病院へ担ぎ込まれたトニーは、衰弱しきっていることもあり、入院することになった。
身体中鞭で叩かれたような傷だらけ、食事も与えられていなかったのか、痩せ細ったトニーの胃の中は空っぽだった。
そして何より、かなりの精神的な苦痛を与えられていたらしく、トニーは不安定な状態だった。
「ペッパーちゃん…」
廊下に座り待っていたペッパーは、マリアの声に顔を上げた。手招きされ部屋に入ると、トニーは眠っていた。
首や手首には包帯が巻かれ、青白い顔をしたトニーは、辛そうに眉間に皺を寄せたまま眠っていた。
ホイットニーはトニーに一体何をしたのだろう…。
トニーがどんなに辛い目にあっていたのか、考えただけでも涙が出てきた。
小さな涙を流したペッパーは、トニーの手をそっと握りしめた。
「しばらく入院ですって。精神的にも相当参ってるから、落ち着くまで眠らせておくそうよ…」
そう告げたマリアは、ペッパーに向かって頭を下げた。
「ペッパーちゃん、ありがとう。あなたには何てお礼を言ったらいいか…。あなたは息子を救ってくれた…。取り戻してくれた…」
ホイットニーと対峙したペッパーは、その足でスターク邸へ向かった。そして録音した音声をハワードとマリアに聞かせた。ハワードはすぐさま警察に知らせ、決定的な証拠だと、警察は逮捕状を取った。
つまり待ち合わせに指定された場所は、警察が包囲しており、トニーを安全に確保すると同時にホイットニー・フロストを監禁容疑で逮捕する段取りになっていたのだ。
それも全てあの時ペッパーが勇気を出して行動してくれたから…。だからマリアとハワードは、ペッパーに感謝してもしきれない程の恩を感じていたのだ。
何度もお礼を言うマリアにペッパーは首を振った。
「みんなの願いが通じたんです。トニーが無事に戻ってきますようにという願いが…」
そう告げたペッパーは嬉しそうに笑っており、マリアは彼女をギュッと抱きしめた。その温かさに、ホッと安心したペッパーは声を震わせた。
「でも…私…本当は凄く怖かったんです…。トニーが…もう2度とトニーが…戻ってきてくれないんじゃないかって…。私の話、聞こえないかもと思うと…。だから…本当によかったです…」
泣き出したペッパーをマリアは抱きしめ続けた。
暫くして泣き止んだペッパーだが、外はすっかり暗くなっているではないか。帰り支度を始めたペッパーを家まで送り届けるよう、マリアは廊下で待機していたスターク家の運転手に告げた。
下まで送ると言われ、ペッパーはマリアと並んで歩き始めた。
「トニーの気持ちが落ち着いたら、話を聞いてみるわ。あの子が本音を話してくれるかは分からないけど…」
寂しそうに笑ったマリアだが、ペッパーの手をそっと取った。
「その時は、あなたにも一緒にいて欲しいの…」
「え…私がですか?」
トニーの恋人とはいえ、部外者の自分がいてもいいのかと、ペッパーは目を白黒させた。
「えぇ、あなたが良ければ…ですけど。トニーはあなたのことを誰よりも信頼してるわ。だからあなたがそばにいてくれれば、あの子も心を開いてくれると思うの…」
マリアの縋るような視線に、ペッパーはトニーを取り戻すと覚悟した時の気持ちを思い出した。彼のことを何があっても受け止めるという覚悟を…。
「私でよければ…。私、彼の力になりたいんです。トニーが立ち直ってくれるなら、私は何だってします」
力強く頷いたペッパーに、マリアは感謝の言葉を述べた。
数日後、トニーは目を覚ました。
が、目を覚ますなり、彼は怯えたように震え始めた。
「トニー…」
母親の姿を見たトニーは、安心したのか、大粒の涙を流し泣き始め、堪らずマリアは息子を抱きしめた。小さな子供のようにしがみついてくる息子を、マリアも涙ながらに抱きしめ続けた。
「大丈夫よ、トニー…。ママがそばにいる…。あなたはもう大丈夫よ…」
マリアは病院に泊まり込み、ずっとトニーに付き添った。というのも、トニーは両親かペッパーがそばにいないと怯えるのだ。だが、マリアとペッパーの献身的な世話のおかげで、3日もするとトニーはようやく落ち着きを取り戻した。
トニーの気持ちが落ち着いたため、彼の気持ちをしっかり聞こうと、その日、病室にはハワードとマリア、そしてペッパーの姿があった。
「トニー、何があったのか、説明してくれる?」
手を握りしめた母親に何度か言われ、トニーはようやく本心を語る気になった。が、どう話せばいいのか分からない。話せば軽蔑されるかもしれないと思うと、怖くて仕方なかった。と、空いた手に温もりが触れた。ペッパーだった。安心させるように両手でトニーの手を包み込んだペッパーは、笑みを浮かべた。ペッパーの顔を見た途端、トニーはすぅと胸の中が軽くなった。両親も、そしてペッパーも、きっと思いを受け止めてくれる…そう感じたトニーは、ポツリポツリとこの数年間のことを話し始めた。
トニーの話を聞き終えた3人は、絶望と苦しみしかない話に、胸が張り裂けそうになった。
涙ながらに息子を見つめたマリアは、トニーの手をギュッと握りしめた。
「どうして…どうしてパパとママに相談してくれなかったの…。あの女に関係を強要されていたこともだけど、ずっといじめられてたことも…学校に馴染めなかったことも…。あなたが悩んでいたことも…。すぐにでも転校するなり方法はあったはずよ…。どうしてそんなに我慢してたの…。どうしてあなたが我慢し続けなきゃならなかったの…。パパとママはそんなに頼りなかった?」
母親の言葉にトニーは首を乱暴に振った。
「違う…。違うよ…。言えなかった…。言えなかったんだ…。父さんと母さんに、心配かけたくなかった…。それに、怖かったんだ…。こんなことで負けるようじゃ…父さんと母さんが望むような男になれないって……。父さんに認めてもらえないって…。俺、父さんにずっと認めてもらいたかった…。頑張ったなって、褒めてもらいたかった…。だから俺…」
ボロボロと涙を流したトニーは言葉を切ったが、その言葉はマリアと、そして特にハワードの胸に突き刺さった。
「あなたが心にずっと不安を抱えていたのに、パパもママも気づいてあげることができなかった…。もっと早く気づいてあげられてたら、あなたをこんなに苦しめることはなかったわ…。親失格ね…。ごめんなさい、トニー…。ごめんなさい…。ずっと我慢させててごめんなさい…。辛かったでしょ…」
母親の言葉に何度も首を振ったトニーは、目元を乱暴に擦った。
「そんなことない……父さんも母さんも……俺のこと…愛してくれてるだろ……。だから俺は頑張ろうって…。父さんと母さんに喜んでもらえるように、一人でも頑張ろうって…。で、でも…俺…ずっと寂しかった…。昔からずっと寂しかった…。いつもひとりぼっちで…寂しくて…誰かに頼りたかった…。だから俺…先生に…。俺のことを親身に考えてくれてるって…俺のことを信頼してくれてると思って…。それで俺、先生に…」
鼻を啜ったトニーは、目をギュッと閉じた。
「先生の信頼を裏切ると、本当にひとりぼっちになってしまうと思うと…怖くて従うしかなかった…。言うことを聞いていれば、褒めてもらえるし、そばにいてもらえると思うと…従うしかなかった…。それが愛情だと勘違いしてた…。だから、気づいたら抜け出せなくなってた…。先生の言葉だけが正しいって…そう思い込まされて…誰のことも信じられなくなってた…。でも、間違ってた。先生は俺を信頼してくれてた訳でも、親身になってくれていた訳でもなかった。俺、誰が一番俺のことを考えてくれているのか、分かってなかった…。ごめんなさい…ごめんなさい…。父さん、母さん…本当にごめんなさい……」
謝り続けたトニーは、顔を伏せると声を上げて泣いた。
「トニー…お願い。もう謝らないで…。あなたの苦しみに気づいてあげられなかった私たちを許して…。それから、もう我慢はしないで…。一人で苦しまないで…。パパもママも…あなたがあなたらしく…楽しく生きていてくれるのが…あなたが幸せになってくれるのが、一番の望みなのよ…」
トニーの背中をマリアが優しく撫でた。顔を上げたトニーは、母親に抱きつくと泣き続けた。
妻と息子の様子を黙ってみていたハワードだが、目元の涙を拭うと、ペッパーを手招きした。ハワードについて病室を出たペッパーは、ドアをそっと閉めたハワードを見つめた。
「ポッツさん、すまないな。君まで巻き込んで」
頭を下げたハワードに、ペッパーも頭を下げた。
「いえ…。私こそ…ご家族の話に入らせて頂いて…」
かなり立ち入った話だったのに、トニーが信頼しているからと、ハワードもマリアもペッパーが同席することを望んだのだ。それは彼らがペッパーを家族同然と考えてくれているからだろう。
「君はトニーが大切に思っている人だ。だから私たちにとっても大切な人なんだよ」
そう言うと小さく微笑んだハワードだが、彼は溜息をついた。
「しかし、情けないな。親として、トニーの何を見ていたのだろうな…。息子の苦しみを全く分かっていなかった。私はトニーにとって、良い父親とは言えないな…」
そう言うと、ハワードは苦しそうに顔を歪めた。
ペッパーは思い出した。いつかトニーが語っていたハワードとの思い出を…。
『親父とは楽しい思い出はない。だけど、うんと小さい頃、初めてエンジンを組み立てた時はさ、親父がこっそり手伝ってくれたんだ。その時の親父、嬉しそうでさ…。俺はあの時のことが忘れられないんだ。あの時の親父の笑顔が。あれが俺の原点。だから俺は親父と同じ道に進もうって決めたんだ。それにさ、親父には感謝してるんだ。このアカデミーを転校先に選んだのは親父だ。別の学校に転校していたら、今の俺はなかっただろうし、何よりペッパーに出会えなかっただろうから…』
あの時のトニーの言葉と笑顔は、偽りではなく本物だった。それをハワードに自分が伝えるべきか一瞬迷ったペッパーだが、きっとトニーは伝えて欲しいだろうと思い直した。
「トニー、言ってました。LAに来て本当によかったって。何度も言ってました。お父様がアカデミーを選んでくれたことも感謝してるって…」
ハワードの目に薄っすらと涙が浮かんだ。ペッパーの手を握りしめたハワードは、何度も何度も頷いた。
「ポッツさん、トニーはあなたに出会って変わりました。だから、これからも、息子のこと、よろしく頼む…」
小さく震えるハワードの背中。不器用ながらもトニーに対する愛情を感じたペッパーもまた、溢れる涙を抑えることができなかった。
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