数年経ったある日。
その日、トニーはペッパーとある会議に出席していた。ペッパーの後ろの窓枠に腰掛けて話を聞いていたトニーだが、先程からペッパーに失礼な発言を連発する男性がいることに気づいた。トニーはその男性に見覚えがなかった。ペッパーの手元にある資料を覗き込むと、どうやら彼は関連子会社のCEOらしいが、その社名も聞いたことがないのだ。むすっとした表情の夫に気づいたのか、手元のスタークPadに何やら打ち込んだペッパーは、トニーに見えるように画面を起こした。
『最近取引を始めた会社のCEOよ。彼は25歳で企業して、飛ぶ鳥落とす勢いで成長しているの。30過ぎの『お子様』だけど、自信過剰なせいか、いつもあんな感じよ』
目をくるりと回したトニーに、チラリと後ろを振り返ったペッパーは、『誰にでもあんな感じなの。いつものことだし気にしないで』というように、肩を竦めた。
自分も若い頃は、小生意気な態度を取っていたこともあるが、あんなに礼儀知らずな言葉遣いではなかったぞ…と、トニーは段々とカッカしてきたが、ペッパーは平然と対応しているのだから、怒りを無理矢理押さえ込んだのだが…。
「トニー・スタークは死んだんです。もう何年も経つのに、まだ彼の存在を引きずっているんですか?」
次期プロジェクトの話になり、礼儀知らずな若きCEOの発言に、会議室は凍り付いた。
トニーの遺した物…それは業績は技術だけではない。彼に憧れてこの世界に飛び込んだ者は、今やスターク・インダストリーズの技術開発を担っている。つまり、トニーの存在は絶対だし、誰もが彼を尊敬していたし、会社全体としても彼の意思を今後もずっと引き継いでいくことに変わりはないのだ。最も、今でもトニーの影響力が密かに及んでいると知っているのは、ペッパーだけだが…。
だから件のCEOの発言に重役だけでなく社員が怒りを覚えたのは当然なのだ。
流石にトニーもムッとした。が、相手にトニーの姿は見えないのだから、彼はトニーが聞いているとは知らず、トニーは過去の人間だと言わんばかりに、ベラベラ喋り続けた。
ペッパーも癪に触ったのだろう。何度も深呼吸をして落ち着かせたペッパーは、まだ喋り続けている相手を制すると口を開いた。
「彼は今でも私たちの心の中で生きています。スターク・インダストリーズは、彼の父であるハワード、そしてトニーが築き上げてきました。トニーは目に見えるものだけではなく、見えないところでも、沢山のものを遺してくれました。ですから、彼の意思を引き継ぐのが、私たちの役目です」
「だが、それはあなたが妻だから思っているだけだろ?トニー・スタークの時代は終わった。もっと新しいことに目を向けたらどうですか?彼よりも優秀な人材は山ほどいるんですから」
それが自分だと言わんばかりに、礼儀知らずなCEOは、鼻で笑った。
「大体、彼はヒーロー活動に夢中で、会社のことなんか、考えてなかったんじゃないですか?だからあなたに押し付けて、自分は正義のヒーロー気取りで…。で、結局最後は勝手に死んでしまったんだから、やりきれないですよね、奥さんも」
再び鼻で笑った男に、ペッパーの顔色が変わった。唇を噛み締めたペッパーは、怒りに身体を震わせた。もう我慢できなかった。そこで相手を打ち負かしてやろうと立ち上がろうとした時だ。
背後からトニーの気配が消えた。どこへ行ったのかと視線を動かすと、トニーは男性の背後に立っていた。
何をするつもりなのかしら…と、ペッパーが見守っていると、トニーは男の目の前にある、熱々のコーヒーが入ったマグカップに向かって手を伸ばした。
物にも人にも触れられないはずなのに、トニーの念が通じたのか、何と彼はマグカップを持ち上げたではないか。
フワッと浮き上がったマグカップに驚いたのは、ペッパーだけではなくトニーもだったようで、驚いたように目を見開いたトニーだが、今度はペッパーを罵り始めた男に向かって、マグカップを投げた。マグカップは宙を舞い、熱々のコーヒーが男性の身体に降りかかった。
「熱っ!!!」
悲鳴を上げた男性は飛び上がったが、股間はもろにコーヒーをかぶってしまい、彼は熱い熱いと喚いた。
(トニーったら…やるわね)
得意げに眉を釣り上げているトニーに、思わず笑いそうになったペッパーだが、軽く咳払いをすると大声で告げた。
「そうだわ。言ってなかったわね。彼は私のそばに今でもいてくれるの。彼は死んでも私のヒーローですから…」
怖いほど笑みを浮かべたペッパーは、今度は真面目な顔を作った。
「私のことはいくらでも悪く言いなさい。でも、夫の…トニーのことを悪く言う奴は『くそくらえ』よ。つまりね、あなたとの取引は停止します。この場を持ってね」
クスクス笑い声の漏れていた会議室が静まり返った。件のCEOも、事の重大さにやっと気づいたのか、真っ青になった。というのも、相手は世界屈指の大企業、スターク・インダストリーズだ。そのスターク・インダストリーズとの提携が解除されたとなると…それもトニー・スタークを侮辱するという無礼な態度が原因となると、他の企業との信用問題にもヒビが入ることに間違いないからだ。
取り返しのつかないことをしてしまったと頭を抱えた男性に、ペッパーは冷たい視線を送った。
「そうだわ。もう一つ言っておくわ。トニーは、命を懸けて宇宙を守ったの。あなたが今、ここで生意気な口を聞けるのも、トニーが自分の命を捨てて未来を守ったからなのよ」
何をしてももう後の祭りだ。ペッパーを睨みつけた男は荷物を掴むと足早に会議室を後にしようとした。
トニーはヒョイと足を伸ばしてみた。
すると男はトニーの足にひっかかり、派手な音を立てて転倒した。
明らかに何かに引っかかったように転倒したのだから、先程の浮かんだマグカップといい、この部屋には何かがいるのでは…と、部屋にいる者はざわつき始めた。
余計なことを最後にしてしまったと、額を叩いたトニーだが、そんな夫を楽しそうに見つめたペッパーは、彼に向かってウインクした。
「本当にトニーがこの場にいるのかもしれないわね」
***
その夜。
帰宅したモーガンは、いつもなら母親が夕食の支度をするのを見つめている父親がいないことに気づいた。
が、それよりも母親がいつもより楽しそうなのだ。何かあったのか尋ねると、ペッパーは娘に今日の顛末を話した。
するとモーガンは怒り始めた。
「何よ、そいつ!失礼すぎるわ!!パパのこと侮辱して!私がそこにいたら、煮えくり返ったコーヒーをポットごとそいつの頭に掛けてやったわ!」
プンプン怒っていたモーガンだが、母親がニヤニヤ笑っているのを見ると、自分もゲラゲラ笑い始めた。
「私も見たかったなー。パパがそいつをやっつけるところ!」
「見ものだったわよ。ママもスッキリしたし」
顔を見合わせた母と娘は暫く笑っていたが、父親はどこへ行ったのだろうか。
「で、パパは?」
「ラボにいるわよ。試したいことがあるって、ずっと篭ってるわよ」
モーガンがラボに向かうと、トニーは椅子に座り何か考え込んでいた。
「パパ。ママから聞いたわよ。今日の事件」
声を掛けると、振り返ったトニーは肩を竦めた。
「あいつがペッパーのことをボロクソ言うからだ。自業自得だ」
ふんっと鼻を鳴らしたトニーに、モーガンは首を傾げた。母親の話では、侮辱されまくったのは父親本人なのに、彼はあくまで『ペッパーが侮辱されたから』ブチ切れたと言うのだ。
「パパはいいの?自分のこと、悪く言われても…」
父親の隣に腰掛けたモーガンは思わず尋ねたのだが、トニーは寂しそうに笑みを浮かべた。
「パパのことはいいんだ。パパのことを良く思っていない人間も大勢いるっていうことは、生きている時から分かっていたから…」
父親の意外な言葉に、モーガンは目を丸くした。確かに父親が死んだ直後、スパイダーマンが戦った相手は、トニー・スタークに恨みを持っていたと聞いた気がする。だが、モーガンは実際、父親のことを悪く言う人間に出会ったことはなかった。自分が彼の娘だから、偶々そういう類の人間と出会っていないだけかもしれないが…。いや、何となく嫌味ったらしく言う人もいた。が、アイアンマンの最期の戦いに関しては、流石に悪く言っているのは聞いたことがなかった。
「パパは世界を救ったヒーローなのに、どうして悪く言う人がいるの?その人たちも、パパがあの時世界を守ったから、生きていられるのに…」
口を尖らせた娘に、トニーは何事か考えていたが、娘に顔を向けると話し始めた。
「モーガン。それはな…ヒーローっていうのは難しい問題なんだ。ヒーローにはな、誰もがなれる。世界を救うなんて大事じゃなくても、困っている人を助けるだけでも、ヒーローになれるんだ。勿論目立ちたくてヒーローになりたい連中もいるが…」
『誰もがヒーローになれる』
それは父親に小さい頃から聞かされていたことなので、モーガンは頷いた。
「誰かを助けたい…困っている人の助けになりたい…そう思ってヒーローを続けても、誰もが好意的に受け止めてくれるわけではないんだ。代償もある。戦えば破壊されるものもあるし、傷つく人間もいる。命が助かっても、感謝してくれる人ばかりではない。自分は助かっても家族や友人を失ったり、家も何もかもを失うこともあるから…」
父親の言葉に、モーガンは学校で習った『ソコヴィア協定』の件を思い出した。あの協定か作られた経緯と、そしてその後父親たちに起こった事件のことを…。
「困っている人を救っても、助けた人皆が喜んでくれるわけじゃないもんね…」
無言で頷いたトニーに、モーガンはずっと気になっていたことをこの機会に聞いてみることにした。
「でも…パパは、非難されてもヒーローを続けてたでしょ?辛くなかったの?」
するとトニーは眉を吊り上げた。
「辛かったさ。パパは他の奴らよりも、人前に出る機会も多かったし…。メディアで叩かれることも多かった。だがな…。パパがアイアンマンになったきっかけは話しただろ?パパにはやらなければならないことがある…。そう気付いたから、パパはアイアンマンを続けていた。ヒーローになりたかった訳じゃない。気がついたら、ヒーローと言われていた。そして戦いで傷ついた人たちを救済しようともしてきた。でもな…」
言葉を切ったトニーは、ふぅと息を吐いた。
「パパが傷ついて帰ってくる度に、ペッパーは泣いていた。ペッパーを泣かせてまでヒーローを続けていた。自分にはやらなくてはならないことがあるからだと思って…。一番辛かったのは……ペッパーが泣くのが、パパは何よりも辛かった。そのせいで、ママとは別れる寸前までいったこともある。だけどママは…ペッパーはパパの気持ちを理解してくれていた。だからパパを何があっても支えてくれた。それでもパパは…何もかも失ったあの戦いで…心が折れかけた。パパは一度はヒーローであることを辞めた。ペッパーと結婚して、モーガンが産まれて…普通の暮らしをするうちに、パパにとっての最優先事項は、ペッパーとモーガンとの暮らしを守ることになった。幸せだった。夢にまで見ていた家族がパパにもようやく出来たから…。だかな、それはやらなくてならないことから逃げていただけだった。ママは気がついていた。パパが逃げているということに…。だからパパは、決着をつけようと、アイアンマンに再びなった。これが終わったら、今度こそ本当にアイアンマンから引退しよう…そう思って戦いに挑んだ。戦いが終わったら、二度とアイアンマンにはならず、ペッパーとモーガンと…普通の暮らしをするつもりだった。そのつもりだったから、パパはあの時、自分が石を使うなんて考えもしていなかった。だが…あの時、敵を倒す唯一の方法が、パパが命を捨てて石を使うことだと気づいた時…もう二度とモーガンに会えないと分かった時…パパはペッパーとモーガンの未来を守るためだ…2人を守るためなら死んでもいいって、無理矢理思い込もうとした。結局パパは死んでしまって、ペッパーとモーガンを泣かせてしまった…。死んでもよかったんだと納得しようとしたが…無理だった。当たり前だよな。パパはようやく手に入れた世界一大切なものを…急に手放さなくてはならなかったんだから…。アイアンマンになった時、ヒーローである以上、大切なものを全てを突然手放さなくてはならない時がくると覚悟していたつもりだったのに…結局のところ、パパにはその覚悟が出来ていなかったんだろうな…。だからどんな姿であれ、ペッパーとモーガンに会いたい…そばにいたいと必死で願った。そしてパパは幽霊となって、お前たちの元に戻ってくることができた…。だが…こうやって戻ってきたとは言っても…ペッパーにキスすることもできないし…モーガンを抱きしめてやることも出来ないんだ…」
初めてだった。父親からこういう話を聞いたのは…。
モーガンは胸が張り裂けそうになった。
父親にとって一番辛いのは、自分たちに触れられないこと…。話をすることは出来ても、抱きしめることも、キスをすることもできないのだ。そしてそうしてやれないという無念さが、父親の心に傷として深く刻み込まれていることにモーガンは気づいた。
(パパがそばにいてくれるだけで、私はいいのに…)
そこでモーガンは、辛そうに顔を歪めている父親のボンヤリとしている手に、自分の手を重ねるように置いた。
「パパ。私ね、パパが幽霊でも…パパと手を繋いだりできなくても、パパがこうやって側にいてくれるだけで、本当に良かったって思ってるから」
娘に顔を向けたトニーは、唇を震わせた。
「モーガン…」
震える声で囁いた父親に、モーガンは微笑んだ。
「確かに本当はね、もっと抱きしめてもらいたかった。小さい時は、どうやったらパパが私を前みたいに抱っこしてくれるだろって、ずっと考えてた。でもね、パパと過ごせるだけで幸せだって気づいたの。くだらないことで笑ったり、喧嘩したり…パパがいてくれないとできないことが出来る…、これって凄く幸せなことよね。だって私はパパとの思い出を…本当だったら作れなかった思い出を、パパが死んだ後もこうやって作れるんだから…。それに、今の話もね、小さい時に聞いてもきっと理解できなかった。今だから、パパの気持ち、凄く理解できるの。パパは私にたくさんのことを教えてくれる…。それも今、パパが私のそばにいてくれるからよ…。だから、ありがとう、パパ。ママと私のそばにいてくれて、ありがとう。戻ってきてくれてありがとう」
娘の言葉に、トニーの目から小さな涙が零れ落ちた。すると不思議なことが起きた。キラキラと輝いた涙は、モーガンの手に降り注ぎ、そのまま掌にポツリと落ちたのだ。その瞬間、モーガンは感じた。父親の涙の温かさを…。
もしかしたら、今なら父親に触れることができるかも…と、モーガンは手を伸ばしたが、やはり触れることはできなかった。
宙を切った手を伸ばしたモーガンは、父親の身体を抱きしめるように腕を回した。
「パパ…これからも、ずっとそばにいてね…」
そう囁くと、トニーは無言で何度も頷いた。