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母の日 (アベアカ。2017年)

「トニー、明日から実家に帰って来るわ」
突然ペッパーから告げられたトニーは飛び上がった。
つまりそれは出て行くということなのかという考えが一瞬頭を過ったが、ペッパーはニコニコしているのだから、どうやらそうではないようだ。
「何かあるの?」
それでも恐る恐る尋ねてみると、ペッパーは嬉しそうに答えた。
「えぇ。日曜日は母の日でしょ?だから久しぶりに帰ろうと思って」

そういえば、日曜日は母の日だ。今ではもう何もすることが出来ないが、母親が健在な時は、カーネーションとプレゼントを携え、実家に戻っていた。だが、今は…。
亡き母親のことを思い出したトニーは瞳を潤ませたが、ペッパーに悟られてはならないと慌てて首を振った。
が、ペッパーはトニーの涙に気づいていた。そして彼はもう二度と母の日を祝えないのに、1人浮かれていたことを後悔した。
「ねぇ、トニー。よかったらトニーも一緒にどう?ママもあなたに会いたがってるし」
少しは彼の気持ちも晴れるかと思い誘ってみたが、トニーは丁重に断った。
「いや、ペッパー。せっかくの家族水入らずの時間だろ?それに週末は予定があるんだ。スティーブの奴がさ、特訓するぞと張り切っちゃって…。だからアベンジャーズのメンバーで、うちに泊まり込みで特訓だ」
そんな予定があるはずはない。勿論ペッパーの気持ちは嬉しかった。だが、トニーは何となく素直に喜べなかったのだ。
『日曜日はこのレストランでランチをすることになってるの』と、レストランの名前を書いたメモをペッパーは冷蔵庫にこっそり貼り付けた。そして元気のないトニーの様子が気になったが、後ろ髪引かれる思いで実家へと戻って行った。

久しぶりの一人ぼっちの週末。それでも金曜日はアーマーの調整に熱中しているとあっという間に過ぎてしまった。
土曜日は、目が覚めると昼過ぎだった。特に何もする気が起こらなかったので、アカデミー内をランニングしていると、同じくランニング中のスティーブを見つけた。からかってやろうとスピードを早め追い抜くと、あっという間に追い抜かれた。ムキになって追いかけたが、相手は超人血清を打ったスーパーソルジャーだ。敵うはずもなく、疲労困憊でタワーに戻ると、そのままリビングのソファーで倒れるように眠ってしまった。

そして日曜日。
汗まみれの身体をサッパリさせようとシャワーを浴びたトニーは、濡れた髪を拭きながらキッチンへと向かった。
冷蔵庫から水を取り出したトニーは、扉を閉める時になって、ようやく1枚の紙に気づいた。それはペッパーの書いたメモだった。
レストランの名前と住所、そして予約時間の書かれたメモを手に取ったトニーは時計を見た。メモをポケットに突っ込んだトニーは頭を振るとキッチンを後にした。

トニーは両親の眠る墓に来ていた。
途中で買ったカーネーションとバラの花束を墓標の前に置くと、トニーは刻まれた母親の名前をなぞった。
「今日は母の日だろ?随分と忘れてたけど…」
ポケットに手を突っ込んだトニーは、ペッパーのメモを取り出した。彼女と彼女の家族のいるレストランは、奇しくもこの近くだ。メモを見つめていたトニーだが、裏に何か書かれていることに気づいた。

『トニーへ。
もし気が向いたら来て。あなたは私の『家族』なんだから…』

「家族か…」
あの事故で両親は死に、家族は奪われたと思っていた。だから母の日も自分にはもはや関係のない日だと無理矢理思い込んでいた。だが、ペッパーは自分を『家族』として迎え入れようとしてくれている。きっとペッパーだけではなく、彼女の家族も…。
「母さん…。俺さ…素直になった方がいいのかな?」
ポツリと呟いたトニーはそっと目を閉じた。そして思い出した。亡き母親の笑顔を…。何があっても絶対に自分のことを愛し守ってくれた母親は、いつも言っていた。『もっと自分の気持ちに素直になって…』と。
ゆっくりと目を開けたトニーは、亡き母親の言葉を思い出すと、もう1度ペッパーのメモを見た。
「そうだよな。俺、もっと素直になる。せっかくペッパーとご両親が誘ってくれたんだ。今だったらまだ間に合うから、行ってくるよ」
墓標をそっと撫でたトニーは、先ほどまでと違い幾分スッキリした表情になると、足取り軽くレストランへと向かった。

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037.唇をなぞる指先(アベアカ)

079.豹変 の続きです。

それから数日後。
ようやくまともに話ができるようになってきたトニーの元には、毎日のように仲間が見舞いに訪れていた。
今日も朝からブルースが実験の経過を話に来、昼前にはソーが見舞いの品を食べに…いや、顔を覗かせたかと思うと、スティーブがクリントやナターシャとやって来て…。朝から入れ代わり立ち代わり誰かがやって来たのだから、少々疲労感を覚えたトニーはいつの間にか眠ってしまっていた。

唇に何かが触れている…。
温かく柔らかな何かに気づいたトニーがゆっくりと目を開けると、彼の最愛の女性は悪戯の見つかった子供のように目を瞬かせた。
「ごめんなさい、起こしちゃった…」
小さく舌を出したペッパーは肩を竦めた。
「気分はどう?」
痩せてしまった頬を撫でると、トニーは擽ったそうに目を閉じた。
「身体中痛いし動けないし最悪…。でも、君がずっと傍にいてくれるから、悪くないな」
両手すら動かせないトニーをペッパーは、病院に寝泊まりし、付きっきりで看病していた。
ちなみに、ペッパー不在の時は誰がトニー・スタークの介助をするかという争いが看護師の中で勃発していることを、2人は知らない。

暫くは他愛もない話をしていた2人だが、真剣な面持ちをしたトニーが切り出したのは、真っ赤な夕日が窓から差し込み始めた頃だった。
「なぁ、ペッパー。話、聞いてくれるか?」
「いいわよ」
姿勢を正したペッパーに、トニーはふぅと息を吐き出した。
「リアクターのこと…、そろそろ話しておこうと思って…」
トニーは今まで話してくれなかったことを話そうとしている。それは恐らく、トニーの心の奥底にある辛い体験。気づかれないようにゴクリと唾を飲み込んだペッパーは、スカートの裾をキュッと握りしめた。
「これ、何であるか知ってる?」
視線をリアクターに向けたトニーに、ペッパーは頭を振った。
「いいえ。詳しくは知らないわ。あなたの噂って、女の子との噂ばかりでしょ?だからあなたと出会うまで、リアクターのことは知らなかったの」
正直に言ったつもりなのに、トニーは可笑しそうにクスクス笑い出した。
「確かに俺の噂はオンナとのものばかりかもな。それなら、驚いただろ?胸にこんな物が埋まってるなんてさ」
確かに最初は驚いた。初めて彼に抱かれた時、胸に光る見たことがない物に一瞬恐れ慄いた。だが、彼の優しさと愛に包まれると、彼には普通はない物があることもすっかり忘れてしまったのだ。
うん…と小さく頷いたペッパーだが、慌てて首を振った。
「でもね、それはあなたの一部でしょ?だから今じゃあ、リアクターのないあなたって考えられないわ」
真剣な面持ちのペッパーに気持ちが少しだけ楽になったトニーは、深呼吸すると明るめの声を出した。
「これはさ、俺の心臓を守ってる。実は俺の胸元には、爆弾の破片が沢山埋まってるんだ」
「え……」
どういうことなのだろうか…。彼は身体に爆弾を抱えて生きているのだろうか…。
唇を震わせたペッパーは、トニーの腕にそっと触れた。
「リアクターは、破片が心臓に突き刺さるのを防いでる…言わば、俺の命綱なんだ」
ふぅと息を吐き出したトニーに、ペッパーは震える声で呟いた。
「一体…何があったの?」
ペッパーを見つめたトニーだが、視線を伏せるとポツリポツリと話し始めた。
「数年前のことだ。その頃のスターク・インダストリーズは、軍用の武器を製造してた。ある日、紛争地域に新しいミサイルのデモをしに行った。その時、テロリストに襲撃された。一緒にいた何人もの軍人は殺された。俺は逃げ出したけど、傍にミサイルが着弾した。それも…うちの会社のミサイルに…。後で分かったことだけど、親父の腹心だった男がテロリストに武器を売りさばいてた。俺が作った武器で罪のない人が大勢命を落していた…。だから俺は武器製造を止めたんだ」
ふぅと息を吐き出したトニーは、一息つくと再び話し始めた。
「テロリストは俺を洞窟に閉じ込めた。そして俺を拷問した。そこは、誰もいない暗闇と静寂しかない世界だった。誰も助けてくれる人はいなかった。俺を痛めつけて、みんな笑ってた…。ペッパー…あの世界には絶望しかなかった…。胸にはミサイルの破片があるし、いつ死ぬか分からない恐怖に震えながら…俺は過ごすしかなかった」
トニーの身体が震えだした。目を閉じたトニーは当時のことを思い出したのか、必死で恐怖と戦っているようだった。
「トニー…もういいわ…」
トニーが苦しむ姿は見たくなかった。堪らなくなったペッパーは、ギブスで固定されたトニーの右手をそっと握りしめた。が、何度も頭を振ったトニーは、息を整えると再び話し始めた。
「拷問は何日か続いた。すっかり抵抗する気力がなくなった俺は、別の場所に移された。そしてテロリストは、俺に最新鋭のミサイルを作れと命令した。今度は一人ぼっちじゃなかった。近くの村に住んでた科学者が一緒だった。彼は住んでいた村が襲撃され、家族を殺され、連れて来られてた。俺は最初、その人のことも信じられなかったんだ。だから一人の世界に閉じ籠ろうとした。だけどその人に言われたんだ。君が生き残ったのには意味があるって…。君を待っている人がいるって…。その言葉に俺は目が覚めた。その人の力を借りて、俺はミサイルを作るふりをして脱出するためにアーマーを作った。俺の目を覚まさせてくれた人は…俺を逃がすために命を落とした。だから俺は誓った。俺の助けを必要としている人たちを一人でも多く救ってやるって…。だから俺はアイアンマンになったんだ」
想像以上に壮絶な話だった。トニーは今までどれだけの重荷を1人で背負い闘ってきたのだろう…。
黙ったままのペッパーだったが、その目からは涙が次々と零れ落ち、トニーの身体を濡らしていった。恋人の涙に気づいたトニーは頬を緩めた。ペッパーが自分のために涙を流してくれていることが嬉しかったから…。
「今までさ、この話を詳しくしたのは、ローディだけだったんだ。君にもいつか話さなきゃって思ってたけど、なかなか勇気が出なくってさ…。でも、ペッパー、君なら俺のこと、全て受け止めてくれるって…そう思ったから、今日、君に話をした。ありがとう、聞いてくれて」
そう言って微笑んだトニーはとてもスッキリした顔をしていた。
その笑顔を見たペッパーは心に誓った。
話を聞き思いを受け止めることで彼が救われるのなら、これから先、何があろうとも彼のことを受け止めてみせる…と。
涙を拭ったペッパーは、トニーの唇を指で触れるとそのまま頬を両手で包み込んだ。
「ありがとう、トニー。話してくれてありがとう…」
そのまま頬に何度かキスをすると、トニーはわざとらしく顔を顰めた。
「早く君のこと抱きたい…」
すっかりいつもの口調に戻ったトニーにひと安心したペッパーも調子を合わさるように肩を竦めた。
「あら、残念。でも、もう少し我慢して…」
頭を軽く撫で猫っ毛の髪の毛を梳くと、トニーは気持ちよさそうに目を閉じた。

112.蜂蜜の使い方

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079.豹変(アベアカ)

129.猿轡 の続きです。

「スタークよ、今回ばかりは私の判断ミスだった。すまなかった」
あの事件から2週間。
生死の境を彷徨っていたトニーが意識を取り戻したのは1週間前。だが、彼は身動き一つ取れないばかりか、話ができる状態ではなかったため、ペッパー以外の人間はずっと面会謝絶だった。それがようやく面会が叶うようになり、その第一号としてニック・フューリーがやって来たのだ。
開口一番謝罪の言葉を口に出したフューリーは、彼にしては珍しくずっと頭を下げ続けている。

ヒドラが開発していた兵器とは、超人血清を打った人間だったのだ。それも、ただ肉体的に強靭なのではなく、知性を備えた究極の人間兵器。そして彼らがうってつけだと考えたのが、トニー・スタークだった。つまりフューリーは、敵の罠の中にトニーを送り込んでしまったのだ。もしあの時、数分遅ければ、記憶を消されたトニーは超人血清を与えられ、自分たちに対抗する恐ろしい兵器と化していただろう。今までの彼の開発してきた物を考えると、トニー・スタークを敵に回すほど恐ろしいことはないのだから…。
お偉いさん方にもこってりと絞られたフューリーだったが、何より応えたのはペッパー・ポッツの言葉だった。

トニー救出の知らせを受け、コールソンを連れ病院へ向かうと、手術室の前にペッパーを始めアベンジャーズの面々がいた。フューリーに気づいたスティーブが、状況を説明し始めた。
「トニーは手術中です。かなり危険な状態だ、覚悟してくれと言われました…」
目に涙を薄っすらと浮かべたスティーブの肩をポンと叩いたフューリーは、ソファーに座り祈るように首を垂れているペッパーの元へ向かった。
「ポッツくん…」
ペッパーが顔を上げた。目を真っ赤に腫らせた彼女の頬には幾筋もの涙の跡があったが、フューリーの姿を見るとペッパーの表情が一変した。
キッとフューリーを睨みつけたペッパーは立ち上がると、彼に詰め寄った。
「知ってたんですか!トニーが狙われてることを知ってて、トニーを1人で向かわせたんですか?!」
「いや、知らなかった。いや、超人血清の開発を続けていることは知っていた。だが、狙いがスタークということまでは知らなかった」
トニーは命を落としかけているのに、何の感情もなく冷静に言葉を発するフューリーに、ペッパーは拳を握りしめた。
「では、何故もっと早く助けに行かなかったんです!1日でも早く助けに行っていれば、トニーは苦しまなくても済んだかもしれないんですよ!」
唇を噛み締めたペッパーの目は怒りに燃えている。
「そうかもしれない。だが、ポッツくん。これは任務なんだ。世界の平和を守るためには多少の犠牲は付き物なんだ」
そうかもしれない。だが、愛するトニーが傷つけられているのだから、ペッパーが感情的になるのは当たり前のことだろう。
「任務?世界の平和を守るため?そんなの関係ありません!トニーが無事に帰って来る方が…彼が笑って側にいてくれることの方が、大切なことです!トニーだけではありません!アカデミーのみんなもです!あなたはみんなを…ただの駒としか思ってないんです!だから大事なことを隠して…。みんなを危険に晒しても何とも思わないんですか?!」
ペッパーの悲痛な叫びは、フューリーだけではなく、その場にいた全員の胸に突き刺さった。そして、こんなペッパー・ポッツは誰も見たことがなかった。何事も準備万端に整え、冷静に対応するペッパー・ポッツが、感情剥き出しにフューリーに詰め寄っているのだ。
誰も何も言うことができなかった。
黙ったままのフューリーを見据えたペッパーは、何度か深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、静かな声で告げた。
「トニーに何かあったら…私はあなたを絶対に許しませんから…」

あの時のペッパーを思い出したフューリーは、顔を上げるとトニーを見つめた。
頭の先から足の先まで包帯とギブスだらけで動けないトニーは、まだ起きておくのが辛いのだろう、微睡んだ瞳をフューリーに向けた。
「ポッツくんがえらい剣幕でなぁ…。スタークのことになると、彼女は冷静ではいられんらしい」
あの時の彼女の様子を一語一句教えてもいいのだが、そうなるとトニーの惚気話を聞かなければならないだろう。彼を危険な目に遭わせたという後ろめたさはあるが、それとこれとは別だ。それにおそらく、ブルース・バナー辺りがあの時の話はするだろうから…。
フューリーをボンヤリ見つめていたトニーだが、瞬きした彼は少しだけ口の端を上げた。
「…俺…愛されてるんです…」
ニヤリと笑ったトニーだが、息を詰まらせると咳き込み始めた。
そろそろ潮時だろう。トニーに酸素マスクを付けたフューリーは、毛布をかけ直すと立ち上がった。
「まぁ、いい。しっかり休め」
帰り支度を始めたフューリーは、ふと思い出した。
トニーを痛めつけた男によると、トニー・スタークは常人なら堪え難い拷問にも決して屈しなかったらしい。
「スタークよ。よく闇の世界に飲まれなかったな…」
フューリーの言葉に一瞬目を丸くしたトニーだが、掠れた声で囁いた。
「ペッパーが…いるから…」

その言葉にフューリーは確信した。今のトニーはペッパーのためにこちら側の世界に留まっているのだと。そしてそれはペッパー・ポッツも同じなのかもしれない。
今まで自分のために生きてきた2人が、お互いのために生きようとしている、そのことがフューリーは内心嬉しくて堪らなかった。
特にトニー・スタークは…。トニーと父親のハワードとの確執もずっと見守ってきたフューリーは、孤独だったトニーを理解し支えてくれる人に出会えたことを神に感謝した。
「そうか…」
そう呟いたフューリーは、普段の彼が見せないような笑みをトニーに向けた。
「お前を受け入れてくれる者が見つかり、よかったな、スターク」
フューリーの心からの笑みに頷いたトニーは、安心したように目を閉じた。

037.唇をなぞる指先

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129.猿轡(アベアカ)

095.唇の隙間 の続きです。

その頃、手足を拘束されたトニーは真っ暗な部屋に閉じ込められていた。
この任務自体が仕組まれた罠だったように、A.I.M.に到着するや否や、敵に囲まれ捕まってしまった。そして何処か分からないが、ヒドラの基地へと連れて来られた。
何かをしろと言われる訳でもなく、ただひたすらに痛めつけられた。天井から吊るされ、殴られ蹴られ続けた。意識を失いかけると水の中に沈められ、無理矢理引き戻された。
堪え難い拷問は3日3晩続いた。
身体中の骨が折れ、一人で座ることすら出来ないトニーは、この頃になると痛みに声を上げることすら出来なくなっていた。
そんなトニーに目元を隠した白衣の男が囁いた。
「このまま殴り殺されたいか?それとも、助けてやろうか?」
思わず頷きそうになった。この苦痛から逃れられる可能性が一つでもあるなら…。
トニーの心を読んだのか、男は口元を上げた。
「だが、条件がある。お前の記憶を全て消す。お前はトニー・スタークではなくなる。我々の人形となってもらう」
つまりそれは、今までの自分を全て捨て、彼らの操り人形となるということ。アカデミーに戻るどころか、アイアンマンであることも捨てなければならない。そして、何より、ペッパーと二度と会えなくなるのだ。
薄っすらと目を開けたトニーは、力を振り絞り男を睨みつけた。
「しんだ…ほうが…まし…」
意識朦朧としているはずなのに、なお力強いトニーの瞳に男は小さく舌打ちした。
「それなら仕方ない」
トニーを床に突き飛ばした男は、周りにいた男たちに合図した。そして惨劇は再び始まった…。

ここに連れて来られ何日経ったか分からないが、トニーは肉体的にも精神的にも限界だった。意識を失えば楽になれると思ったが、男たちはそれすらも許してくれなかった。
何度も心が折れそうになった。だが、ペッパーのことを思い起こし、トニーは何とか踏みとどまっている状態だった。

暗闇と静寂しかない世界は、否応がなしにあの時のことを思い出させた。
数年前のあの事件のことを…。
社の製品のデモンストレーションで訪れた紛争地帯で襲撃され、拉致監禁されたあの時の…奇しくもアイアンマンとなるきっかけとなったあの時のことを…。
あの時は何とか逃げ出そうと必死だった。
頼るものは、自分の頭脳と身体のみ。そして命の恩人がいたからこそ、今の自分がある。
震える手でリアクターに触れたトニーは、どうにか起き上がろとした。だが、極限まで痛めつけられた身体は動くはずはなく、そして周りには自分を助けてくれるものは何一つなかった。

このまま助けを待つしかないのだろうか…。いつ来るかも分からない助けを…。
助けが来るのが先か、それとも自分の命が尽きるのが先か…。

と、ドアが開いた。一筋の光が差し込んだ。
孤独と絶望しかない世界から逃れたい一心のトニーは、その光の正体を確かめることもなく、手を伸ばした…。

***
「ようやく受け入れたようですね」
引き摺られるように部屋に入って来たトニーは、部屋の中央にあるベッドに縛り付けられた。慌ただしくなり始めた室内を見渡した男は、トニーの血塗れで腫れ上がった顔を撫でた。
「超人血清に耐えれますかねぇ?」
部下の男がトニーに様々な機器を取り付けながら不安げに呟いた。
この日のために、何十人もの男たちが生贄となってきた。だが、今のトニーのように死にかけている男に試したことは一度もなかったのだ。
「分からん。成功すれば怪我など直ぐに治る。死んだら死んだ時のことだが、何としても成功させろ。世界最高峰の知性を備えた兵器の完成まで、あと一歩だ」
ククッと笑った男は声高々と叫んだ。
「まずは記憶を消去しろ。意識を失っているうちに消してやれば、少しは楽だろうから」
自分の慈悲深さに酔い痺れた男は、猿轡を噛ませたトニーの頭に電極を突き刺すと、スイッチに手を掛けた。

「大変です!アイアンマンがやって来ました!」
ドアが乱暴に開く音と同時に聞こえてきた叫び声に、男はスイッチから手を離した。
「アイアンマンならここにいるぞ?」
一体どういうことだと、叫んだ男に向かって男が歩み始めたその時…。
大きな爆発音が聞こえ、壁が一斉に破壊された。爆風で部屋中の物が飛び、衝撃波で部屋にいた人間は吹き飛ばされた。
トニーが寝かされていたベッドもひっくり返り、その上に大きな機械が次々と重なり倒れた。
男も反対側の壁まで吹き飛ばされた。痛む身体をさすりながら起き上がると、目の前には確かにアイアンマンがいた。いや、よく見るとアイアンマンではない。同じようなアーマーを着ているが、トニー・スタークとは別の細身のアイアンマンだった。
「お前は…」
状況が分からずポカンとしたままアイアンマンを見上げた男だが、アイアンマンは辺りをキョロキョロと見渡した。そしてある一点に目をとめると飛び上がった。
「トニー!!」
もはや男の存在など忘れてしまったかのように、アイアンマンはトニー・スタークの元へ飛んでいくと、瓦礫の山を退かせ始めた。
「えっと……」
あのアイアンマンの正体は誰なのだろうか。トニー・スタークの親友であるジェームズ・ローディかと思ったが、遅れてやって来たアベンジャーズの面々に混じり、ウォーマシーンはちゃんといるではないか。
キャプテン・アメリカに手錠を掛けられ、どさくさに紛れてソーに殴られ、ホークアイとブラック・ウィドウに連行される時も男の疑問は晴れることはなかった。

トニーの元に駆けつけたアイアンマン…いや、ペッパーは、彼の上に積み重なった瓦礫を必死に退けていた。
「トニー!」
瓦礫の隙間からは、トニーの右手の指先がかろうじて見えるが、彼は呼びかけにも反応せず、ピクリとも動かない。
「トニー!私よ!ペッパーよ!」
残るは巨大な瓦礫だけ。だが、ペッパー1人の力ではビクともしない。そこへハルクがやって来た。一声吠えたハルクは、瓦礫を持ち上げトニーの身体を引っ張り出すと、そっと床の上に横たえた。
全身血塗れのトニーは、酷い状態だった。腫れ上がった顔には彼の面影は殆どなく、生きているのかすらも分からない。
頭に刺さる金属をそっと引き抜いたペッパーが猿轡を外すと、血を吐き出したトニーが小さく息を詰まらせた。
(トニーはまだ生きてる…。神様…ありがとうございます…)
ポツリポツリと零れ落ちたペッパーの涙が、トニーの顔に降り注いだ。
「大丈夫…もう大丈夫よ…。助けに来たわ…。だから、早く家に帰りましょ?」
冷たい唇に触れたペッパーは、自分の存在を知らせるように、そっとキスをした。

079.豹変
ペッパーがレスキューとして活躍するのを書きたかったんです。

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