病院へと運ばれたトニーは一命を取り留めたが、昏睡状態だった。原因は不明のため、手を打つ術がないと言われたペッパーは、目の前が真っ暗になった。
「トニー…」
死の影は確実にトニーに忍び寄っていた。そばに寄り添うことしか出来ないペッパーだが、ふいにあの男の言葉を思い出した。人間の姿を保つためには、トニーが必要だという言葉を…。言葉の意味を確かめる方法はただ一つ。トニーの頬にキスをしたペッパーは、病室を後にした。
浜辺に向かったペッパーだが、そこでは父王が待ち構えていた。
「お父様…」
泣き出しそうな娘に胸が痛んだ王だが、真実を告げようと軽く咳払いした。
「ヴァージニア、あの男は死ぬ。お前が悪魔と交わした契約のせいで…。お前が人間の姿を保つには、あの男の生気が必要だ。お前が人間としてあの男のそばにいたいと望んだ時、あの男はお前に身を捧げなければならなくなった。お前はあの男と交わりながら、生気を喰らっていたのだ。昼も夜も問わず、あの男はお前を求めただろ?だが、それはお前が求めたからだ。お前が人間としての姿を保つために、あの男は24時間お前と交わらなければならなかったのだ」
だからトニーは異常なまでに求めてきていたのだ。それも全て自分が交わした悪魔との契約のせいで…。トニーを巻き込み、そして命まで脅かしてしまっているということをようやく理解したペッパーは小さく震え始めた。
「お前はあの男の生気を全て喰らい尽くした。このままではあの男は明日にでも死ぬだろう。ヴァージニア、よく考えろ。お前はあの男を死に至らしめたいのか?お前が海に帰れば、あの男は生気を取り戻すだろう。だがその代わり、お前のことは忘れ去ってしまう」
トニーの命を救うには、彼のことを忘れ生きていかねばならないということなのだろうか…。初めて本気で恋をした男性を記憶の彼方へ追いやらなければならないのだろうか…。
「私は彼を…トニーを愛しています。お父様…お願いでございます…。他に方法は…」
涙ながらに訴える娘に、王は首を振った。
「ない。お前は人間ではない。お遊びは終わりだ。あの男は人間としてやるべきことがある。お前は人魚として、一生生きていけばよいのだ」
父王の言葉に、ペッパーの心はざわめいた。
トニーは世界に必要とされている。トニー・スタークとしても、アイアンマンとしても…。だから彼の命を自分の我儘で奪う訳にはいかないだろう。
だが、ここで諦めれば、もう2度と彼に会うことはできない。例え会えたとしても、トニーは自分のことを何一つ覚えていないだろうから…。それでも再び恋に落ちるかもしれない。だが、そうなれば同じことの繰り返しだ。つまり、この恋心は一生胸に秘めたまま生きていかねばならない。が、彼が生きていけるのならば、自分が身を引くしかないのだ…。
トニーから贈られたネックレスを握りしめたペッパーの目からは、大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
必死で声を抑え泣きじゃくっていたペッパーだが、ようやく気持ちを落ち着かせた彼女は、父王に向かって小さく頷いた。
「お父様…海へ…戻ります…」
娘の決断に頷いた王は、彼女の手を握った。が、その瞬間、王は目を細めた。
「…あの男の…子ができたのか?」
「え?」
子ができた…つまり妊娠していると聞き、ペッパーは驚いたように目を見開いた。娘の様子から、彼女自身も知らなかったのは一目瞭然だ。本来ならば孫ができたと喜ぶべきなのだが、昔から人間は海の王国に災いを呼ぶと言い伝えられており、例え人魚と人間の血を引く者といえど、王国に足を踏み入れされる訳にはいかなかった。
「その子は人間だ。汚らわしい人間の子を海の王国に連れて行く訳にはいかん!」
杖を取り出した王はペッパーに向けた。
「子は始末する」
非情に言い放つ父王に、子供の命が奪われようとしていると悟ったペッパーは、父王から手を離すと、後退りした。
「い、いやです!この子は…この子はトニーの子供です!だから…だから…」
子供を守るようにペッパーはお腹に手を当てた。
と、その時だった。
「お待ちください」
鈴のなるような声が聞こえ、王は杖を下ろした。ペッパーが顔を上げると、父親の隣には母親がいた。
「お母様…」
母親は、海の魔女の畏れられている存在。その母親が現れたということは、これはいよいよ子供も奪われ、海に連れ戻されると、ペッパーは震え上がった。
が、予想に反して、王妃は夫である王をたしなめ始めたではないか。
「あなたは末娘で一番可愛がっているヴァージニアが奪われたので、彼に嫉妬しているんでしょ?それがお相手が人間だから尚更のこと。ですけどあなたは、子供たちには好きに生きろと常々仰っていたではありませんか」
目を三角にして詰め寄る妻に、さすがの王もタジタジになり、何も言い返すことができない。
「子ができたんですよ。それだけヴァージニアと彼の絆が深いということです。ずっと様子を見ていましたが、彼はヴァージニアのことを大切にしてくれます。これ以上のお相手はいません。娘が幸せになるのです。私たちが祝福しなければ、どうするんですか」
妻の言葉は全て図星だったため、王は生返事をすると口を尖らせそっぽを向いてしまった。夫の様子に溜息を付いた王妃はペッパーに向かって微笑んだ。
「ヴァージニア…。彼を助けたいですか?」
母親の言葉に我に返ったペッパーは、コクコクと頷いた。
「はい。お母様、私…彼のことを心から愛しています…」
「分かりました」
ニッコリと笑った王妃が杖を振ると、ペッパーたち3人はフワフワと浮かぶ泡に包まれた。王妃がもう一度杖を振ると、泡は光に包まれ、気づけばそこはトニーの病室だった。
病室には誰もおらず、トニーに付けられた呼吸器とモニターの音が響き渡っていた。モニターは今や微弱になっており、いつ彼の命が潰えるか、時間の問題のようだ。
「急いだ方が良さそうだ。あと数分でこの男は死ぬ」
いつになく慌てたような父王に、ペッパーは縋るように母親を見た。
「彼は呪いにかかっています。これからその呪いを解きます。じきに目を覚ますでしょう。ですから、ヴァージニア、あなたはそばにいてあげなさい」
王妃がペッパーに向かって何やら呪文を唱えると、彼女の身体が光に包まれた。そして、生まれた時から肌身離さず付けていた、人魚の証である珊瑚の髪飾りが音も立てずに崩れ落ちた。
「これでもう、あなたは本当の人間になりました。もう二度と人魚に戻ることはできません。人間と同じ年月しか生きられません」
と、王妃が目を潤ませた。
「もう…2度と海の王国に戻ることも…」
それはつまり、両親に会うことが出来ないということ…。
「お母様…お父様…」
途端にペッパーの胸に様々な感情がこみ上げてきた。何不自由なく愛情を注ぎ育ててくれた両親への感謝の念と、そして別れに対する寂しさと…。
「末娘のお前がいなくなるのは寂しいが…。元気でな、ヴァージニア」
「ヴァージニア、彼と幸せにね…」
「はい。お父様、お母様、ありがとうごさいます」
頭を深々と下げたペッパーは床に降り立つと、トニーの手を握りしめた。
すると、王妃はトニーに向かって手をかざした。王妃の透き通った手がトニーの頭と胸に吸い込まれたが、何かを握ったまま王妃はトニーから手を離した。
「これが原因です」
王妃の手には、気味の悪い生き物がのっていたが、王妃が杖を振るとそれは貝殻になってしまった。
「ヴァージニア、愛してるわ…」
「お別れだ、ヴァージニア。元気で…」
振り返ると、両親の姿は見えなくなっていた。
「お父様…お母様…」
何度か瞬きしたペッパーの目から涙が溢れ落ちたが、その涙がトニーに降り注ぐと、トニーの全身が光りだし、彼は身体を数回痙攣させた。すると青白かった頬に血色が戻り、トニーはゆっくりと目を開けた。
「トニー……」
泣きながら手を握っているペッパーに、何が起こったのか覚えていないトニーは、怪訝そうに眉を顰めた。
小さく唸り声を上げたトニーの頬を撫でたペッパーは、彼の手を握りしめると、とびっきりの笑みを向けた。
「私…本当の人間になりました。これからは、ずっとあなたのそばにいることができます…」
一体どういうことなのか理解できないが、ペッパーと永遠に共にいることができることに違いはないようだ。目を細めたトニーは、満足そうに頷くと、ペッパーの手を握り返した。
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