Everything Is For You㉒


ペッパーの祈りが通じたのか、トニーは何とかもちなおした。だが、いつ意識が戻るのかは分からず、再び急変する可能性もあると説明され、ペッパーは祈りながらただ手を握り続けていた。

数日後、目覚めるきっかけになれば…と、ジャーヴィスがトニーの好きな物を色々と持ち込んできた。そして、もう一つ持ってきた物は…。
「ペッパー様、こちらを…」
それは、トニーが書き溜めていた子供の名前だった。何十枚もある紙には、思いついたら書いていたのだろうか、大小様々な大きさの文字でいくつもの名前が書かれていた。
「トニーったら…何個考えてたの?」
トニーにチラリと視線を送ったペッパーは、一枚ずつ眺めていったのだが、とある名前が目に留まった。
『アナスタシア』
ギリシャ語で『復活』を意味する名前は、今の自分たちにぴったりかもしれない。それに赤ペンで囲ってあるところを見ると、トニーもこの名前が気にいっていたのだろう。
「アナスタシア・マリア・スターク…。トニー…素敵な名前ね…」
名前を決めたとNICUのスタッフに知らせるため、トニーの額にキスをしたペッパーは立ち上がった。
すると…。
「ん…」
微かに息の漏れる音がし、ペッパーは振り返った。

トニーの瞼がピクピク動いている。そして彼はゆっくりと目を開けた。

ようやく目覚めてくれた…。
嬉し涙が次々とペッパーの目から零れ落ちた。
「トニー…」
ベッドに駆け寄ったペッパーはトニーの頬を撫でると、手を握りしめた。何度も瞬きをしたトニーだが、反応がない。
「トニー?」
視線をキョロキョロと動かしていたトニーはペッパーに目を止めたのだが、ぼんやりとした瞳にはいつもの光はなく、逆に困惑の色すら見える。
(トニー…どうしたの…)
ペッパーの胸に不安が一気に押し寄せたが、とにかく目覚めたことを知らせなければ…と、ナースコールを押した。

「ここがどこか分かりますか?」
という医師の質問にトニーは小さく首を振った。
「ここは病院です」
「びょういん……」
と呟いたトニーは、目をぱちくりさせると口を開いた。
「ねえ、どうしてみんなないてるの?」
まるで子供のような口ぶりに、部屋にいた全員が凍り付いた。ざわめき出した室内の雰囲気に泣き出しそうな顔をしたトニーは、
「ねぇ、おじさんたち、だれ?ぼくは…だれ?」
と言うと、頭を抱えてしまった。

「スタークさんは全ての記憶を失われています。自分が誰かも…そして…あなた方のことも…。幼児退行でしょう。苦しみも悲しみもなかった子供の頃に戻ってしまったのです。それに加えてスタークさんの場合は、自分に関する記憶全てを失われています」
つまり、今までの記憶は全て『有害なもの』と判断され、トニーは何もかも忘れてしまったということだ。唇を噛み締めたペッパーに、今は無理に思い出させないようにしましょうと医師は告げた。

「トニー様…」
ジャーヴィスの呼びかけにもトニーはじっと見つめてくるばかり。
「トニー様、私はエドウィン・ジャーヴィスと申します。スターク家の執事でございます。トニー様が幼い頃より家庭教師も務めておりました」
優しく温かみのある声にトニーは少しだけ不安が薄らぐのを感じた。
「ジャーヴィスさん、ぼくのなまえは、トニーっていうの?」
不思議そうな顔をしているトニーの手を包み込んだジャーヴィスは、笑顔で頷いた。
「はい。アンソニー・エドワード・スターク様です。もっともあなた様はそのお名前がお嫌いだと、トニーと呼ぶように言われておりますが」
「トニー・スターク…。ぼくはトニー・スターク…」
ようやく自分の名前を知ることができたと、嬉しそうに笑ったトニーは、自分の名前を何度も繰り返した。
その光景に耐えきれなくなったジャーヴィスは、
「トニー様、ジュースを買ってまいりますね」
と言うと、部屋を後にした。

ジャーヴィスと入れ替わりに、今度はペッパーがやって来た。医師からは焦らないようにと言われていたが、目の前にいるトニーは自分のよく知っているトニーなのだから、もしかして自分と話をすれば彼は思い出してくれるかもしれないと、ペッパーは密かに期待していた。
「トニー?」
アナが持ってきたぬいぐるみ…幼い頃のトニーのお気に入りだったテディベアで遊ぶ彼は、自分の夫の姿とはかけ離れており、ペッパーは胸が苦しくなってきた。
ペッパーに気づいたトニーはぬいぐるみを手放すと、首を傾げた。
「おねえちゃん、だれ?」
目覚めた時にそばで泣いていた見知らぬ女の人は、ゆっくり近づいてくるとベッドの側の椅子に腰掛けた。
「ペッパーよ」
ペッパーと名乗った女の人は、『子供の』トニーから見ても美しく、そしてとても優しそうな人だった。
「おねえちゃん、かわいいね。ぼくのおよめさんにしてあげようか?」
記憶がないながらも口説くトニーに、ペッパーに思わず笑みが浮かんだ。
「トニー、私はもうあなたの奥さんなのよ」
トニーの手を取ったペッパーは、彼の指に光る指輪に触れた。
「私たちの結婚指輪よ」
自分の指輪も見せると、トニーは不可解な顔をした。
「でも、ぼく…ちいさいから、まだけっこんできないよ?」
どうすればいいのか戸惑うトニーの目には涙が溢れ始めた。焦らせてはいけないと分かっているのに、ペッパーは彼に何とか思い出してもらたいという気持ちを抑えることができなかった。
「いいえ、トニー。あなたは19歳。だから結婚できる年齢なのよ…。思い出して…。あなたと私は恋に落ちて、結婚して…幸せに暮らしていたことを…」
「ぼ、ぼく……ぼく……」
顔を歪めたトニーの身体が震え始めた。
「トニー…お願い……」
ペッパーが手を握りしめると、トニーの呼吸は段々と荒くなり、頭を押さえた彼は唸り声を上げた。
「トニー?」
うんうん唸り始めた彼は、ペッパーの手を払い除けると、声を上げて泣き出した。
「大変…」
ナースコールを慌てて押したペッパーは、どうしていいか分からず、その場に座り込んだ。

「スタークさん。焦ってはダメです。ゆっくり時間をかけて様子を見ましょう」
医師に窘められたペッパーは、気持ちを落ち着けようと何度も深呼吸をし、病室へ戻った。
トニーは頭から布団を被っていたが、その身体は小さく震えていた。
「トニー…ごめんね…」
そっと布団の山に触れると震えは止まり、トニーはもそもそと頭を出した。
「おねえちゃん…ホントにぼくのおよめさんなの?」
上目遣いで見上げてくるその仕草は、いつもの彼と何の変わりもなく、ペッパーはわずかに笑みを浮かべた。
「えぇ、そうよ」
パッと顔を輝かせたトニーは、ベッドの上に飛び起きた。
「ホントなんだね!じゃあ、ぼくのこと、なんでもしってる?」
「そうね。あなたが話してくれてない秘密があれば、別だけど…」
悪戯めいた笑みを浮かべたペッパーに、トニーは目を瞬かせた。
「ぼく、びょうきなの?どうしてぼく、なんにもわからないの?」
詳細を話せばトニーは混乱するだろう。できるだけショックを与えないように、ペッパーは小さな嘘を付くことにした。
「あなたは…大変な事故に巻き込まれたの。頭に怪我をして…それで…全てを忘れてしまったの…」
幸いにもトニーはペッパーの嘘に気づくことはなかった。
「そうなんだ…」
顔を曇らせたトニーだが、顔を上げるとペッパーの目を見つめた。
「ぼくね、ずっとゆめをみてたんだ。わるいおじさんがぼくのことおいかけてきて、おじさんはぼくのこと、なぐるんだ…。でもね、おねえちゃんがいつもたすけてくれるんだよ。おねえちゃんがぼくのこと、だっこしてくれるとね、おじさんはどっかにいっちゃうんだ!だからね、ぼく、おねえちゃんのこと、すきだよ。おねえちゃんがね、ぼくとてをつないでくれると、たのしくなるんだよ」
トニーは夢の中でもあいつに苦しめられている…。もしかしたら、何も言わなかったけど、数年前の暴行事件以来、ずっとそうだったのかもしれない。思い返せば、トニーは時折夜中にうなされていることがあった。あの事件は彼の心の奥深くに根付いており、今回の事件がきっかけで、彼は苦しみから逃れるために全ての記憶を手放したのかもしれない…。そう思うと、ペッパーはトニーが嫌ならば無理に思い出さなくてもいいのではと思った。
トニーの頬を優しく撫でたペッパーは、愛おしそうに彼を見つめた。
「私はね、あなたのことを世界一愛してる…。だからもしこのままあなたの記憶が戻らなくても、いいわ。また最初から…2人でやり直していきましょ?」
ようやく心からの笑顔を見せてくれた『おねえちゃん』は本当に美しく、トニーはこの人なら側にいても安心だと感じた。
「ずっといっしょにいてくれる?」
おずおずと尋ねるトニーに、ペッパーはにっこりと笑顔を見せた。
「えぇ。ずっと一緒よ。あなたのこと、絶対に守ってみせるわ」
「よかった」
と呟いたトニーはペッパーにギュッと抱きついた。胸元に顔を押し付けると、トニーは何とも言えない不思議な気持ちになった。
(どうしてだろう…ぼく…これ、しってる……)
ぎゅうぎゅうと顔を押し付けるトニーの髪の毛を優しく梳いていたペッパーが彼の頭にキスをすると
「おねえちゃん、あったかいね」
と、トニーはくぐもった声を出した。
「おねえちゃんのこと、ペッパーって、よんでもいい?」
トニーの口から『ペッパー』という言葉が出た瞬間、ペッパーの胸は一杯になり、思わず涙が零れ落ちた。
「もちろんよ。だってあなたは私の旦那様なのよ」

㉓へ…

1人がいいねと言っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。