3.spy! au

「ヴァージニア・ポッツです。今日からよろしくお願いします」
新しい秘書は完璧なまでの笑みを浮かべているのに、肝心のトニー・スタークは興味なさそうに欠伸をした。

ヴァージニア・ポッツ。
実は彼女、A.I.M.という会社から送り込まれたスパイだった。
スターク・インダストリーズの社長であるトニー・スタークの秘書になり、彼を色仕掛けで堕とし、スターク・インダストリーズの最新技術を盗み出す…。それが彼女に与えられた任務だった。
社長と寝て、情報を盗み、姿を消す。今まで何社もそうやって潰してきた。彼女の手腕は見事なので、A.I.M.の社長であるアルドリッチ・キリアンにとっても、彼女はお気に入りの部下だった。

だから全て順調に行くと思っていた。
初日はトニーにニックネームまで付けてもらった。そばかすが可愛いから『ペッパー』と呼ばれることになったヴァージニアは、内心嫌で堪らなかったが、これも任務のためだと喜ぶふりをした。
3日目にはキスまで済ませ、5日目には関係を持って、そして10日目には情報全てを奪い姿を消す…。そしてキリアンに渡し、一晩中愛してもらう…。
その予定だったのに、10日目にキリアンと落ち合ったヴァージニアは、何一つ実行できていなかった。

「いつもの君らしくないじゃないか?」
ベッドの中で胸を愛撫しながら、キリアンは眉をつり上げた。するとヴァージニアは溜息を付いた。
「スターク社長、毎晩別のオンナと寝ても、私には振り向いてくれないんですもの…」
頬を膨らませたヴァージニアだが、キリアンの身体に跨ると、キスをした。
「任せて…。1週間で絶対に堕としてみせるわ…。だからね…今日は何も言わずに愛して…」
ヴァージニアはキリアンの肉棒を掴んだ。そしてそれを自分の中に入れると、喘ぎ始めた。

***

翌日。
今日は絶対にキスまで済ませてみせると意気込んだヴァージニアは、コーヒーを入れると社長室に向かった。
「おはようござい……どうされたんです?!」
トニー・スタークは出社していたが、毛布に包まった彼はソファにぶっ倒れていた。
「おはよう…ポッツくん………」
死にそうな声を出したトニーは、真っ赤な顔をしており、何度か盛大なくしゃみをした。慌てて駆け寄ったヴァージニアは、トニーの額に手を当てた。額は燃えるように熱く、彼は高熱を出しているのは明らかだ。
「社長!凄い熱じゃないですか!病院へ行きますよ!」
「…いやだ…」
子供のように駄々をこねるトニーに、いい大人が何言ってるの?と呆れ果てたヴァージニアだが、彼女はトニーの運転手のハッピー・ホーガンに連絡すると、無理矢理病院へ連れて行った。

風邪をこじらせたトニーは、点滴をしてもらった。家に戻って来る頃には、熱も少しだけ下がっていたが、寝室へ向かった彼はそのまま眠り始めた。
独り身のトニーを世話してくれる人などいないのだから、ヴァージニアはそのままトニーの家に留まることにした。が、これはチャンスだ。ここはトニー・スタークの自宅。つまり何らかの極秘情報があるに決まっている。
そこでヴァージニアは、トニーが眠っていることを確認すると、家の中を散策し始めた。
が、トニーの家はあまりに広大だった。一人暮らしなのにどうしてこんなにあるのだろうと言いたいくらいゲストルームはあるし、ジムにプールにサウナ、そしてシアタールームまで揃っている。クローゼットはヴァージニア自身の家よりも大きいし、高級ブランドの洋服や靴が山のように揃っている。広大なキッチンに、料理好きなヴァージニアは思わず反応してしまったが、そんなものを探しているのではないと、彼女は地下へと続く階段を降りた。ガラス張りのドアの向こうには、何台もの高級車が並んでおり、そして沢山の機材とパソコンが置かれていた。きっとここに欲しい物は全て揃っていると睨んだヴァージニアは、ドアを開けようとしたが、ロックが掛かっている。
「私は優秀なスパイなのよ。こんなもの、簡単に破れるわ…」
唇をペロリと舐めたヴァージニアは、思いついたパスワードを入力した。が、ドアは開かない。何度か試しても一向に開かない。
小さく舌打ちしたヴァージニアだが、突然男性の声が響き渡り飛び上がった。
『ポッツ様はアクセス権がございません』
ヴァージニアはキョロキョロと辺りを見渡した。が、誰の姿も見えない。
「だ、誰…」
恐れ慄いたヴァージニアに、声の主は語りかけた。
『申し遅れました。私、J.A.R.V.I.S.と申します。トニー様が作られた、A.I.でございます。この家とそしてトニー様の全てを管理しております』
何ということだ。トニーは家にA.I.を取り入れていたのだ。つまりセキュリティは万全すぎて破れないということ…。
こうなったらトニーに取り入り、アクセス権を貰うしかない。熱で朦朧としている今なら簡単かもしれないと、ヴァージニアは寝室へ向かった。

トニーは目を覚ましていた。
「社長、何か食べられますか?」
ヴァージニアを見つめたトニーは首を振った。
「…食欲がない」
「でも何か食べられた方がいいですよ。しっかり食べて早く元気になって頂かないと…」
早く元気になって貰わなければ、いつまで経っても任務を終えることはできないとは言えないヴァージニアだが、彼女の顔をじっと見つめたトニーは、こくんと頷いた。
「じゃあ、アイスクリーム」
40過ぎた男の言葉とは思えない、予想外の答えに、おかしくなったヴァージニアはクスクス笑い出した。だが、本人は至って真剣なのだから、キッチンへ向かったヴァージニアはアイスクリームと水を手に寝室へと戻った。

「お水も飲んで下さいね。それから、はい、アイスクリームです」
もそもそと起き上がったトニーに手渡すと、彼はゆっくりと食べ始めた。何となくその場を離れたくなかったヴァージニアは、そばの椅子に腰掛けた。
「どうしてアイスクリームなんです?」
そう尋ねると、トニーは食べる手を止めた。
「子供の頃、熱を出すと、母が食べさせてくれたんだ…。それに、熱が出た時だけは…父も優しかった。アイスクリームを買ってきたと、部屋まで持ってきてくれた…」
トニーの言葉に、ヴァージニアは彼の生い立ちを思い出した。幼い頃から父親とは疎遠で、20歳の時に事故で両親を亡くした彼は、同じく20歳の時にとある事件で両親を亡くした自分と重なるところがあったから…。

「それにしても、君が初めてだ。こんなに甲斐甲斐しく世話をしてくれた秘書は…」
アイスクリームを食べ、薬を飲み、汗ばんだパジャマの着替えまでしてもらったトニーは、微睡んだ瞳でヴァージニアを見つめた。
その時ヴァージニアは、本当のトニー・スタークに触れた気がした。虚栄を張り、派手好きで冗談ばかり言っている彼の本当の姿…それは孤独で寂しがりやで子供じみていて甘えん坊な、どこにでもいる普通の人物…。
任務ではなく、本当に彼のことを世話してあげたいと思ったヴァージニアは、トニーの額の汗をタオルで拭うと、布団を掛け直した。
「今日はこちらに泊まりますね。あなたのことが心配ですし」
小さく頷いたトニーは目を閉じると眠り始めた。

翌日もトニーの熱は下がらず、ヴァージニアは食べられそうなものを作ったりと、看病し続けた。
彼女の献身的な看病の成果か、3日目には熱も下がり、5日目になるとトニーはすっかり元気になっていた。それでもまだ完治はしていないと、トニーは家で大人しくしておくことにしたが、特別することもないのだから、ヴァージニア相手に話をすることにした。1週間前の彼女なら、これも任務だと嫌々ながら話に付き合っただろう。だが、トニーが寝込んでいる間、彼の心に少しだけ触れた彼女の心情には変化が現れていた。ペッパーと呼ばれることも、嫌ではなくなっていた。つまり、任務を超えて、トニーとは別の感情で結ばれていたのだ。

2人は話をした。好きな食べ物や音楽など、そんな些細なことを含め、お互いの話を沢山した。ヴァージニアはトニーの話に腹を抱えて笑った。ヴァージニア自身、こんなに楽しい時間は久しく過ごしたことがなかった。いつも『任務だから』と割り切った人付き合いしかしてこなかった。本当の自分を隠し、いつももう一人の完璧な自分を演じていた。だが、トニーの前では、本当の自分になれた。気持ちが楽だった。完璧でなくてもいいのだから…。

気づけば夕方になっており、小腹の空いたトニーはヴァージニアに提案した。
「看病してくれたお礼にディナーでもどうだ?」
ヴァージニアも空腹を覚えていたので、笑顔で頷いた。

トニーの運転する車で、2人はヴェニスビーチに向かった。そして彼の馴染みの店で旨い料理に舌鼓を打った。食事を済ませた2人は、サンタモニカに立ち寄った。
「ねぇ、あれに乗らない?」
ヴァージニアが指差したのは観覧車。子供じゃないんだから…と苦笑したトニーだが、ヴァージニアの笑顔が見たいばかりに、彼は彼女の手を取ると、観覧車へと向かった。

2人を乗せた箱は、夜空へと進み始めた。窓から見える夜景は美しく、ヴァージニアは感嘆の声を上げっぱなしだ。
楽しそうにはしゃぐヴァージニアをトニーは見つめた。
「なぁ、ペッパー……」
トニーの声に振り返ったヴァージニアは、近づいてくる彼の顔に思わず目を閉じた。
唇が重なった。
甘く柔らかなトニーの唇が…。

(私たち……キスしてる……)

ヴァージニアの胸に、初めての感情が襲い掛かった。

計画通りになんかいかなくていい。
いや、トニーとの関係は、計画通りになんかしたくなかった。もう任務なんてどうでもいい…。彼のことを…本当に…心から……。

唇が離れた。
もっとトニーと触れ合いたい…。
本気でそう思ったヴァージニアは、彼のシャツを掴むと、今度は自分からキスをした。トニーもヴァージニアの身体に腕を回すと、貪るようなキスを続けた。

気づけば観覧車は地上へと降り立っていた。
手を硬く握り合ったまま観覧車を降りた2人は、車に向かって歩き始めた。
(このままずっと一緒にいたい…)
そう思ったヴァージニアは、トニーの腕にそっと寄り添った。そして2人は寄り添いながら、トニーの家へ戻った。

***

『おはようございます。トニー様、ポッツ様』
J.A.R.V.I.S.の声に目を覚ましたヴァージニアは、耳元に掛かるトニーの寝息にくすぐったそうに身を捩った。

今まで何人もの男性と意図せぬ関係を持ってきたが、昨夜のトニーとは、心から望んだことだった。
トニーは最高だった。今まで感じたことがないような絶頂を何度も迎えた。優しく愛撫してくれる繊細な手も、力強い腕も、たくましい胸板も…全てがもうどうしようもないほど愛おしくて堪らなかった。
こんな気持ちで迎えた朝は、初めてだった。出来ることなら永遠にこのままでいたい。彼のためなら、全てを変えてもいい…。
ヴァージニアの心はトニーに囚われてしまった。

それからのヴァージニアは、毎日が楽しくて仕方なかった。トニーと共に仕事に向かい、共に帰宅し、そして愛し合う…。恋人なら当たり前のことかもしれないが、ヴァージニアには何もかもが新鮮だった。
「ペッパー、愛してる…」
毎晩力強い腕に抱かれながら愛の言葉を囁かれ、ヴァージニアは幸せだった。
1ヶ月もすると、2人の関係は公のものになっていた。トニーは元々オープンな性格だし、パーティーがあると必ずヴァージニアを同伴し、人前でもキスをしているのだから、マスコミにすっぱ抜かれるのは当然なのだが…。

キリアンからは何度もコンタクトがあったのは知っている。報告しろとメールは毎日山のように来ていたし、電話も何度もかかってきていた。トニーとの関係が公になってからは、その頻度は増していた。だが、ヴァージニアは全て無視していた。ヴァージニアはキリアンの元に戻る気はなかったし、トニーのことをスパイする気もさらさらなかったから…。

***

2人が恋人になり3ヶ月が経った。
トニーはヴァージニアの誕生日にプロポーズをした。永遠に一緒にいたいと、母親の形見だという指輪を渡した。ヴァージニアは勿論了承した。彼女もまた、トニーと永遠にいたかったから…。

だが、幸せが終わる時がやって来た。
『ポッツさん、お客様です』
社長であるトニーなら兎も角、秘書である自分を訪ねてくる者などいない。一体誰かしら…と思いながら受付に行ったヴァージニアは凍りついた。そこには部下を連れたキリアンがいたのだから…。
「よお、ヴァージニア。久しぶり」
ヴァージニアは足が震えて動けない。そんな彼女に近づいたキリアンは、耳元で囁いた。
「スタークと寝たのに、成果なしか?それともスタークに本気で惚れたのか?どっちでもいいが、早く仕事を終わらせろ。そうしないと、お前は産業スパイだと、然るべき所にチクるぞ?そうすればお前は終わりだ」
凍りついているヴァージニアの頬を撫でたキリアンは、嫌な笑みを浮かべると唇にキスをした。
「今日中に情報を全て持ってこい。分かったな」
脅されたヴァージニアは頷くしかなかった。

いっそのこと、トニーに全てを話そうかと思ったが、彼にそんなことを言えるはずはない。そこでこっそりとトニーの家に向かったヴァージニアは、ラボへと降りた。
不思議なことに、ロックは解除されていた。部屋に入っても、J.A.R.V.I.S.は何も言わなかった。
不思議に思ったヴァージニアだが、パソコンには必要なデータも全て揃っており、全てをDLした彼女は、足早にラボを後にした。

リビングに向かうと、会社にいるはずのトニーが立っていた。顔色を変えたヴァージニアを見ても、トニーは表情を崩さなかった。
「必要な物は揃ったか?」
「え………」
戸惑うヴァージニアに、トニーは悲しそうな笑みを浮かべた。
「君が必要な物、全て持っていけ…。それで君が助かるのなら…」
ヴァージニアは震え出した。トニーは知っているのだ。自分の正体も目的も何もかも…。
「わ、私……」
何か言わなくてはと思ったヴァージニアだが、首を振ったトニーは背を向けた。
「さよなら、ペッパー…」
そう言うと、トニーは何も言わずに2階へと向かった。

ペッパーはトニーの家を飛び出した。車に飛び乗り、家へと急いだ。
「どうして……」
涙が止まらなかった。
USBを握りしめたまま、ヴァージニアは泣いた。
彼はいつから知っていたのだろう…。
スパイだと知っていたのに、自分を恋人として受け入れてくれたのだ。愛してると言ってくれたのだ。
「どうして……どうして……」
ヴァージニアは左手の指輪を見た。
涙は指輪の上にポツリポツリと降り注いだ。
今度は右手のUSBを見た。

後悔しかなかった。
トニーを騙してしまったことに対する罪悪感しかなかった。
そして、彼への愛情は本物だったのに…初めて掴みかけた幸せだったのに…それを結局は自分のせいで全て失いかけているという現実に、ヴァージニアはもう我慢できなかった。

ヴァージニアは決意した。
トニーが許してくれるのなら、彼と全てをやり直したいと…。
立ち上がったヴァージニアは工具箱からハンマーを取り出した。そして床に置いたUSBを、それで思いっきり叩いた。何度も何度も…。自分の過去を壊すように…。

破壊されたUSBを拾い上げたヴァージニアは、トニーの家に向かった。

***

トニーはバルコニーで酒を飲んでいた。

彼女の正体は最初から知っていた。それでも彼女に惹かれる何かがあったので、彼女を秘書として採用した。日が経つにつれて、彼女と心が通じ合った気がした。彼女も本来の仕事をすることもなく、新しい人生をやり直したがっているように感じたため、彼女のことを本気で愛した。彼女もまた、自分のことを本当に愛してくれていると思っていたが…。

だが、彼女は去った。
雇い主に脅されているのだから仕方ない。自分の渡した情報で、彼女が救われるのなら、自分たちが一時的でも恋人になったことは、意味があったことになるだろう…。
それでもトニーの胸には虚無感が襲い掛かった。
彼女とは本当に生涯を共にできると思っていたから…。
彼女なら、本当の自分を受け止めてくれると思っていたから…。
だが、それも終わりだ。
仕方ない。彼女には彼女の仕事があるのだから……。

溜息を付いたトニーは首を垂れたが、背後に人の気配を感じ、振り返った。
すると、去ったはずのヴァージニアがいた。
真っ赤に目を腫らした彼女は、大粒の涙を流していた。
「…どうして……」
彼女は情報を持ち、雇い主の元に戻ったはず。そうしなければ、彼女の身に危険が及ぶのに…。

唇を震わせるトニーに、ヴァージニアはゆっくりと歩み寄った。
「私…自分の任務を途中で放棄したことってないの。今の私の任務はね……永遠にあなたのそばにいることよ…」
目を見開いているトニーの目の前にやって来たヴァージニアは、彼の手に何かを握らせた。それは破壊されたUSBだった。
トニーはヴァージニアとUSBを何度も見た。
「…いいのか?これがないと君は…」
ヴァージニアはトニーの手ごとUSBを包み込むと、首を振った。
「いいの。もし裁きを受けなければならないのなら、私はきちんと受ける覚悟はできている…。でも、あなたを巻き込みたくないの…。世界一大切で…誰よりも愛しているあなただけは…」
「ペッパー……」
目尻を下げたトニーは小さく笑みを浮かべると、ヴァージニアを抱き寄せた。
「ペッパー…愛してる……」
耳元で囁かれたヴァージニアは、トニーの胸元に顔を押し付けた。
「ごめんなさい…本当にごめんなさい…」
泣きながら何度も謝るヴァージニアを守るように、トニーは彼女の頭を抱え込んだ。

ヴァージニアは話した。今までの経緯と、そして自分はトニーから情報を盗むために送り込まれたスパイであることを…。だが、いつの間にか本気でトニーのことを愛していたので、途中から任務のことはすっかり忘れていたことも…。
トニーは最初からヴァージニアの正体を知っていたこと、それを承知の上で彼女を秘書にしたことも話した。
「だから、君が途中で自分の正体をバラして、助けを求めてきてもいいように、色々と策は練っていたんだ」
そこまで計算済みだったとは…と、ヴァージニアは用意周到すぎるトニーに感服した。が、まずは今をどう切り抜けるかが最優先事項だ。キリアンの設けたタイムリミットは今日の深夜なのだから…。
「私に考えがある」
そう切り出したトニーは、自分の案をヴァージニアに話した。
話を聞き終えたヴァージニアは、トニーの案に賭けることにした。
「あなたが考えたアイデアよ。上手くいくに決まってる」
そう言い切ったヴァージニアは、トニーにキスをすると準備をし始めた。

***

もうすぐ日付が変わる。
やはりヴァージニアは逃げたか…と、時計を見上げたキリアンは、小さく唸った。
「あの女、キリアンさんから逃げられると思ってるんですかね?」
キリアンの部下であるサヴィンは、大欠伸をするとボスを見た。
「戻ってこなかったことを後悔させてやろう。スパイだと通報し、全ての責任をあいつに背負わせる。そうすればあの女は俺に助けを求めにくるはずだ。手を差し伸べるふりをして、あの女は売り飛ばす」
ククっと笑ったキリアンだが、ちょうどその時、ドアのチャイムが鳴った。モニターを見ると、何とヴァージニアが戻ってきたではないか。
「残念。時間ギリギリだが戻ってきた」
肩を竦めたキリアンが玄関に向かうと、ヴァージニアは笑みを浮かべて抱きついてきた。
「会いたかったわ…アルドリッチ…」
抱きつきキスをしてくるヴァージニアを抱き寄せたキリアンは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「会いたかっただと?スタークと恋人になったのにか?」
するとヴァージニアは、不満そうに頬を膨らませた。
「演技に決まってるでしょ?あの男、かなり用心深くて…。婚約までしてようやくラボへのアクセスを許してくれたの。好きでもない男に毎日抱かれていたこっちの身にもなってよ」
唇を尖らせたヴァージニアは本当に怒っているようで、キリアンは機嫌を取るようにキスをした。
「迫真の演技すぎて、この俺がすっかり騙されていたようだな。さぁ、ヴァージニア。機嫌を治してくれ。朝まで可愛がってやろう。それから2人きりでどこかに行こう。お前が行きたい所にどこへでも連れて行ってやる。だからその前に…」
キリアンが手を伸ばした。するとヴァージニアは胸元に手を入れると、USBを取り出した。
「これよ。スターク・インダストリーズの全てが入ってる」
受け取ったキリアンはヴァージニアの腰を抱き寄せ、再びキスをした。
「先に寝室に行け。確認したらすぐに追いかける」
「早く来てね。あなたとシタくてウズウズしてるの…。待ってるわ…」
妖艶に微笑んだヴァージニアは、手を振りながら寝室へと向かった。

寝室へ向かうふりをして、ヴァージニアは廊下を走りバルコニーへ向かった。そして身を乗り出すと、下にハッピーがいることを確認して、飛び降りた。ヴァージニアを受け止めたハッピーは、彼女を連れて車へ向かった。

後部座席にはトニーがいた。
「さてと、餌に食いついてくれよ…」
手を摺り合わせたトニーは、何やら打ち込むとパソコンのモニターを見つめた。暫くすると、モニターに複数の画面が映し出された。小さくガッツポーズをしたトニーは、モニターを覗き込んでいるヴァージニアとハッピーに向かって頷いた。
「よし、繋がった。始めるぞ…」

トニーの計画はこうだ。
ヴァージニアがキリアンに渡したUSBはハッキング装置。
キリアンのパソコンには、おそらくヴァージニアに関する情報が入っている。そこで彼のパソコンをハッキングし、全ての情報をコピーすると同時に、ヴァージニアに関する情報は全て削除する。勿論その間、キリアンたちは自分で操作など出来ない。You Tubeに上がっている、可愛い子犬の動画が延々と流れる仕組みだ。USBを抜いても無駄だ。トニーから接続を切らない限り、例え電源を落としてもキリアンは何もできないのだ。
そしてトニーが接続を切ると、然るべき所に通報がいき、キリアンたちは逮捕されるという訳だ。

黙ってパソコンを操作していたトニーは、ものの数分で全てをやってのけた。
「よし、終わりだ。ハッピー、帰るぞ」
「はい、ボス」
トニーがパソコンを閉じると、ハッピーは車を発進させた。と同時に、何台ものパトカーがやって来た。それを横目に、トニー たちは帰路に着いた。

***

翌朝。
メディアはキリアン逮捕のニュースで持ちきりだった。長年にわたり、複数の会社の技術を盗み自分のものにしていたと、マスコミは騒ぎ立てていた。勿論、ヴァージニアのことは一切報じられていなかった。

「これで君の任務は完了だな」
ベッドの中でヴァージニアを抱きしめ、テレビを見ていたトニーは、彼女にそう告げた。するとヴァージニアは、悪戯めいた笑みを浮かべると、首を伸ばしトニーにキスをした。
「言ったでしょ?私の今の任務は、あなたのそばにずーっといることよ」
その言葉に大袈裟に目を丸くしたトニーは、ヴァージニアを抱きしめたまま彼女を押し倒した。
「そうだった。では、今日は、私は一日中ベッドの中にいるつもりだ。君もだぞ、ペッパー。私のそばにいるのが君の任務だからな」
「了解、ボス…」
トニーのキスを全身に受けながら、ペッパーは幸せそうに微笑んだ。

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