「Everything Is For You」カテゴリーアーカイブ

Everything Is For You㉔

「…ん」
ボンヤリしていた頭が次第に晴れ渡り、トニーはゆっくりと目を開けた。
「トニー!気がついた?」
目に涙を浮かべた最愛の女性の顔が5cm程の距離にあり、一体何事かとトニーは目をぱちくりさせた。
「ペッパー…俺…」
頭を起こそうとしたトニーだが、後頭部がズキズキ痛む。そっと触れると頭には大きなコブが出来ている。それに左足はギブスで固定されており、胸を撃たれたのにどうして足が固定されているのだろうかと、トニーは首を傾げた。
「俺、後ろから撃たれて…」
困惑するトニーだが、ペッパーの方も何故か驚いた顔をしており、彼はますます頭を悩ませた。
「トニー…思い出したの?」
目を丸くしたペッパーに、トニーは再び首を傾げた。
「思い出すって…俺、記憶でも失ってたの?君が誘拐されて、現場に行ったら、後ろから撃たれたんだよな?それから…何があったんだ?」
どうやらトニーは、この数週間のことを全く覚えていないようだ。ほぅっと息を吐き出したペッパーは、どこまで話すべきかしら…と一瞬思ったが、全てを掻い摘んで話すことにした。
「あなたを背後から撃ったのは、キリアンの仲間の警察官よ。あなたは2発撃たれて…。1発は心臓の近くを貫通して、もう1発は頭に当たっていたの。だからずっと意識不明で…。それでもあなたは頑張って戻ってきてくれたわ。だけど意識が戻ったあなたは、記憶喪失になってたわ。私たちのことはおろか、自分のことも全て忘れてしまっていたの…」
目を瞬かせたペッパーは、トニーの手を握りしめるとニッコリ笑った。
「でも、良かったわ。記憶が戻って…」
何もかも記憶を失っていたと聞き、心配かけてばかりだったのだとトニーは顔を曇らせた。徐々に撃たれる前の事を思い出したトニーは、事件の首謀者である男のことが頭を過ぎり、顔色を変えた。
「あいつは…。キリアンは捕まったのか?!あいつ、君に酷いことを…」
あの時のことは今思い返しても反吐が出そうだ。ギッと歯を食いしばったトニーを落ち着かせようと、ペッパーは彼の手を軽く叩いた。
「あいつは死んだわ。あなたと揉み合いになって、あなたたちは階段から転がり落ちたの。あなたは左足を骨折して頭を打った…。でもキリアンは打ち所が悪くて…命を落としたわ」
目を閉じたペッパーは、ポツリと呟いた。
「やっと終わったわ……」
十年以上に渡る悪夢が、今度こそようやく終わった。もう怯える必要はないのだ。トニーが傷つけられることも二度とない…。
「トニー…怖かった…。あなたのこと…永遠に失うって…そう思うと…」
身体を震わせたペッパーの目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「ペッパー…俺は戻ってきた。それに…もう終わったんだ…。だから大丈夫…」
泣き出したペッパーを抱きしめたトニーだったが、ふと違和感を覚え、彼女をじっと見つめた。と、ここでトニーはようやく気付いた。ペッパーの体型が元に戻っていることに…。
「…ちょっと待て!ペッパー…腹が小さくなってる…」
そう言えば、まだ伝えていなかったわね…と、ペッパーはしゃくり上げながら涙を拭った。
「生まれたの。1ヶ月早かったけど…」
娘が産まれたと知ったトニーは、ベッドの上で飛び上がった。
「う、産まれたか?!俺が寝てる間に?!何で起こしてくれなかったんだよ!!感動の瞬間を俺は逃したっていうのか?!」
「意識不明だったんだから、仕方ないでしょ?」
本気で悔しがるトニーに、ペッパーはため息をついたが、いつもの見慣れた光景が戻ってきたと実感し、彼女はクスクス笑い出した。
トニーは余程悔しかったのか、まだブツブツと文句を言っている。トニーが目覚めたことを知らせようとナースコールを押したペッパーは、トニーの頬に素早くキスをした。
「あの子に会いに行く?」
パッと顔を輝かせたトニーは、満面の笑みで頷いた。

車椅子を押しNICUに向かう道中も、トニーはソワソワとしていた。歩けないのに今にも駆け出して行きそうな勢いのトニーを制したペッパーは、ゆっくりと保育器に近づいた。
2人の娘、アナスタシアは目を覚ましていた。産まれた時よりも随分と大きくなった彼女は、手足をばたつかせていた。トニーは顔を付けてマジマジと娘に見入っている。
「…かわいい……」
保育器に手を触れたトニーをアナスタシアはじっと見つめた。
「抱っこしてみます?」
看護師に言われトニーは頷いたが、不安げにペッパーを見つめた。大丈夫よと言うようにペッパーが肩に手を置くと、深呼吸をしたトニーは娘を看護師から受け取った。
初めて抱く娘は小さかった。壊れ物を扱うかのようにそっと抱きしめたトニーを、アナスタシアは大きな目でじっと見つめている。
「アナスタシア……パパよ…」
ペッパーが娘の柔らかな頬を擽ると、小さなアナは手を伸ばしトニーの指に触れた。小さな小さな手で指を握る娘は思いの他力強く、そして何より温かかった。
その途端、トニーの胸に初めての感情が襲いかかった。腕の中にすっぽり収まる小さな存在は、彼にとって世界一大切な存在になった。
命を掛けたい存在はペッパーだけだった。だが、この娘を守るためなら、世界だってくれてやる…。
「俺の…娘…」
一言一言確かめるように囁いたトニーの目には薄らと涙が浮かんでいる。
「そうよ。あなたにそっくりでしょ?」
背後から抱きついたペッパーは、トニーの頭を抱えると、少し伸びてくしゃくしゃになった髪を梳いた。
「ペッパー…俺…今、人生で最高に幸せだ…」
そう言うと、トニーは娘の額にキスをした。くすぐったそうに顔を緩めたアナスタシアは、父親の指をギュッと握り締めた。

㉕へ…

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Everything Is For You㉓

一週間もすると、トニーはすっかり落ち着いた。少しでも自分のことを…そしてペッパーとの時間を思い出したいというトニーのために、今日もジャーヴィスが写真片手に思い出話を語っていた。
「こちらは、トニー様が初めてご自分で作られたロボットでございます」
古びた新聞記事には確かに自分の名前が書いてある。
「ロボット?ぼく、ロボット作ったの?」
にわかに信じられないトニーだが、ジャーヴィスは誇らしげに告げた。
「はい。トニー様は幼い頃よりとても優秀でございました。お父様のハワード様もとてもお喜びになられましたよ」
当時を思い出したのか、ジャーヴィスは懐かしそうに記事を眺めている。
別の記事を手に取ったトニーは、写真をじっと見つめた。
幼い頃の自分と写っている男性…ハワード・スタークという名前のこの男性が自分の父親のようだ。と、ここで彼はあることに気付いた。目覚めて何日も経つが、この男性の姿は一度も見ていないと…。父親だけではない、母親の姿も見たことがないばかりか、誰も両親の話は口に出そうとしないということに…。
「ねぇ、ぼくのパパとママは?」
誰も話題にしないのだから聞いていいのか迷ったトニーだが、今聞かなければ誰も教えてくれない気がした。
ジャーヴィスはトニーの言葉に一瞬顔を強張らせた。真実を告げるべきか否か…。ジャーヴィスが助けを求めるように妻を見つめると、アナはトニーにやんわりと告げた。
「お父様とお母様は、お仕事で遠くにいらっしゃいますが、すぐに戻って来られますよ」
十数年前、頻繁に口に出していた台詞をまた言うことになるとは…。悲しい嘘だが、今のトニーに真実を知らす訳にはいかないのだ。両親に当分会えないと聞き口を尖らせたトニーだが、大好きなジャーヴィスとアナが辛そうな表情をしているのに気づくと、わざと明るい声で告げた。
「ジャーヴィスとアナがいるからいいや。パパとママみたいだもん。それから、ペッパーがいるから、ぼく、さみしくないよ!」

その頃ペッパーは、NICUにいた。2週間経ち、ようやく娘を抱くことが許可されたのだ。
産まれた時よりも少しだけ大きくなった娘を抱きしめたペッパーは、父親によく似た娘の小さな頭をそっと撫でた。
「アナスタシア…早くパパに会いたいわよね…。パパもあなたに早く会いたいって言ってるわ…」
小さな手で母親の指を掴んだアナスタシアは、ふにゃっと笑ったように見えた。可愛らしく天使のような顔に、もしかしたらこの子を見たらトニーの記憶は戻るかもしれないとペッパーは感じた。一方で、余計に混乱させる可能性もあるという不安も拭いきれなかった。だが、ペッパーは賭けてみることにした。娘は必ず希望を見出してくれると…。

「トニー、散歩に行かない?」
病室に戻りトニーを誘うと、彼は嬉しそうに顔を輝かせた。
「うん!」
ペッパーと過ごすことが何よりの楽しみになっているトニーは、ベッドから飛び起きた。

中庭にやって来た2人は、木陰のベンチに腰を下ろした。
「トニー、気分はどう?」
頭に包帯を巻いたトニーの顔色はまだ悪いが、彼は2人きりで過ごせると嬉しそうだ。
「うーん。あたまがいたくなることはあるけどね、ペッパーといるとわすれちゃうよ」
ヘヘッと笑ったトニーは、ペッパーの腰に手をまわすと抱きついた。
「こうやってるとね、ぼく、いやなことはぜんぶわすれちゃうんだ。ペッパーがぼくのおよめさんでよかった!」
トニーの頭をそっと撫でると、彼は目を閉じペッパーの胸に顔を押し付けた。記憶を失う前の彼も、何かあるとよくしていたこの光景。懐かしさとそして切なさがペッパーに襲いかかり、彼女は彼女だけのトニーを取り戻したくて仕方なかった。
娘のことを話そうと覚悟を決めたペッパーは、何度も深呼吸するとトニーの身体を離した。そして彼の手を取ると、じっと目を見つめた。
「トニー、実はね、話してないことがあるの。でも…話すとあなたは混乱してしまうかもしれないわ…」
真剣な眼差しにトニーは思わず姿勢を正した。彼女は自分の記憶にない重要なことを話そうとしている。それはもしかしたら、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られなかった。
「おしえて」
真摯な瞳に見つめられたペッパーは、再び深呼吸をすると、真実を話そうと口を開いた。
「実はね…あなたと私には…あか…」

「ヴァージニア。どうしてまだそいつといるんだ?」
もう二度と聞きたくない声が聞こえ視線を上げると、目の前にキリアンが立っていた。
唇を震わせ真っ青になったペッパーの異変に気づいたトニーだが、そばにいる男の顔に見覚えはなかった。
「おじさん、だれ?」
キョトンとしたトニーは首を傾げたが、『おじさん』と言われたキリアンはまだそんな歳ではないと、そして何度も顔を合わせているのに覚えてもらえていないことに憤慨した。
「おじさんだと?スタークよ。私のヴァージニアを返してもらおう」
状況はよく分からないが、見知らぬ『おじさん』はペッパーのことを『ヴァージニア』と勘違いしており、彼女を連れて遠くへ行こうとしている…。
ペッパーは自分の『およめさん』なのだから、そんなことは絶対に許されない。だからこの『おじさん』を止めなければ…と、考えたトニーは、キリアンとペッパーの間に腕を広げて立ちはだかった。
「おねえちゃんは、ヴァージニアじゃない!ペッパーだ!ペッパーはぼくのおよめさんだから、どこにもいかせない!」
先ほどから、トニー・スタークは話が通じない。しかも自分の妻のことを『おねえちゃん』と呼んでいる。頭を負傷し意識不明だったことを思い出したキリアンは、もしかしたら…と目を見開いた。
「おい、こいつ…もしかして…。記憶喪失にでもなったのか?!おい、最高だな!それなら話は早い」
ハハッと笑ったキリアンは、トニーに近づくと顔をぐっと近づけた。
「お前は騙されてるんだよ、スターク。この女はペッパーなんて名前じゃない。ヴァージニアだ。それから俺と結婚してるんだ。お前は記憶を失って可哀想だからと、みんなが哀れんで、そういうふりをしてるだけなんだよ!」
「トニー!聞いちゃダメ!こいつの言うことは全部嘘よ!」
キリアンを追い払おうとしたペッパーだが、逆に手を掴まれ逃げられなくなってしまった。そして泣き出しそうな顔をしたトニーは頭痛がするのか頭を抱えると蹲ってしまった。その場から動かなくなったトニーをせせら笑ったキリアンは、ペッパーの手を引っ張り歩き出した。

頭が割れるように痛い。心臓は耳障りな程脈打ち、今にも破裂しそうだ。
ペッパーを取り戻すには、大切なことを思い出さなければならないのに、心と身体は相反し言うことを聞いてくれない。

そうだ…前にもあった…。
ペッパーが…あいつに奪われかけたことが…。
いつも守れず傷つけてばかりだった…。
だから…今度こそ…俺の手で…。

「ちがう……違う…。ペッパーは…俺の…」
地面に握り拳を叩きつけたトニーは、閉じていた目をパッと開いた。
(そうだ…。ペッパーは…世界一大切な俺の妻だ…)

全てを思い出したトニーは顔を上げた。嫌がるペッパーを連れたキリアンは、数メートル先を急いでいる。
「待てよ!」
立ち上がったトニーは大声で叫ぶと走り出した。ふらつきながらもキリアンに追いついたトニーは彼に飛びかかった。
「ペッパーは渡さないぞ!」
不意打ちに驚いたキリアンは、ペッパーの手を離すとトニーを殴りつけた。ただでさえ痛む頭は、殴られどうにもならない程ズキズキし始めた。だがトニーは必死だった。諦めたら全てが終わってしまうのだから…。
揉みあったまま、2人は階段の近くまでやって来たが、お互い必死なため気づいていなかった。このままでは階段から落ち、硬いコンクリートの地面に叩きつけられてしまう。
「トニー!!危ない!」
追いかけてきたペッパーが叫んだ時には遅かった。2人はそのまま階段を転がり落ちた。

㉔へ…

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Everything Is For You㉒


ペッパーの祈りが通じたのか、トニーは何とかもちなおした。だが、いつ意識が戻るのかは分からず、再び急変する可能性もあると説明され、ペッパーは祈りながらただ手を握り続けていた。

数日後、目覚めるきっかけになれば…と、ジャーヴィスがトニーの好きな物を色々と持ち込んできた。そして、もう一つ持ってきた物は…。
「ペッパー様、こちらを…」
それは、トニーが書き溜めていた子供の名前だった。何十枚もある紙には、思いついたら書いていたのだろうか、大小様々な大きさの文字でいくつもの名前が書かれていた。
「トニーったら…何個考えてたの?」
トニーにチラリと視線を送ったペッパーは、一枚ずつ眺めていったのだが、とある名前が目に留まった。
『アナスタシア』
ギリシャ語で『復活』を意味する名前は、今の自分たちにぴったりかもしれない。それに赤ペンで囲ってあるところを見ると、トニーもこの名前が気にいっていたのだろう。
「アナスタシア・マリア・スターク…。トニー…素敵な名前ね…」
名前を決めたとNICUのスタッフに知らせるため、トニーの額にキスをしたペッパーは立ち上がった。
すると…。
「ん…」
微かに息の漏れる音がし、ペッパーは振り返った。

トニーの瞼がピクピク動いている。そして彼はゆっくりと目を開けた。

ようやく目覚めてくれた…。
嬉し涙が次々とペッパーの目から零れ落ちた。
「トニー…」
ベッドに駆け寄ったペッパーはトニーの頬を撫でると、手を握りしめた。何度も瞬きをしたトニーだが、反応がない。
「トニー?」
視線をキョロキョロと動かしていたトニーはペッパーに目を止めたのだが、ぼんやりとした瞳にはいつもの光はなく、逆に困惑の色すら見える。
(トニー…どうしたの…)
ペッパーの胸に不安が一気に押し寄せたが、とにかく目覚めたことを知らせなければ…と、ナースコールを押した。

「ここがどこか分かりますか?」
という医師の質問にトニーは小さく首を振った。
「ここは病院です」
「びょういん……」
と呟いたトニーは、目をぱちくりさせると口を開いた。
「ねえ、どうしてみんなないてるの?」
まるで子供のような口ぶりに、部屋にいた全員が凍り付いた。ざわめき出した室内の雰囲気に泣き出しそうな顔をしたトニーは、
「ねぇ、おじさんたち、だれ?ぼくは…だれ?」
と言うと、頭を抱えてしまった。

「スタークさんは全ての記憶を失われています。自分が誰かも…そして…あなた方のことも…。幼児退行でしょう。苦しみも悲しみもなかった子供の頃に戻ってしまったのです。それに加えてスタークさんの場合は、自分に関する記憶全てを失われています」
つまり、今までの記憶は全て『有害なもの』と判断され、トニーは何もかも忘れてしまったということだ。唇を噛み締めたペッパーに、今は無理に思い出させないようにしましょうと医師は告げた。

「トニー様…」
ジャーヴィスの呼びかけにもトニーはじっと見つめてくるばかり。
「トニー様、私はエドウィン・ジャーヴィスと申します。スターク家の執事でございます。トニー様が幼い頃より家庭教師も務めておりました」
優しく温かみのある声にトニーは少しだけ不安が薄らぐのを感じた。
「ジャーヴィスさん、ぼくのなまえは、トニーっていうの?」
不思議そうな顔をしているトニーの手を包み込んだジャーヴィスは、笑顔で頷いた。
「はい。アンソニー・エドワード・スターク様です。もっともあなた様はそのお名前がお嫌いだと、トニーと呼ぶように言われておりますが」
「トニー・スターク…。ぼくはトニー・スターク…」
ようやく自分の名前を知ることができたと、嬉しそうに笑ったトニーは、自分の名前を何度も繰り返した。
その光景に耐えきれなくなったジャーヴィスは、
「トニー様、ジュースを買ってまいりますね」
と言うと、部屋を後にした。

ジャーヴィスと入れ替わりに、今度はペッパーがやって来た。医師からは焦らないようにと言われていたが、目の前にいるトニーは自分のよく知っているトニーなのだから、もしかして自分と話をすれば彼は思い出してくれるかもしれないと、ペッパーは密かに期待していた。
「トニー?」
アナが持ってきたぬいぐるみ…幼い頃のトニーのお気に入りだったテディベアで遊ぶ彼は、自分の夫の姿とはかけ離れており、ペッパーは胸が苦しくなってきた。
ペッパーに気づいたトニーはぬいぐるみを手放すと、首を傾げた。
「おねえちゃん、だれ?」
目覚めた時にそばで泣いていた見知らぬ女の人は、ゆっくり近づいてくるとベッドの側の椅子に腰掛けた。
「ペッパーよ」
ペッパーと名乗った女の人は、『子供の』トニーから見ても美しく、そしてとても優しそうな人だった。
「おねえちゃん、かわいいね。ぼくのおよめさんにしてあげようか?」
記憶がないながらも口説くトニーに、ペッパーに思わず笑みが浮かんだ。
「トニー、私はもうあなたの奥さんなのよ」
トニーの手を取ったペッパーは、彼の指に光る指輪に触れた。
「私たちの結婚指輪よ」
自分の指輪も見せると、トニーは不可解な顔をした。
「でも、ぼく…ちいさいから、まだけっこんできないよ?」
どうすればいいのか戸惑うトニーの目には涙が溢れ始めた。焦らせてはいけないと分かっているのに、ペッパーは彼に何とか思い出してもらたいという気持ちを抑えることができなかった。
「いいえ、トニー。あなたは19歳。だから結婚できる年齢なのよ…。思い出して…。あなたと私は恋に落ちて、結婚して…幸せに暮らしていたことを…」
「ぼ、ぼく……ぼく……」
顔を歪めたトニーの身体が震え始めた。
「トニー…お願い……」
ペッパーが手を握りしめると、トニーの呼吸は段々と荒くなり、頭を押さえた彼は唸り声を上げた。
「トニー?」
うんうん唸り始めた彼は、ペッパーの手を払い除けると、声を上げて泣き出した。
「大変…」
ナースコールを慌てて押したペッパーは、どうしていいか分からず、その場に座り込んだ。

「スタークさん。焦ってはダメです。ゆっくり時間をかけて様子を見ましょう」
医師に窘められたペッパーは、気持ちを落ち着けようと何度も深呼吸をし、病室へ戻った。
トニーは頭から布団を被っていたが、その身体は小さく震えていた。
「トニー…ごめんね…」
そっと布団の山に触れると震えは止まり、トニーはもそもそと頭を出した。
「おねえちゃん…ホントにぼくのおよめさんなの?」
上目遣いで見上げてくるその仕草は、いつもの彼と何の変わりもなく、ペッパーはわずかに笑みを浮かべた。
「えぇ、そうよ」
パッと顔を輝かせたトニーは、ベッドの上に飛び起きた。
「ホントなんだね!じゃあ、ぼくのこと、なんでもしってる?」
「そうね。あなたが話してくれてない秘密があれば、別だけど…」
悪戯めいた笑みを浮かべたペッパーに、トニーは目を瞬かせた。
「ぼく、びょうきなの?どうしてぼく、なんにもわからないの?」
詳細を話せばトニーは混乱するだろう。できるだけショックを与えないように、ペッパーは小さな嘘を付くことにした。
「あなたは…大変な事故に巻き込まれたの。頭に怪我をして…それで…全てを忘れてしまったの…」
幸いにもトニーはペッパーの嘘に気づくことはなかった。
「そうなんだ…」
顔を曇らせたトニーだが、顔を上げるとペッパーの目を見つめた。
「ぼくね、ずっとゆめをみてたんだ。わるいおじさんがぼくのことおいかけてきて、おじさんはぼくのこと、なぐるんだ…。でもね、おねえちゃんがいつもたすけてくれるんだよ。おねえちゃんがぼくのこと、だっこしてくれるとね、おじさんはどっかにいっちゃうんだ!だからね、ぼく、おねえちゃんのこと、すきだよ。おねえちゃんがね、ぼくとてをつないでくれると、たのしくなるんだよ」
トニーは夢の中でもあいつに苦しめられている…。もしかしたら、何も言わなかったけど、数年前の暴行事件以来、ずっとそうだったのかもしれない。思い返せば、トニーは時折夜中にうなされていることがあった。あの事件は彼の心の奥深くに根付いており、今回の事件がきっかけで、彼は苦しみから逃れるために全ての記憶を手放したのかもしれない…。そう思うと、ペッパーはトニーが嫌ならば無理に思い出さなくてもいいのではと思った。
トニーの頬を優しく撫でたペッパーは、愛おしそうに彼を見つめた。
「私はね、あなたのことを世界一愛してる…。だからもしこのままあなたの記憶が戻らなくても、いいわ。また最初から…2人でやり直していきましょ?」
ようやく心からの笑顔を見せてくれた『おねえちゃん』は本当に美しく、トニーはこの人なら側にいても安心だと感じた。
「ずっといっしょにいてくれる?」
おずおずと尋ねるトニーに、ペッパーはにっこりと笑顔を見せた。
「えぇ。ずっと一緒よ。あなたのこと、絶対に守ってみせるわ」
「よかった」
と呟いたトニーはペッパーにギュッと抱きついた。胸元に顔を押し付けると、トニーは何とも言えない不思議な気持ちになった。
(どうしてだろう…ぼく…これ、しってる……)
ぎゅうぎゅうと顔を押し付けるトニーの髪の毛を優しく梳いていたペッパーが彼の頭にキスをすると
「おねえちゃん、あったかいね」
と、トニーはくぐもった声を出した。
「おねえちゃんのこと、ペッパーって、よんでもいい?」
トニーの口から『ペッパー』という言葉が出た瞬間、ペッパーの胸は一杯になり、思わず涙が零れ落ちた。
「もちろんよ。だってあなたは私の旦那様なのよ」

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Everything Is For You㉑

数時間後、ペッパーは女の子を出産した。
1ヶ月早く産まれた娘は呼吸器が弱いと言われ、保育器に入れられた。

2日経ってようやく歩き回ることを許可されたペッパーは、さっそくNICUへ向かった。チューブに繋がれた娘は小さく、それでも必死で生きようとしている我が子にペッパーは涙が止まらなかった。
「ごめんね…元気に産んであげれなくて…。パパもね…今、頑張ってるのよ…。だからあなたも負けないで…」
大きな目を開けた娘は視線をキョロキョロと動かした。その瞳はトニーそのもので、ペッパーは娘の父親のことを思うと胸が張り裂けそうになった。

生まれる瞬間に立ち会いたいとずっと言っていたトニーなのだから、もう生まれたと知ったらきっと怒るだろう。まだ抱くことすらできぬ娘を見つめていたペッパーだったが、とにかくトニーに知らせようと病室へ戻った。
「トニー、生まれたわ。女の子だったわ…。でも、ごめんなさい…元気な子に産んであげれなかった…。今ね、あの娘も必死で生きようとしてる…。だからあなたも…」
どうしてこんなことになったのだろう。本当なら今頃は、出産に備え2人で幸せに過ごしているはずだったのに…。
今回、運よく乗り切れたとしても、また同じ悲劇が繰り返されるのだろうか…。その時は、トニーだけではなく、娘の命も狙われるのだろうか…。
トニーと娘を守るためには、キリアンの元へ行くしか方法はない。もう愛する家族に会うことはできないだろう…。いや、それどころか、おそらく2度と外の世界に出ることも許されず、ただひたすらキリアンの相手をするだけの日々になるだろう…。
ペッパーはトニーと娘を守りたかった。2人はペッパーにとって、何事にも変えられない程大切な存在。その2人が生きていくためなら、自分は犠牲になっても構わないと考えたのだ。
それでも別れを告げるのは断腸の思いだった。
「それからね…ごめんなさい…。私…あなたのそばにいられない…」
涙が止まらない…。もう二度と寄り添い生きていけないのだから…。
「私の分も…あの子のこと、愛してあげて…」
眠るトニーにキスをしたペッパーは、顔を伏せると声を押し殺して泣き始めた。

「ペッパー…」
名前を呼ばれ顔を上げると、トニーが目の前に立っていた。青白い顔をした彼はまるで亡霊のようで、手を伸ばし触れようとしたペッパーだが、どういう訳だか身体が動かない。
「どうしたの?」
今にも消えてしまいそうなトニーに、ペッパーは無理矢理笑顔を作った。
「ずっとそばにいてくれるって約束したろ?」
トニーは私を引き止めようと現れた…。そのこと気づいたペッパーは、先ほどまでの葛藤を思い出すと顔を歪めた。
「でも…私がそばにいると…あなたを傷つけてしまうわ…」
悲しそうな顔をしたトニーは、静かに首を振った。
「君がいない方が辛い。何度傷ついても、君がそばにいてくれる…俺はそれだけでいいんだ。君は俺の全てだから…」
トニーの言葉にペッパーは涙が止まらなかった。だが、トニーが傷つくのをもう2度と見たくない…。彼を守るための決断なのだから…。
「あなたを守りたいの…。あなたは世界に必要とされている人…。それを私のせいで奪うなんてできないわ…」
静かに涙を流すペッパーを黙って見つめているトニーは、今や消え入りそうになっている。
「…分かった。言っておくけど…君がそばにいないなら、俺はこの世に未練はない…」
「え…」
どういうことかと尋ねようとしたが、トニーの姿はすでになかった。

騒がしい音にペッパーが我に返ると、トニーに付けられたモニターから警告音が鳴り響いていた。
「トニー?」
先程まで波打っていたモニター画面は、真っ直ぐな線を描いており、周りでは医者や看護師が慌ただしく蘇生のための準備をし始めた。
「スタークさん、廊下でお待ちください」
部屋から追い出されたペッパーは、廊下で跪いた。
「トニー…分かったわ…。ずっとそばにいるわ…。あなたと私と…それから私たちの娘と3人で…ずっと生きていきましょ?」
ペッパーは祈った。祈ることしか出来なかった。たただひたすらに、トニーが戻ってきますようにと…。

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Everything Is For You⑳

トニーと共に病院へ担ぎ込まれたペッパーもすぐにあらゆる検査を受けた。ペッパー自身にも胎児にも特に問題はないと言われ、付き添っていたアナはほっとした。が、呆然としたままのペッパーはトニーの名を呼び続けるばかり。
何とかペッパーを休ませたアナは、手術室の前にいる夫とそしてペッパーの元を行ったりきたりしていたが、半日以上経っても状況は変わらなかった。
丸一日経つ頃、ようやくトニーは手術室から出てきた。そして目を覚ましたペッパーの元に執刀医が状況を説明するとやって来たのだが、彼は悲痛な顔をしており、トニーの状態があまり良くないのだとペッパーは唇を噛み締めた。
「先生…主人は…」
泣き出しそうなペッパーに、医師は僅かに目を伏せた。
「弾丸は2発。1発は心臓からわずか5cmの所を貫通していました。そしてもう1発は…頭部に被弾していました。手術中も何度も心停止し…何とか持ち直しましたが…。非常に危険な状態です…」
(どうして……。どうして彼は…いつも私のせいで…苦しまないといけないの……)
真っ青になったペッパーは目の前が真っ暗になり、そのまま意識を失ってしまった。

「あの警官はキリアンに買収されていました。スタークさんをおびき寄せ、殺すように命じられたそうです。キリアンを逃がしたのも彼です。他にも協力者がいたようで、現在捜査中です」
翌朝説明に来た署長は、こんなことになって申し訳ないと頭を下げ続けた。
「キリアンは逃走中です。スタークさん、もしかしたら連絡が入るかもしれません。その時は…」
と、ペッパーに告げたのだが、彼女はトニーの手を握りしめ何やら話しかけており、署長の言葉は聞こえていないようだ。
「分かりました。すぐにご連絡致します」
代わりに答えたジャーヴィスは、詳細を聞こうと署長を部屋から連れ出した。

「トニー……ゴメンネ…。私がいると…あなたをいつも傷つけてしまうわ…」
謝罪の言葉を口に出したペッパーだが、『君のせいじゃない。何回言えばいいんだ?』と笑いながら答えるトニーの声が聞こえた気がし、微笑んだ。
「そうよね…。また謝ってばかりってあなたは怒るんでしょ?」
クスクス笑ったペッパーだが、ふと携帯が震えているのに気付き、相手が誰か確認せずに通話ボタンを押した。

『やあ、ヴァージニア。残念ながらスタークと再会できたようだな?』
電話の主は、アルドリッチ・キリアンだった。キリアンの声を聞いた瞬間、ペッパーは怒りのあまり怒鳴りつけそうになったが、ここが病院であることを思い出すと、代わりに唇を噛み締めた。
自分に酷いことをしたこともだが、それよりもペッパーが許せないのは、トニーを2度も傷つけたことだ。キリアンのせいでトニーは意識不明の重体。頭部を負傷しており、意識が戻るのかも分からない。それに例え戻ったとしても何らかの障害が残る可能性があると言われているのだから、トニーに対して行ったことは何が何でも許せない。
「どうして彼を傷つけるの。2度と近づかないでと言ったはずよ?」
怒りを抑え震える声で告げたペッパーに、キリアンはわざとらしくため息を付いた。
『言っただろ?お前は俺のもの。邪魔する奴は容赦しないと…。あいつはあの時死ぬべきだった。だが生き残り、君と結婚し子供まで作った。だから俺はあいつを罰しただけだ』
くくっと笑ったキリアンは、絶句したままのペッパーを諭すように話し続けた。
『あの男のこと、守りたいのか?だったら俺の言う通りにしろ。逃げれば追う、邪魔する奴は容赦しない。言っただろ?お前は俺から逃げられないんだ。逃げれば同じことの繰り返しだぞ?』
ペッパーは何も言えなかった。刃向かえばまたトニーが傷つけられそうな気がしたから…。それを分かっているのだろう、今度は愛を囁くかのようにキリアンは優しい声色で告げた。
『ヴァージニア、よく考えるんだな。子供を産んだら、俺の元へ来い。だが、二度とあいつには会えないぞ』
ペッパーが返事をする前にキリアンは電話を切った。

「どうすればいいの…」
トニーとは離れたくない。だがキリアンは執拗に追いかけてくるだろう。そうなると再びトニーは傷つけられてしまう。トニーと、そして娘の命を守るためには、キリアンの言う事を聞くしかないのだろうか…。
「トニー……どうすればいいの…。あなたと離れるなんて…私…嫌よ…。お願い…トニー…目を覚まして…」
大粒の涙がペッパーの頬を伝わり零れ落ちていく。
「もう…嫌…。あいつに怯えて生きていくのは…。トニー…助けて…」
だがいくら呼びかけてもトニーから答えはない。
声を上げて泣き始めたペッパーだが、突然猛烈な痛みが腹部を襲い、顔を顰めた。
「痛っ…」
(後1ヶ月なのに…)
脳裏に浮かんだのは、キリアンに暴行された数日間の出来事。
「い、嫌よ…。この子は…トニーの子よ…。絶対に守ってみせるんだから…」
とにかく誰かを呼ばなくては…と立ち上がったペッパーだが、痛みは我慢出来ないほど強くなり、床に倒れてしまった。
「だれか……お願い……」
破水し今にも産まれそうなペッパーだが、助けを呼ぼうにも唸り声しか出てこない。そこへ戻ってきたのはジャーヴィス。
「ペッパー様!」
血相を変えたジャーヴィスは、助けを呼ぶために再び部屋を飛び出して行った。

㉑へ…

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