴァージニアの元にやって来た彼に、ヴァージニアは笑顔で告げた。
「トールサイズ、2ショットのエスプレッソですよね?」
ニッコリ笑ったヴァージニアに、彼も少しだけ笑みを浮かべた。
「あぁ、そうだ」
「いつもありがとうございます」
カップに『トニー』と書いたヴァージニアは、『お仕事お疲れ様です』と書き添えた。

土曜日になった。珍しく他に客もおらず、カウンターにはヴァージニアが一人で立っていた。すると彼がやって来た。
「いらっしゃいませ」
ヴァージニアの元に歩み寄った彼は、
「いつもの…」
と言い掛けたが、今日の彼は違っていた。
「たまには違う物を頼みたい。君のお勧めは?」
思わぬ展開に驚いたのはヴァージニアだけではなかった。いつものメニューを作ろうとしていたクリントも、思わず彼を凝視した。

「そうですね…」
うーんと考えたヴァージニアは、
「甘いのものはお好きですか?ココアとキャラメルベースのものが人気ですよ」
と、勧めてみた。すると彼は優しげに目を細めると
「それで頼む」
と言ったのだ。
「はい!」
嬉しくなったヴァージニアは、カップに『トニー』と書くと、スマイルマークも書き添えた。

月曜になり彼がやって来た。
「この間の君のお勧め、美味かった」
開口一番そう告げた彼に、ヴァージニアはほっと胸を撫で下ろした。
「良かったです」
ニッコリ微笑んだヴァージニアに、彼も嬉しそうに笑みを浮かべた。
「今日も君のお勧めを頼む」
頷いたヴァージニアは、
「では、土曜日とは別のものにしますね」
と言うと、今日のバリスタのスティーブ・ロジャースに、ソルテッドカラメルモカを作るよう告げた。

***

それからも彼…トニーは、木曜日と日曜日以外は毎朝やって来た。だが、彼が頼むメニューは、お決まりの物ではなく、ヴァージニアのお勧めの物になった。そして支払いをする僅かな時間だが、トニーとヴァージニアは世間話をするようになった。

「ミスター・エスプレッソ、ヴァージニアのことがお気に入りなのね。だって、私のところが空いてても、いつもあなたの所に並ぶでしょ?」
ヴァージニアと同じくレジを担当しているナターシャ・ロマノフは、おかしそうにクスクス笑った。首を傾げたヴァージニアに、ナターシャはニヤリと笑った。
「あなたのこと、好きなのかもよ?」
と、ヴァージニアが顔を真っ赤にして飛び上がった。あたふたし始めた彼女に、ナターシャは気付いた。彼女も彼に好意を持っていると…。
「あら?もしかして…」
本心を見透かされたヴァージニアは慌てて首を振った。
「ち、違うわよ!」
真っ赤になった顔を隠すように、ヴァージニアは掃除をし始めた。

翌日。
いつもの時間になってもトニーは来ない。
どうしたのかとヴァージニアが些か不安になっていると、電話が鳴った。
ヴァージニアが電話に出ると、何とトニーからだった。
「ポッツさん?トニーだけど…」
「おはようございます」
トニーの声を聞き、ヴァージニアはほっとした。
「聞くんだけど、デリバリーとかやってる?」
「え?デリバリーですか?やってますが…」
「今朝は急に会議が入ってさ。君のお勧めを20人分、届けてもらえないか?」
「分かりました。すぐにお伺いします」
「頼んだよ。場所は…」

トニーの告げた住所は、1ブロック先のオフィス街だった。
人数分を一人で持っていくのは無理だ。そこでナターシャにも手伝ってもらうことになり、2人は指定された場所へと歩き出した。
「1ブロック先の……あ、ここじゃない?」
スマホの地図アプリを見ながら歩いていたナターシャが立ち止まった。目の前に現れたのは、何とあのスターク・インダストリーズのビルだった。
「ミスター・エスプレッソは、スターク・インダストリーズの社員だったのね。だからあんなに高そうなスーツを着てたのね」
ナターシャは納得したように唸った。というのも、スターク・インダストリーズは全米…いや、世界屈指の大企業なのだから、そこで働く人々も如何にも出来る大人という雰囲気の者が多いのだ。店にもよく社員が来るが、誰もがカッコいいのだ。

入館手続きを取ろうと受付に行くと、すでに受付嬢には連絡が入っていたようで、30階の会議室に行くように言われた。

指定された会議室のドアをノックしたヴァージニアは、
「失礼します」
と言うと、そっと中へ入った。するとトニーがニコニコと笑っていた。
「待ってたよ。急に悪かったね。一息入れたかったから、助かったよ」
ネクタイを少しだけ緩めたトニーはかっこよく、ヴァージニアだけではなくナターシャまで頬を赤らめた。立ち上がったトニーは、ヴァージニアとナターシャからコーヒーの入った紙袋を受け取った。
「彼女のおすすめのコーヒーだ」
そう言いながら、トニーは机の上にコーヒーを並べた。
すると年配の社員が、トニーに声を掛けた。
「社長、せっかくですし少し休憩にしましょう」

「え……社長って…………」
ヴァージニアは思わずナターシャと顔を見合わせた。そして、トニーの顔を穴が開くほど見つめていたヴァージニアとナターシャは、気づいた。
トニーは、髭こそ生えているが、スターク・インダストリーズのCEOの『トニー・スターク』にそっくりだと…。

2人の様子に肩を竦めたトニーは、首からぶら下げていたIDカードを掲げた。
「そう言えば、名乗ってなかったな。トニー・スタークだ」

口をポカンと開けてトニーを見つめていたヴァージニアとナターシャは、30秒ほど経った後、叫び声を上げた。

「「えぇぇぇ!!!!!」」

ミスター・エスプレッソは、あのトニー・スタークだったのだ。だが、メディアでよく見るトニー・スタークには髭はない。だから誰も気づかなかったのだが…。

「で、でも…ひ、ひ、ひ、髭……」
やっとの思いで一言発したナターシャに、トニーは苦笑した。
「最近生やし始めたんだ」
驚きすぎて腰を抜かしてしまった2人を立ち上がらせたトニーは、楽しそうに笑い声を上げた。

『ミスター・エスプレッソの正体はトニー・スタークだった』
コーヒーショップに飛んで帰ったヴァージニアとナターシャのおかげで、あのトニー・スタークが毎日通っていたと、店はその日一日中大騒ぎだったとか…。

翌日。
ドアを開ける音にヴァージニアが顔を上げると、トニーが入ってきた。
昨日のことを思い出したヴァージニアは、慌てて姿勢を正した。
「昨日はありがとう。君のお勧めのコーヒー、みんな大絶賛だったよ」
礼を言うトニーに、ヴァージニアは顔を真っ赤にした。
「そんな…恐縮です」
モジモジとエプロンの裾を弄っていたヴァージニアを、トニーは黙って見つめた。彼の視線を感じたヴァージニアは、何とか仕事モードに戻ると、顔を上げた。
「今日は何にされますか?」
「昨日と同じ物をお願いしようかな。あれはハマった」
真面目くさった顔で頷くトニーに、ヴァージニアもようやくいつものように笑みを浮かべた。
「よかったです。私の一番お気に入りなんです」
カップを手に取ったヴァージニアは、『トニー』ではなく『Mr.スターク』と書いてみた。そして昨日と同じ物を作るようにクリントに頼んだ。
が、支払いを終えたのに、トニーはその場を動こうとしない。
「どうかされたんです?」
追加で何か頼まれるのかしら?と首を傾げたヴァージニアに、トニーはウインクした。
「もう一つ、頼んでいいか?」
「はい」
頭の中でまだ出していないお勧めのカスタマイズを考えていたヴァージニアだが、トニーは名刺を差し出すと、ヴァージニアに手渡した。
どういうことかと目をパチクリさせるヴァージニアに、トニーは真剣な声で告げた。
「今度、一緒に食事でもどうだい?君のお勧めの店で…」
「え……」
少しだけ頬を赤らめたトニーは、ヴァージニアを真っ直ぐに見つめた。
「君のこと、もっと知りたいんだ。お勧めのレストランとか、お勧めの店とか…。つまりさ……そういうことだ」

ヴァージニアがポカンとトニーを見つめていると、クリントが出来上がったコーヒーをカウンターの上に置いた。コーヒーを受け取ったトニーは、ヴァージニアに向かってウインクすると店を後にした。

名刺には、トニーのプライベートの携帯の番号とメールアドレスが書いてあった。
『良ければ連絡して』
ご丁寧にもハートマークが書かれたその名刺を、ヴァージニアは大切そうにポケットにしまった。

***

それからしばらく後のこと。
昔からヴァージニアのことがお気に入りで、毎日店に通っていた男が、久しぶりに店に来た。1年間海外勤務で来れなかったとナターシャに告げたその男は、キョロキョロと店内を見渡した。
「あれ?ポッツさんは?」
「彼女、先月辞めたんですよ」
ヴァージニアが辞めたと知った男は、大袈裟にその場に崩れ落ちた。
「えぇー!せっかく会えると思って来たのに…」
ぶつぶつ言う男に、ナターシャは苦笑い。
「仕方ないですよ。ミセス・エスプレッソになったんですもん」
「へ?」
クスクス笑ったナターシャは壁に貼られた写真を指さした。
ウェディングドレスを着たヴァージニアとタキシードを着たトニーが、コーヒー片手に店内でキスをしている写真には、『スターク・インダストリーズの社員の方はお申し付け下さい。1杯目はスターク社長の奢りです』と書かれていた。

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3.spy! au

「ヴァージニア・ポッツです。今日からよろしくお願いします」
新しい秘書は完璧なまでの笑みを浮かべているのに、肝心のトニー・スタークは興味なさそうに欠伸をした。

ヴァージニア・ポッツ。
実は彼女、A.I.M.という会社から送り込まれたスパイだった。
スターク・インダストリーズの社長であるトニー・スタークの秘書になり、彼を色仕掛けで堕とし、スターク・インダストリーズの最新技術を盗み出す…。それが彼女に与えられた任務だった。
社長と寝て、情報を盗み、姿を消す。今まで何社もそうやって潰してきた。彼女の手腕は見事なので、A.I.M.の社長であるアルドリッチ・キリアンにとっても、彼女はお気に入りの部下だった。

だから全て順調に行くと思っていた。
初日はトニーにニックネームまで付けてもらった。そばかすが可愛いから『ペッパー』と呼ばれることになったヴァージニアは、内心嫌で堪らなかったが、これも任務のためだと喜ぶふりをした。
3日目にはキスまで済ませ、5日目には関係を持って、そして10日目には情報全てを奪い姿を消す…。そしてキリアンに渡し、一晩中愛してもらう…。
その予定だったのに、10日目にキリアンと落ち合ったヴァージニアは、何一つ実行できていなかった。

「いつもの君らしくないじゃないか?」
ベッドの中で胸を愛撫しながら、キリアンは眉をつり上げた。するとヴァージニアは溜息を付いた。
「スターク社長、毎晩別のオンナと寝ても、私には振り向いてくれないんですもの…」
頬を膨らませたヴァージニアだが、キリアンの身体に跨ると、キスをした。
「任せて…。1週間で絶対に堕としてみせるわ…。だからね…今日は何も言わずに愛して…」
ヴァージニアはキリアンの肉棒を掴んだ。そしてそれを自分の中に入れると、喘ぎ始めた。

***

翌日。
今日は絶対にキスまで済ませてみせると意気込んだヴァージニアは、コーヒーを入れると社長室に向かった。
「おはようござい……どうされたんです?!」
トニー・スタークは出社していたが、毛布に包まった彼はソファにぶっ倒れていた。
「おはよう…ポッツくん………」
死にそうな声を出したトニーは、真っ赤な顔をしており、何度か盛大なくしゃみをした。慌てて駆け寄ったヴァージニアは、トニーの額に手を当てた。額は燃えるように熱く、彼は高熱を出しているのは明らかだ。
「社長!凄い熱じゃないですか!病院へ行きますよ!」
「…いやだ…」
子供のように駄々をこねるトニーに、いい大人が何言ってるの?と呆れ果てたヴァージニアだが、彼女はトニーの運転手のハッピー・ホーガンに連絡すると、無理矢理病院へ連れて行った。

風邪をこじらせたトニーは、点滴をしてもらった。家に戻って来る頃には、熱も少しだけ下がっていたが、寝室へ向かった彼はそのまま眠り始めた。
独り身のトニーを世話してくれる人などいないのだから、ヴァージニアはそのままトニーの家に留まることにした。が、これはチャンスだ。ここはトニー・スタークの自宅。つまり何らかの極秘情報があるに決まっている。
そこでヴァージニアは、トニーが眠っていることを確認すると、家の中を散策し始めた。
が、トニーの家はあまりに広大だった。一人暮らしなのにどうしてこんなにあるのだろうと言いたいくらいゲストルームはあるし、ジムにプールにサウナ、そしてシアタールームまで揃っている。クローゼットはヴァージニア自身の家よりも大きいし、高級ブランドの洋服や靴が山のように揃っている。広大なキッチンに、料理好きなヴァージニアは思わず反応してしまったが、そんなものを探しているのではないと、彼女は地下へと続く階段を降りた。ガラス張りのドアの向こうには、何台もの高級車が並んでおり、そして沢山の機材とパソコンが置かれていた。きっとここに欲しい物は全て揃っていると睨んだヴァージニアは、ドアを開けようとしたが、ロックが掛かっている。
「私は優秀なスパイなのよ。こんなもの、簡単に破れるわ…」
唇をペロリと舐めたヴァージニアは、思いついたパスワードを入力した。が、ドアは開かない。何度か試しても一向に開かない。
小さく舌打ちしたヴァージニアだが、突然男性の声が響き渡り飛び上がった。
『ポッツ様はアクセス権がございません』
ヴァージニアはキョロキョロと辺りを見渡した。が、誰の姿も見えない。
「だ、誰…」
恐れ慄いたヴァージニアに、声の主は語りかけた。
『申し遅れました。私、J.A.R.V.I.S.と申します。トニー様が作られた、A.I.でございます。この家とそしてトニー様の全てを管理しております』
何ということだ。トニーは家にA.I.を取り入れていたのだ。つまりセキュリティは万全すぎて破れないということ…。
こうなったらトニーに取り入り、アクセス権を貰うしかない。熱で朦朧としている今なら簡単かもしれないと、ヴァージニアは寝室へ向かった。

トニーは目を覚ましていた。
「社長、何か食べられますか?」
ヴァージニアを見つめたトニーは首を振った。
「…食欲がない」
「でも何か食べられた方がいいですよ。しっかり食べて早く元気になって頂かないと…」
早く元気になって貰わなければ、いつまで経っても任務を終えることはできないとは言えないヴァージニアだが、彼女の顔をじっと見つめたトニーは、こくんと頷いた。
「じゃあ、アイスクリーム」
40過ぎた男の言葉とは思えない、予想外の答えに、おかしくなったヴァージニアはクスクス笑い出した。だが、本人は至って真剣なのだから、キッチンへ向かったヴァージニアはアイスクリームと水を手に寝室へと戻った。

「お水も飲んで下さいね。それから、はい、アイスクリームです」
もそもそと起き上がったトニーに手渡すと、彼はゆっくりと食べ始めた。何となくその場を離れたくなかったヴァージニアは、そばの椅子に腰掛けた。
「どうしてアイスクリームなんです?」
そう尋ねると、トニーは食べる手を止めた。
「子供の頃、熱を出すと、母が食べさせてくれたんだ…。それに、熱が出た時だけは…父も優しかった。アイスクリームを買ってきたと、部屋まで持ってきてくれた…」
トニーの言葉に、ヴァージニアは彼の生い立ちを思い出した。幼い頃から父親とは疎遠で、20歳の時に事故で両親を亡くした彼は、同じく20歳の時にとある事件で両親を亡くした自分と重なるところがあったから…。

「それにしても、君が初めてだ。こんなに甲斐甲斐しく世話をしてくれた秘書は…」
アイスクリームを食べ、薬を飲み、汗ばんだパジャマの着替えまでしてもらったトニーは、微睡んだ瞳でヴァージニアを見つめた。
その時ヴァージニアは、本当のトニー・スタークに触れた気がした。虚栄を張り、派手好きで冗談ばかり言っている彼の本当の姿…それは孤独で寂しがりやで子供じみていて甘えん坊な、どこにでもいる普通の人物…。
任務ではなく、本当に彼のことを世話してあげたいと思ったヴァージニアは、トニーの額の汗をタオルで拭うと、布団を掛け直した。
「今日はこちらに泊まりますね。あなたのことが心配ですし」
小さく頷いたトニーは目を閉じると眠り始めた。

翌日もトニーの熱は下がらず、ヴァージニアは食べられそうなものを作ったりと、看病し続けた。
彼女の献身的な看病の成果か、3日目には熱も下がり、5日目になるとトニーはすっかり元気になっていた。それでもまだ完治はしていないと、トニーは家で大人しくしておくことにしたが、特別することもないのだから、ヴァージニア相手に話をすることにした。1週間前の彼女なら、これも任務だと嫌々ながら話に付き合っただろう。だが、トニーが寝込んでいる間、彼の心に少しだけ触れた彼女の心情には変化が現れていた。ペッパーと呼ばれることも、嫌ではなくなっていた。つまり、任務を超えて、トニーとは別の感情で結ばれていたのだ。

2人は話をした。好きな食べ物や音楽など、そんな些細なことを含め、お互いの話を沢山した。ヴァージニアはトニーの話に腹を抱えて笑った。ヴァージニア自身、こんなに楽しい時間は久しく過ごしたことがなかった。いつも『任務だから』と割り切った人付き合いしかしてこなかった。本当の自分を隠し、いつももう一人の完璧な自分を演じていた。だが、トニーの前では、本当の自分になれた。気持ちが楽だった。完璧でなくてもいいのだから…。

気づけば夕方になっており、小腹の空いたトニーはヴァージニアに提案した。
「看病してくれたお礼にディナーでもどうだ?」
ヴァージニアも空腹を覚えていたので、笑顔で頷いた。

トニーの運転する車で、2人はヴェニスビーチに向かった。そして彼の馴染みの店で旨い料理に舌鼓を打った。食事を済ませた2人は、サンタモニカに立ち寄った。
「ねぇ、あれに乗らない?」
ヴァージニアが指差したのは観覧車。子供じゃないんだから…と苦笑したトニーだが、ヴァージニアの笑顔が見たいばかりに、彼は彼女の手を取ると、観覧車へと向かった。

2人を乗せた箱は、夜空へと進み始めた。窓から見える夜景は美しく、ヴァージニアは感嘆の声を上げっぱなしだ。
楽しそうにはしゃぐヴァージニアをトニーは見つめた。
「なぁ、ペッパー……」
トニーの声に振り返ったヴァージニアは、近づいてくる彼の顔に思わず目を閉じた。
唇が重なった。
甘く柔らかなトニーの唇が…。

(私たち……キスしてる……)

ヴァージニアの胸に、初めての感情が襲い掛かった。

計画通りになんかいかなくていい。
いや、トニーとの関係は、計画通りになんかしたくなかった。もう任務なんてどうでもいい…。彼のことを…本当に…心から……。

唇が離れた。
もっとトニーと触れ合いたい…。
本気でそう思ったヴァージニアは、彼のシャツを掴むと、今度は自分からキスをした。トニーもヴァージニアの身体に腕を回すと、貪るようなキスを続けた。

気づけば観覧車は地上へと降り立っていた。
手を硬く握り合ったまま観覧車を降りた2人は、車に向かって歩き始めた。
(このままずっと一緒にいたい…)
そう思ったヴァージニアは、トニーの腕にそっと寄り添った。そして2人は寄り添いながら、トニーの家へ戻った。

***

『おはようございます。トニー様、ポッツ様』
J.A.R.V.I.S.の声に目を覚ましたヴァージニアは、耳元に掛かるトニーの寝息にくすぐったそうに身を捩った。

今まで何人もの男性と意図せぬ関係を持ってきたが、昨夜のトニーとは、心から望んだことだった。
トニーは最高だった。今まで感じたことがないような絶頂を何度も迎えた。優しく愛撫してくれる繊細な手も、力強い腕も、たくましい胸板も…全てがもうどうしようもないほど愛おしくて堪らなかった。
こんな気持ちで迎えた朝は、初めてだった。出来ることなら永遠にこのままでいたい。彼のためなら、全てを変えてもいい…。
ヴァージニアの心はトニーに囚われてしまった。

それからのヴァージニアは、毎日が楽しくて仕方なかった。トニーと共に仕事に向かい、共に帰宅し、そして愛し合う…。恋人なら当たり前のことかもしれないが、ヴァージニアには何もかもが新鮮だった。
「ペッパー、愛してる…」
毎晩力強い腕に抱かれながら愛の言葉を囁かれ、ヴァージニアは幸せだった。
1ヶ月もすると、2人の関係は公のものになっていた。トニーは元々オープンな性格だし、パーティーがあると必ずヴァージニアを同伴し、人前でもキスをしているのだから、マスコミにすっぱ抜かれるのは当然なのだが…。

キリアンからは何度もコンタクトがあったのは知っている。報告しろとメールは毎日山のように来ていたし、電話も何度もかかってきていた。トニーとの関係が公になってからは、その頻度は増していた。だが、ヴァージニアは全て無視していた。ヴァージニアはキリアンの元に戻る気はなかったし、トニーのことをスパイする気もさらさらなかったから…。

***

2人が恋人になり3ヶ月が経った。
トニーはヴァージニアの誕生日にプロポーズをした。永遠に一緒にいたいと、母親の形見だという指輪を渡した。ヴァージニアは勿論了承した。彼女もまた、トニーと永遠にいたかったから…。

だが、幸せが終わる時がやって来た。
『ポッツさん、お客様です』
社長であるトニーなら兎も角、秘書である自分を訪ねてくる者などいない。一体誰かしら…と思いながら受付に行ったヴァージニアは凍りついた。そこには部下を連れたキリアンがいたのだから…。
「よお、ヴァージニア。久しぶり」
ヴァージニアは足が震えて動けない。そんな彼女に近づいたキリアンは、耳元で囁いた。
「スタークと寝たのに、成果なしか?それともスタークに本気で惚れたのか?どっちでもいいが、早く仕事を終わらせろ。そうしないと、お前は産業スパイだと、然るべき所にチクるぞ?そうすればお前は終わりだ」
凍りついているヴァージニアの頬を撫でたキリアンは、嫌な笑みを浮かべると唇にキスをした。
「今日中に情報を全て持ってこい。分かったな」
脅されたヴァージニアは頷くしかなかった。

いっそのこと、トニーに全てを話そうかと思ったが、彼にそんなことを言えるはずはない。そこでこっそりとトニーの家に向かったヴァージニアは、ラボへと降りた。
不思議なことに、ロックは解除されていた。部屋に入っても、J.A.R.V.I.S.は何も言わなかった。
不思議に思ったヴァージニアだが、パソコンには必要なデータも全て揃っており、全てをDLした彼女は、足早にラボを後にした。

リビングに向かうと、会社にいるはずのトニーが立っていた。顔色を変えたヴァージニアを見ても、トニーは表情を崩さなかった。
「必要な物は揃ったか?」
「え………」
戸惑うヴァージニアに、トニーは悲しそうな笑みを浮かべた。
「君が必要な物、全て持っていけ…。それで君が助かるのなら…」
ヴァージニアは震え出した。トニーは知っているのだ。自分の正体も目的も何もかも…。
「わ、私……」
何か言わなくてはと思ったヴァージニアだが、首を振ったトニーは背を向けた。
「さよなら、ペッパー…」
そう言うと、トニーは何も言わずに2階へと向かった。

ペッパーはトニーの家を飛び出した。車に飛び乗り、家へと急いだ。
「どうして……」
涙が止まらなかった。
USBを握りしめたまま、ヴァージニアは泣いた。
彼はいつから知っていたのだろう…。
スパイだと知っていたのに、自分を恋人として受け入れてくれたのだ。愛してると言ってくれたのだ。
「どうして……どうして……」
ヴァージニアは左手の指輪を見た。
涙は指輪の上にポツリポツリと降り注いだ。
今度は右手のUSBを見た。

後悔しかなかった。
トニーを騙してしまったことに対する罪悪感しかなかった。
そして、彼への愛情は本物だったのに…初めて掴みかけた幸せだったのに…それを結局は自分のせいで全て失いかけているという現実に、ヴァージニアはもう我慢できなかった。

ヴァージニアは決意した。
トニーが許してくれるのなら、彼と全てをやり直したいと…。
立ち上がったヴァージニアは工具箱からハンマーを取り出した。そして床に置いたUSBを、それで思いっきり叩いた。何度も何度も…。自分の過去を壊すように…。

破壊されたUSBを拾い上げたヴァージニアは、トニーの家に向かった。

***

トニーはバルコニーで酒を飲んでいた。

彼女の正体は最初から知っていた。それでも彼女に惹かれる何かがあったので、彼女を秘書として採用した。日が経つにつれて、彼女と心が通じ合った気がした。彼女も本来の仕事をすることもなく、新しい人生をやり直したがっているように感じたため、彼女のことを本気で愛した。彼女もまた、自分のことを本当に愛してくれていると思っていたが…。

だが、彼女は去った。
雇い主に脅されているのだから仕方ない。自分の渡した情報で、彼女が救われるのなら、自分たちが一時的でも恋人になったことは、意味があったことになるだろう…。
それでもトニーの胸には虚無感が襲い掛かった。
彼女とは本当に生涯を共にできると思っていたから…。
彼女なら、本当の自分を受け止めてくれると思っていたから…。
だが、それも終わりだ。
仕方ない。彼女には彼女の仕事があるのだから……。

溜息を付いたトニーは首を垂れたが、背後に人の気配を感じ、振り返った。
すると、去ったはずのヴァージニアがいた。
真っ赤に目を腫らした彼女は、大粒の涙を流していた。
「…どうして……」
彼女は情報を持ち、雇い主の元に戻ったはず。そうしなければ、彼女の身に危険が及ぶのに…。

唇を震わせるトニーに、ヴァージニアはゆっくりと歩み寄った。
「私…自分の任務を途中で放棄したことってないの。今の私の任務はね……永遠にあなたのそばにいることよ…」
目を見開いているトニーの目の前にやって来たヴァージニアは、彼の手に何かを握らせた。それは破壊されたUSBだった。
トニーはヴァージニアとUSBを何度も見た。
「…いいのか?これがないと君は…」
ヴァージニアはトニーの手ごとUSBを包み込むと、首を振った。
「いいの。もし裁きを受けなければならないのなら、私はきちんと受ける覚悟はできている…。でも、あなたを巻き込みたくないの…。世界一大切で…誰よりも愛しているあなただけは…」
「ペッパー……」
目尻を下げたトニーは小さく笑みを浮かべると、ヴァージニアを抱き寄せた。
「ペッパー…愛してる……」
耳元で囁かれたヴァージニアは、トニーの胸元に顔を押し付けた。
「ごめんなさい…本当にごめんなさい…」
泣きながら何度も謝るヴァージニアを守るように、トニーは彼女の頭を抱え込んだ。

ヴァージニアは話した。今までの経緯と、そして自分はトニーから情報を盗むために送り込まれたスパイであることを…。だが、いつの間にか本気でトニーのことを愛していたので、途中から任務のことはすっかり忘れていたことも…。
トニーは最初からヴァージニアの正体を知っていたこと、それを承知の上で彼女を秘書にしたことも話した。
「だから、君が途中で自分の正体をバラして、助けを求めてきてもいいように、色々と策は練っていたんだ」
そこまで計算済みだったとは…と、ヴァージニアは用意周到すぎるトニーに感服した。が、まずは今をどう切り抜けるかが最優先事項だ。キリアンの設けたタイムリミットは今日の深夜なのだから…。
「私に考えがある」
そう切り出したトニーは、自分の案をヴァージニアに話した。
話を聞き終えたヴァージニアは、トニーの案に賭けることにした。
「あなたが考えたアイデアよ。上手くいくに決まってる」
そう言い切ったヴァージニアは、トニーにキスをすると準備をし始めた。

***

もうすぐ日付が変わる。
やはりヴァージニアは逃げたか…と、時計を見上げたキリアンは、小さく唸った。
「あの女、キリアンさんから逃げられると思ってるんですかね?」
キリアンの部下であるサヴィンは、大欠伸をするとボスを見た。
「戻ってこなかったことを後悔させてやろう。スパイだと通報し、全ての責任をあいつに背負わせる。そうすればあの女は俺に助けを求めにくるはずだ。手を差し伸べるふりをして、あの女は売り飛ばす」
ククっと笑ったキリアンだが、ちょうどその時、ドアのチャイムが鳴った。モニターを見ると、何とヴァージニアが戻ってきたではないか。
「残念。時間ギリギリだが戻ってきた」
肩を竦めたキリアンが玄関に向かうと、ヴァージニアは笑みを浮かべて抱きついてきた。
「会いたかったわ…アルドリッチ…」
抱きつきキスをしてくるヴァージニアを抱き寄せたキリアンは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「会いたかっただと?スタークと恋人になったのにか?」
するとヴァージニアは、不満そうに頬を膨らませた。
「演技に決まってるでしょ?あの男、かなり用心深くて…。婚約までしてようやくラボへのアクセスを許してくれたの。好きでもない男に毎日抱かれていたこっちの身にもなってよ」
唇を尖らせたヴァージニアは本当に怒っているようで、キリアンは機嫌を取るようにキスをした。
「迫真の演技すぎて、この俺がすっかり騙されていたようだな。さぁ、ヴァージニア。機嫌を治してくれ。朝まで可愛がってやろう。それから2人きりでどこかに行こう。お前が行きたい所にどこへでも連れて行ってやる。だからその前に…」
キリアンが手を伸ばした。するとヴァージニアは胸元に手を入れると、USBを取り出した。
「これよ。スターク・インダストリーズの全てが入ってる」
受け取ったキリアンはヴァージニアの腰を抱き寄せ、再びキスをした。
「先に寝室に行け。確認したらすぐに追いかける」
「早く来てね。あなたとシタくてウズウズしてるの…。待ってるわ…」
妖艶に微笑んだヴァージニアは、手を振りながら寝室へと向かった。

寝室へ向かうふりをして、ヴァージニアは廊下を走りバルコニーへ向かった。そして身を乗り出すと、下にハッピーがいることを確認して、飛び降りた。ヴァージニアを受け止めたハッピーは、彼女を連れて車へ向かった。

後部座席にはトニーがいた。
「さてと、餌に食いついてくれよ…」
手を摺り合わせたトニーは、何やら打ち込むとパソコンのモニターを見つめた。暫くすると、モニターに複数の画面が映し出された。小さくガッツポーズをしたトニーは、モニターを覗き込んでいるヴァージニアとハッピーに向かって頷いた。
「よし、繋がった。始めるぞ…」

トニーの計画はこうだ。
ヴァージニアがキリアンに渡したUSBはハッキング装置。
キリアンのパソコンには、おそらくヴァージニアに関する情報が入っている。そこで彼のパソコンをハッキングし、全ての情報をコピーすると同時に、ヴァージニアに関する情報は全て削除する。勿論その間、キリアンたちは自分で操作など出来ない。You Tubeに上がっている、可愛い子犬の動画が延々と流れる仕組みだ。USBを抜いても無駄だ。トニーから接続を切らない限り、例え電源を落としてもキリアンは何もできないのだ。
そしてトニーが接続を切ると、然るべき所に通報がいき、キリアンたちは逮捕されるという訳だ。

黙ってパソコンを操作していたトニーは、ものの数分で全てをやってのけた。
「よし、終わりだ。ハッピー、帰るぞ」
「はい、ボス」
トニーがパソコンを閉じると、ハッピーは車を発進させた。と同時に、何台ものパトカーがやって来た。それを横目に、トニー たちは帰路に着いた。

***

翌朝。
メディアはキリアン逮捕のニュースで持ちきりだった。長年にわたり、複数の会社の技術を盗み自分のものにしていたと、マスコミは騒ぎ立てていた。勿論、ヴァージニアのことは一切報じられていなかった。

「これで君の任務は完了だな」
ベッドの中でヴァージニアを抱きしめ、テレビを見ていたトニーは、彼女にそう告げた。するとヴァージニアは、悪戯めいた笑みを浮かべると、首を伸ばしトニーにキスをした。
「言ったでしょ?私の今の任務は、あなたのそばにずーっといることよ」
その言葉に大袈裟に目を丸くしたトニーは、ヴァージニアを抱きしめたまま彼女を押し倒した。
「そうだった。では、今日は、私は一日中ベッドの中にいるつもりだ。君もだぞ、ペッパー。私のそばにいるのが君の任務だからな」
「了解、ボス…」
トニーのキスを全身に受けながら、ペッパーは幸せそうに微笑んだ。

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