1週間後。
トニーは術後の経過も良好で、一人で歩けるようにもなった。右側の髭と髪の毛もまだらにだが生え始めた。
その日の朝も、ペッパーに左側の無精髭を綺麗に剃ってもらったトニーは、鏡の中の自分を見つめた。髭がない自分はどうも居心地が悪いが、火傷も傷の痕も綺麗に治ったのだから、嬉しいに決まっている。
「髭のないあなたって、新鮮よね」
濡らしたタオルでトニーの顔を拭いたペッパーは、頬に口づけすると、そのままトニーの唇にキスをした。
温かく柔らかな感触に、トニーは妻にもっと触れたいと左手を伸ばした。
と、ノックの音が聞こえ、ドアが開いた。担当医と看護師だった。
右腕の状態を確認するため、一度固定を外すことになったと告げられたトニーは、処置室へと向かうために車椅子に乗せられた。
ペッパーも付き添うことになり、彼女はトニーの車椅子を押した。
すっかり痩せ細ったトニーの背中を見つめながら、ペッパーは5年前…タイタンから22日ぶりに地球に戻ってきた時のことを思い出した。
あの時のトニーは、怒りと苦しみ、後悔と自責の念に駆られ、眠ることができなくなっていた。病室のベッドの上で、薬で眠らされるトニーにペッパーはずっと付き添った。彼の仲間は…ローディとブルース以外は、誰一人としてトニーの怒りと絶望を受け止めてくれなかった。その2人も、サノス探索や自分自身の事に追われ多忙だった。
体力が回復したトニーだが、彼の心には深々と傷が刻まれていた。サノス探索の仲間に加わろうと思えば出来た。だがトニーはしなかった。人類の半分が消え、廃虚と化し始めた街を捨て、何かから逃げるように、湖畔にあった別荘を直し移り住んだ。
そこで2人はひっそりと暮らし始めた。
森の中の、世間から隔離された静かな場所で、2人は結婚式を挙げた。ハッピーとローディだけを呼んだ、小さな結婚式だったが、心の底から祝ってくれるのはこの2人だけなので、2人は幸せだった。
この地で2人は、普通の暮らしを楽しんだ。花や野菜を植え、湖にボートを出し釣りを楽しんだ。
結婚式を挙げてすぐに、ペッパーは妊娠した。
日に日に大きくなっていくお腹に、トニーは毎日話しかけていた。まだ産まれてもないのに、庭にブランコを作ったり、小さな子供用の椅子を作った。トニーは本当に幸せそうだった。この10年で見たことがない程、彼は幸せそうに笑っていた。
だが、トニーは毎晩うなされていた。夜中に何度も目を覚まし、眠れない日々を送っていた。眠れなくなると、トニーはガレージに作ったラボに向かった。そして彼はアーマーを再び作り始めた。が、彼は仲間の元に戻ることはしなかった。あの時投げ捨てたリアクターを身につけることすらしなかった。それならばどうしてアーマーを作るのかと尋ねると、トニーは決まって答えた。『何かあった時に、君と子供を守るため』と…。
娘が産まれた時、トニーは泣いた。ペッパーと、そしてモーガンと名付けた娘を抱きしめたトニーは、『君たちのことは、絶対に守る』と誓った。
小さな娘はトニーの心の拠り所となった。彼の全てになった。
そしてトニーは、自分の人生を生きようと、前へ向かって進み始めた…。
が、5年経ち、結局、彼は再び戦いの場所に戻らざるを得なかった。それを後押ししたのは、ペッパー自身だ。
が、結果的に今のような事態になってしまった。今こうやって奇跡的にトニーは生きているが、死んでいてもおかしくなかった。だが、トニーは眠ることができるようになった。悪夢を見ることなく、ぐっすりと眠ることができるようになった。
だから、今回のことは、運命だったのだ。必ず乗り越えられる、彼自身とそしてペッパーにとっての運命…。
そんなことを考えていると、いつの間にか処置室へと到着していた。
処置台へと寝かされたトニーの包帯と固定を看護師が取り始めた。
すると、真っ黒に焼け焦げた右腕が現れた。
特に肘から下は酷い状態で、指は数本なくなっている。他の部分も骨が剥き出しになり、その骨すらも黒く焦げついている。
ペッパーはトニーの右腕をもう何度も見ていた。
病院へ運ばれ、アーマーを脱がす時、張り付いたアーマーを取る度に、腕の一部が一緒に剥がれ落ちるのも見ていた。
トニーが昏睡状態の時、壊死し始めた指を切断する決断を下さなければならなかったこともある。
何度見ても胸が痛む光景だが、トニー自身は初めて見る右腕に言葉を失っている。
酷い状態だとは聞いていたが、これ程までとはトニーは思っていなかったのだ。
もはや腕としては全く機能していない、ただ身体に付いているだけの状態…。
目を見開いた彼は震え出した。そして彼の目には絶望が見え始めた。
本当に治るのだろうか…本当にモーガンを抱き上げることができるようになるのだろうか…という疑念が彼の心の中にふつふつと沸き起こってきた。
「先生……本当に治るのか?」
ポツリと呟いたトニーに、医師は目を逸らして答えた。
「今、ワカンダで治療方法を開発中ですから…」
言葉を濁した医師に、トニーはもう何も言えなかった。
残っている指だったものを診ていた医師が、ペッパーに向かって告げた。
「壊死を起こしていますので…」
そう言いながら、医師は手首から上を切り落とした。
麻酔をしている訳ではないのに、何も感じなかった。
手首より上が全てなくなった。
その手を見つめながらトニーは気づいた。
嘘だったのだ。治るというのは、嘘だったのだ。シュリが治療方法を開発しているというのは本当だろうが、それが間に合うというのは、嘘だったのだ。
が、分かっていた。誰も教えてくれないが、右腕はとっくに使い物にならないということは…いつか失わなければならないということは、分かっていた。
だが、皆の嘘に…優しい嘘に…か細い希望に縋り付いていた。
その希望は現実を目にした瞬間、打ち砕かれた。
もう何をしても右腕は戻ってこないのだから……。
トニーは震え出した。唇を震わせ、身体を震わせ始めた夫の異変に気付いたペッパーが、慌てて彼の左手を握りしめた。
「トニー?大丈夫よ…」
が、トニーはもはや限界だった。
トニーが叫び声を上げた。泣きながら叫び始めた。
それは、意識を取り戻してから、ずっと気丈に振る舞い、苦痛にも耐えていたトニーが、初めて見せた姿だった。
頭を抱え込んだトニーは、ベッドから飛び起きると看護師と医師を突き飛ばした。そしてそのまま部屋を飛び出そうとした。
「スタークさん!」
看護師たちに取り押さえられたトニーは、まだ叫び声を上げている。が、鎮静剤を打たれたトニーは静かになった。
眠り始めたトニーの目には涙の跡が刻まれており、誰もが何も言うことができなかった。
病室へと戻ったトニーは眠り続けた。
そんなトニーを見つめながら、ペッパーは彼に嘘を付いていたことを謝り続けた。