トニーが退院する日に合わせて、アナスタシアも家へ帰れることになった。
屋敷で一番日当たりのいい部屋は、アナスタシアのための子供部屋へと生まれ変わり、可愛らしい彼女に皆夢中だった。
産まれた時は小さかった彼女もすくすくと成長していたが、ペッパーはもう少し手がかからなくなるまでは…と、仕事は休み、家で子育てに専念していた。
「アナ〜。パパが帰ってきたぞ?」
その日も帰宅早々、一目散に娘の元に向かったトニーはデレデレと鼻の下を伸ばし、アナに話しかけている。だが、彼の様子はどこかおかしい。何度も深呼吸をしているし、やけに顔色が悪いのだ。
退院して1ヶ月。まだ病み上がりだし、トニー自身も特に何も言わない。ペッパーも娘の世話でいっぱいいっぱいで、トニーのことまで気にかけるゆとりがなく、結局彼女はトニーに聞き出せないでいた。
それから1ヶ月経ったある日のこと。
2週後に迫った大規模な展示会のため、トニーは朝から晩まで働き詰めだった。
早朝家を出て、帰宅するのは日付が変わった頃。この一週間は特に忙しく、家に帰っても妻と娘の寝顔を見つめるだけで、殆ど会話もしていなかった。
「ふぅ…」
会議を終え、自室へ戻ってきたトニーは、額の汗を拭った。今朝は朝から体調が悪い。いつもより息苦しいし、倦怠感が抜けない。
実はトニー、あの事故で心臓に後遺症が残り、無理は禁物だと言われているのだが、そのことは秘書であるバンビとハッピー、それに担当医と数人の病院関係者しか知らない事実だ。ジャーヴィスはおろか、ペッパーにも秘密にしているのは、心配かけたくないとトニーなりに考えた結果なのだが、さすがに今朝は酷い顔色をしていたらしく、ジャーヴィスにひどく心配されたのだから、そろそろ隠しておくのも限界かもしれない。
何度深呼吸しても、動悸は落ち着かない。もしもの時のために処方されている薬を飲もうとカバンを開けた時だった。
ズキン!
トニーの胸を凄まじい痛みが襲った。ぐっと心臓が締め付けられ、息が出来なくなり、トニーはその場に座り込んだ。
「くっ……」
胸を押さえたトニーは再び深呼吸をした。とにかく薬を…と手を伸ばしたが、カバンには届かない。立ち上がろうにも胸の痛みは収まらず、逆に床に倒れてしまった。
「社長、先ほどの……。社長!」
タイミングよく部屋に入ってきたのは、秘書のバンビだった。瞬時に状況を理解した彼女は、部屋の外に偶然いたハッピーに向かって叫んだ。
「救急車呼んで!それから、ミセス・スタークにも…」
ペッパーの名前が聞こえ、トニーは必死に目を開けるとバンビの腕を掴んだ。
「ペッパーに…言うな…」
この後に及んで何を言っているのだと、バンビは非難めいた視線をトニーに向けた。
「ですが…」
「頼む…言うな…」
ふぅと息を吐いたトニーは目を閉じた。
病院へ搬送されたトニーは、そのまま一晩入院することになった。
急遽出張になったとペッパーには告げることになり、代わりにハッピーが付き添うことになった。
「あまりよろしくありません。スタークさんには休養が必要です。身体もですが心も…。あまりストレスをかけないようにしてあげて下さい」
ハッピーに告げた医師は、青白い顔をして眠り続けるトニーを見つめた。
「奥様にお伝えした方がよろしいと思うのですが、スタークさんは頑なに拒否されるんです。ですが…もし何かあった時に…」
言葉を濁した医師は、ハッピーにトニーとよく話し合うように告げると部屋を後にした。
結局目覚めたトニーと話し合ったハッピーだったが…。
「今は話せない」
と、トニーはやはりペッパーに話すことを拒んだ。なぜ話さないのかと尋ねるハッピーにトニーはなかなか理由を話そうとしなかったが、説得されるとポツリポツリと話をし始めた。
未熟児で産まれたアナは、経過を見るために定期的に病院へ通っており、ペッパーは細心の注意を払って娘を育てている。そこへ自分までもが体調が悪いとなると、ペッパーに余計心配を掛けてしまう。アナスタシアが1ヵ月早く産まれたのも、自分が生死の境をさまよったのも、ペッパーは自分のせいだとまだ思っているから…。だからもう少しアナスタシアのことが落ち着いてから話をしようと思っている…。
そう語ったトニーだが、ハッピーはそれならば尚更何か起こる前に話すよう説得し続けた。結局、2週後の展示会が終わったら話をするとトニーはハッピーに約束した。
展示会を翌日に控え、ようやく一息付くことのできたトニーは久しぶりに早めに帰宅した。
「アナ、お前を抱っこするのも久しぶりだな」
父親に抱かれ嬉しそうに手足をばたつかせたアナを入浴させたトニーは、久しぶりに娘と触れ合え嬉しそうだ。だが、トニーは酷く顔色が悪い。夕食もあまり食べなかったし、きっと疲れているのだろうと思ったペッパーは、アナを寝かしつけようとしたトニーから彼女を半ば強引に奪い取ると、寝室へと追いやった。
アナは夜泣きが激しく、トニーとペッパーは別々の部屋で眠っているのだが、ふとトニーのことが気になったペッパーは寝室へと向かった。明日に迫った展示会の準備をしているのか、トニーはPC片手にベッドに座り込んでいた。
「疲れてるんでしょ?明日は展示会なんだから、早く寝たほうがいいわよ?」
隣に腰を下ろすと、トニーはPCをサイドテーブルに置き、ペッパーの腰を引き寄せた。そして彼女の頬をつっと撫でたトニーは、唇を重ねた。
「ん…」
軽く開いた唇の隙間から、トニーの舌が侵入してきた。迎え入れるように舌を絡ませると、トニーはパジャマの裾から手を入れ、素肌に指を滑らせた。
唇が触れる程度の軽いキスは毎日しているが、こんなにも濃厚なキスは久しくしていない。
最後に彼と身体を重ねたのはいつだったかしら…とボンヤリし始めた頭で考えていると、ポケットに突っ込んでいたモニターからアナの泣き声が聞こえてきた。
「俺が行くよ」
名残惜しそうに唇を離したトニーは、素早く立ち上がったのだが、ペッパーはそれを押しとどめた。
「大丈夫。あなたは早く寝なさい」
まるで母親のような口調のペッパーだが、彼女こそ毎晩殆ど眠っていないのだろう。目の下に隈を作った彼女も疲れた顔をしている。反論しようとしたトニーだが、ペッパーは既に寝室を出て行った後だった。
「またかよ…。また一人で抱え込むのかよ…」
結局このパターンなのだ。おそらく仕事で忙しい自分を気遣っての行動なのだろうが、ペッパーは一人で娘の世話をしたがるのだ。トニーも父親として出来る限り協力するつもりだった。最初はオムツ換えもしていた。だが、不慣れな手つきでモタモタしていると、横からペッパーがやって来て、あっという間にやってしまうのだ。それでも入浴は自分の仕事だった。だが、仕事が忙しく帰宅するのも深夜近くになることも多いため、それも数える程しか出来なかった。何でも卒なくこなし、ジャーヴィス夫妻の手助けがあると言っても、一日中1人で面倒を見ているのだ。疲れきった顔をしているペッパーに、トニーは夜泣きするアナを寝かしつけるのを何度も交代すると言ったのだが、ペッパーは頑なに一人でやろうとするのだ。結局殆どトニーの出番はなく、彼はすっかり疎外感を感じていたのだ。
妻と娘のいる生活はトニーにとって心地の良いものであったが、その一方で全く頼りにされないという
不満も溜まっていた。
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