年が明けた1月。
あのクリスマスイブの出来事のあと、二人は会っていなかった。ペッパーは休暇を利用して、毎年恒例の家族旅行に出かけてしまい、トニーは一人ぼっちだった。
『旅行は行かない。あなたのそばにずっといるわ』と言うペッパーに『しばらく一人にさせてくれ。考えたいんだ…。それに、一緒にいられる時には、ちゃんとご両親のそばにいてやれよ』と送り出したのは、他ならぬトニー自身だった。
母親からは何度も電話やメールが届いていた。
『ごめんなさい、トニー。あなたの気持ちを踏み躙ってごめんなさい。落ち着いたら連絡して…。愛しているわ…』
留守番電話に入っていた母親の声。暗い部屋の中で何度も繰り返し聞くトニーは、酒の瓶を抱え孤独と必死に戦っていた。
1月3日。休暇明けの学校は、お喋りに夢中な生徒の声で賑わっていた。
休暇中、何度連絡しても繋がらなかったトニーの様子が気になり、ペッパーはトニーの部屋に向かっていた。すると、廊下の向こうから歩いてくるトニーの姿が見えた。
「先生、おはようござ…」
「おはよう…ポッツくん…」
すれ違ったトニーの顔色は酷く悪く、ペッパーは駆け寄りそうになったが、背後で他の生徒がトニーに声をかけるのが聞こえ、ぐっと堪えた。
授業中も元気がないトニー。それなりに冗談を言い無難にこなしているが、明らかに様子がおかしい。いつものように楽しい授業に他の生徒はみな声をあげて笑っていたが、ペッパーは一人ヤキモキしていた。
(みんな何で気付かないの?あんなに顔色悪いのに…)
授業が終わるや否や、ペッパーはトニーにメールを打った。
『顔色悪いわよ?大丈夫?帰りに寄っていい?』
しばらくして、トニーから返事がきた。
『大丈夫だ。今日は無理だ。会議がある。心配してくれてありがとう』
だが、夜になっても、トニーからの電話もなく、ペッパーは明日何が何でもトニーを捕まえて話を聞こう…と思いながら、ミッ○ーを抱きしめて眠りについた。
翌日、校内でトニーの姿を見かけないため、ペッパーは何度もメールを打った。だが、放課後になっても返事はなく、心配になったペッパーがこれから家に行ってみよう…と考えていた時だった。
「大変、大変!さっきスティーブ先生に聞いたんだけど!」
クラスメイトが息を切らせて教室に入って来た。
「スターク先生ね、昨日会議中に倒れちゃったんだって!熱が高くて動けないから、今日はお休みなんだって!」
(トニーが倒れた?)
青くなったペッパーは、携帯を握りしめた。
「ねぇ、みんなでお見舞いに行かない?」
「いいわね!」
「でも、先生…彼女いるのよ?きっと看病してもらっているわ…」
「そうよね。私たちが行っても何もできないし…」
ガヤガヤと騒ぐクラスメイトの声も、ペッパーには聞こえない。
どうしよう…もし大変な病気だったらどうしよう…。
真っ青な顔で小さく震えるペッパーの異変に気付いた友達が声をかけた。
「ペッパー?どうしたの?」
その声に我に返ったペッパー。
「ごめんなさい!今日はママと約束があったの忘れてた!早く帰らないと怒られちゃうわ。私、帰るね!」
慌てて身支度すると、ペッパーは教室を飛び出した。
スーパーに寄り買い物をしたペッパーは、トニーの家に向かって走った。
ピンポーン
インターフォンを数回鳴らすと、しばらくしてトニーが顔を覗かせた。頭はボサボサ、真っ赤な顔をしたトニーは、寒いのか頭から毛布をかぶっているが、ペッパーの顔を見ると顔を綻ばせた。
「なんだ、鍵使えばいいじゃないか…」
「寝てたら悪いかな…って…」
「遠慮するな…。入れよ…」
しんどいのか、トニーは壁に手をつきながら歩き始めた。足元がふらつき倒れかかったトニーの身体をペッパーは支えた。燃えるように熱い身体。呼吸も荒く、寒気がするのか身体は震えている。
「熱は?」
「…三十九度」
「すごい熱じゃない!薬は飲んだの?」
「あぁ…」
「何か食べた?」
「食欲がない…」
ソファーに横たわらせ、毛布を何枚もかけたペッパーは、タオルを濡らしトニーの額に置いた。
「何か作るわ。食べられそう?」
「…」
無言で首を振るトニー。額に置いたタオルはすぐに熱くなってしまう。
病院へ行った方がいいんじゃないかしら…。でも、トニーは病院が大嫌い。きっと嫌って言うに決まっているわ…。
ため息を付いたペッパーは、トニーの汗ばんだ額をタオルで拭きながら言った。
「ダメよ。食べないと治らないわ。それとも病院で点滴してもらう?」
『病院』と聞いたトニーは予想通り顔色を変え、
「食べる…」
と小さな声で言った。
子供みたいなんだから…。小さく笑ったペッパーは、毛布を掛けなおすと
「用意するから待ってて?」
と、キッチンへ向かった。
キッチンには、空の酒のボトルが何十本も転がっており、トニーがこの一週間、どれだけ荒んだ生活をしていたかを目の当たりにしたペッパーは後悔した。
トニーはとても傷ついている。やはりそばにいて、支えてあげればよかったと…。
キッチンを片付け、風邪の時母親がよく作ってくれるチキンスープを作ったペッパー。
「うん、おいしい!」
味見をしていると、リビングからトニーの呼ぶ声が聞こえた。
慌ててリビングへ向かうと、トニーはソファーから立ち上がろうとしていた。
「ダメよ、トニー!寝てないと」
「水が飲みたいんだ…」
「持ってくるから待ってて」
身体を支え座らせようとした時、トニーの足元が揺れ、二人は抱き合う形でソファーへ倒れこんでしまった。
トニーに抱きしめられ動けないペッパー。
首筋にトニーの熱い息がかかり、ペッパーは心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「…トニー?ご飯できたから…離して?」
「もう少しだけ…いいだろ?」
ペッパーは、自分をきつく抱きしめているトニーの肩が小さく震えているのに気付いたが、何も言わず黙って背中を撫で続けた。
十分ほどたち、やっと解放されたペッパーは、トニーの隣に座るとスープをすくったスプーンを口元へ運んだ。
「はい、あーん」
「…一人で食べられる…」
「いいから、はい。あーんして」
頑なに口を開けようとしなかったトニーだが、ニコニコと笑うペッパーに根負けして、ため息を付くと口を開けた。
「ふふ…」
「楽しそうだな…」
「だって、夢だったんだもの。大好きな人にこういう風にするの…」
「そうなのか?」
(女ってよく分からないな…)
ペッパーの嬉しそうな顔を見たいトニーは、運ばれるスプーンを次々と口に入れた。
半分ほど食べたところで、トニーは満腹だと食べるのをやめてしまった。
「よかったわ。食べてもらえて。薬飲んで暖かくしておかないと…」
ペッパーに手渡された薬を飲んだトニーは、ソファーにもたれかかるように座り直した。
肩から毛布を掛けなおしたペッパーがトニーの横に座ると、トニーはペッパーの腰を引き寄せた。
「珍しいわね…。寝込むなんて…」
「あぁ…。あれからずっと眠れなくて…」
原因は分かっている…。
あのクリスマスイブの出来事。
トニーは苦しんでいる。自分の思いとご両親への愛情の間で、トニーは板挟みになっている。
彼は、お父様にきっと言って欲しいだけ。『愛している』の一言を。それは27年間、面と向かって与えられなかった言葉。
二人とも、お互いのことを大切に思っているのに…ただ言葉が足りないだけなのに…。
「気分はどう?」
「…」
どこか上の空なトニーは黙ったまま。
トニーに抱きついたペッパーは、トニーの肩の上に頭をのせ、頭を撫で始めた。
「トニー…無理しないで。私でよかったら相談にのるから…」
「あぁ…」
「思っていることを話したら、少しは楽になるはずよ…」
「…」
しばらく黙っていたトニーだったが、ペッパーを膝の上に座らせると、言葉を選ぶように話し始めた。
「ペッパー…俺は…どうす…」
言葉を切ったトニーは、突然苦しそうにゴホゴホと咳き込み始めた。
「どうしたの?」
顔色を変えたペッパーはトニーの膝の上から飛び降りると、背中を摩り始めた。
やがてトニーは真っ青な顔をして立ち上がり、口元を押さえてトイレに向かった。
苦しそうな声のするトイレの前で、ペッパーは遠慮がちに声を掛けた。
「トニー?大丈夫?」
「あぁ…」
やっぱりお医者様に診てもらった方がいいわ。でも、私は一緒に付いて行ってあげられない…どうしよう…。
ペッパーがトイレの前をウロウロと歩き回っていると、インターフォンが鳴り響いた。
(え?誰か来た? どうしよう…)
モニターを見ると、ブルース・バナーの姿が映っているではないか。
(ば、バナー先生!ど、どうしよう…)
ペッパーはドア越しにトニーに向かって叫んだ。
「と、トニー!バナー先生が…」
すると、幾分か楽になったのだろうか、ドアの向こうからのんきな声が聞こえた。
「ブルースが?大丈夫だ…出てくれ…」
大丈夫じゃないでしょ? でも、どうすることもできない。
覚悟を決めたペッパーは、玄関をそっと開けた。
すると、目の前のブルースは、ニコニコとペッパーを見つめているではないか。
「やぁ、ポッツさん。やっぱり来ていたんだね」
「え?」
「大丈夫。僕は君たちのことを知っているから。トニーは君に話してなかったんだね」
口をポカンと開け、頷いているペッパーの背中を押すように、ブルースはリビングへと入って行った。
二人がリビングへ戻ってくると同時に、トニーもフラフラしながら戻って来た。
「トニー、大丈夫か?昨日よりも悪化しているのは気のせいか?」
「いや…大丈夫だ…」
「不摂生しすぎなんだよ。眠れないからと酒を飲んで、食べられないからと言って酒を飲む…。そんな生活を一週間もしていれば、誰だって倒れるさ。ほら、元気が出るものを持ってきた。あ、ポッツさん、彼のこと押さえつけてくれるかい?」
手で何か打つマネをし、ウインクしたブルース。何のことか理解したペッパーは、トニーをソファーに押し倒すと、「大丈夫よ…」と耳元で囁き、頭を抱えるように抱きしめた。
その間に、ブルースはトニーの腕をサッと消毒し、大きな注射をプスリと一本。
「ヒィ!」
ペッパーに抱きつかれているため大きな声を出すことができないトニーは、飛び出しそうになった悲鳴を必死で飲み込んだ。
***
「お邪魔だろうから僕はそろそろ帰るよ」
ベッドに潜り眠ってしまったトニーは顔色も随分と良くなった。
帰り支度をし始めたバナーに、ペッパーは気になっていたことを思い切って聞いてみることにした。
「先生、どうして私たちのことを…」
「トニーも悪い奴だな。君にもちゃんと言っておけばいいのに…。トニーと僕は彼がうちに赴任した頃からウマが合ってね。彼は僕に君とのことをよく相談に来 ていたんだ。最初はほら、君をかばって怪我をしてすぐの頃だったかな? あのトニーがだよ。真剣な顔をしてやって来て言うんだ。『ブルース、どうやら俺は恋に落ちてしまったようだ』って。それが君のことだったんだよ、ポッツさん。それから毎日のように報告に来るんだ。『今日はポッツくんと目が合った』とか『今日は手が触れ合った』だとか。僕はおかしくてね。あのトニー・スタークが、初恋を語るかのように嬉しそうに話すんだよ。ある日、彼は保健室のドアを壊す勢いで入って来た。『やったぞ、ついに彼女と恋人になった』ってね。それからのことは…分かるだろ?彼は変わったよ、君のおかげでね。そういえば、彼のご両親に会ったんだろ? 彼は愛情に飢えているんだ。だから今まで心から誰かを愛したことはなかった。でも、君と出会って、彼は愛することを知ったんだ」
「先生…」
「彼の友達として、僕からもお礼を言うよ。ポッツさん、ありがとう。トニーのこと、これからも頼む。彼には君しかいないんだ…。今、トニーは苦しんでいる。大変だろうが…支えてやってくれ…」
ブルースを送り出したペッパーは寝室へ向かった。
トニーはまだ眠っている。
起こさないように隣に横になり、手を握っていたペッパーだが、次第に眠気が襲いかかり、気が付くと寝息を立てて眠ってしまった。
しばらくして、目を覚ましたトニー。隣ではペッパーが幸せそうな顔をして眠っている。
あの注射のおかげか、熱も下がり気分も楽になった。
『思っていることを話したら、少しは楽になるはずよ…』
あの時、彼女に話そうとして言えなかったこと。
眠っても…あの時の親父の声が聞こえてくる。お袋の悲しそうな顔が浮かんでくる…。
感情的になったとはいえ、長年言えなかったこと…そして言ってはいけないことを言ってしまった…。でも、もう我慢の限界だった。俺は…ただ、言って欲しかっただけなんだ…。27年間親父からは言われたことのない言葉を…。俺のことを愛していると…。言わなくても分かるだろうと一喝されそうだが、言って欲しかった…。甘いと言われるだろうが、それでも言って欲しかった…。27年間、待ち続けていたのに…。
ペッパーは俺に無償の愛を与えてくれる。彼女がそばにいると安心する。
とにかく、彼女にそばにいて欲しかった。ずっとそばにいて欲しい。
だが、これは自分で解決する問題だ…。彼女を巻き込むことはできない…。
寝言だろうか、「とにー」とつぶやいたペッパーをトニーは抱き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
→4へ…