7月になり、今日はペッパーが仕事復帰する日だ。
安定期に入ったため、昨晩2人はルーカスに妊娠のことを告げたのだが…。
「ルーカス、いい知らせだぞ。ルーカスはもうすぐお兄ちゃんになるんだ」
トニーの言葉の意味が理解出来なかったのか、ルーカスは首を傾げた。
「おにいちゃん?」
目をぱちくりさせている息子の手を取ったペッパーは、自分のお腹に当てた。
「そう、お兄ちゃんになるのよ。ママのお腹にはね、赤ちゃんがいるの」
先日の検診で、お腹の子は女の子だと告げられていたため、妹であることを伝えようとしたペッパーだが、ルーカスは何事か考えるようにじっと母親のお腹に当てた手を見つめている。と、突然、
「おにいちゃんになったら…ぼく…」
と言いながら手を離したルーカスが、ボロボロと泣き出したのだ。
「どうした?」
トニーが理由を聞いてもルーカスは泣くばかりで話そうとしない。そしてペッパーにしがみついて離れようとしない。結局その夜ルーカスは、一晩中ペッパーに抱きついたまま離れなかった。
朝になってもルーカスは、ペッパーのそばから離れようとしない。
だが、今日からペッパーは仕事復帰だ。トニーと相談した結果、ルーカスの幼稚園が始まるまでは、どちらかが面倒を見ることになったのだが、今日は初日と言うこともあり、彼女は朝から予定ぎっしりなのだ。ということで、今日は1日トニーがルーカスの面倒を見ることになったのだが、彼も打ち合わせがいくつか入っているということで、2人はルーカスを連れてタワー下部のオフィスへと向かった。
すると、エントランスホールには大勢の人が集まっていた。そして何事かと戸惑うペッパーに向かって、皆一斉に拍手をし始めた。思わずトニーを見つめると、彼もこの件に関しては知らなかったようで、真顔で首を振った。
「ミス・ポッツ…いえ、ミセス・スターク、お帰りなさい」
女性社員が大きな花束をペッパーに差し出した。
4年前、何もかも投げ出して急に飛び出して行ったのに、こんなにも温かく迎え入れてくれるとは思ってもいなかったペッパーは、ジワリと浮かんできた涙を拭うと、笑顔で社員を見つめた。
「ありがとうございます」
部屋へ向かう道中も、大勢の人から歓迎され、社長室へ辿り着く頃にはペッパーの腕の中は花束でいっぱいになっていた。
「こんなに歓迎されるなんて思ってもみなかったから、嬉しいわ」
ふふっと嬉しそうに笑ったペッパーは、社長室に入ると、再び感嘆の声を上げた。
部屋の一角はルーカスが遊べるようにと、おもちゃや本が沢山置いてあるキッズコーナーになっていたのだ。
「これならルーカスを連れてきても仕事ができるだろ?」
トニーの心配りに、ペッパーは嬉しそうに笑うと唇にキスをした。
「よかったわね、ルーカス」
きっと息子も大喜びだろうとルーカスを見たペッパーだが、彼は父親の手を握りしめ黙ったままだ。
「ルーカス?」
昨晩からずっと様子のおかしい息子が心配たなったペッパーは、彼に原因を聞こうとしたのだが、タイミング悪く社員数人が呼びに来た。
「じゃあ、トニー。お願いね」
「あぁ、頑張りすぎるなよ?」
トニーに花束を預けたペッパーはもう1度夫にキスをすると、息子の頭を撫でた。
「ルーカス、ママ、いってくるわね。パパとお留守番しててね」
と、ルーカスが顔を上げた。唇を噛み締めたルーカスは、涙の浮かんだ瞳で母親を見つめると、足にしがみついた。
「いや!ママがいい!」
大勢の社員がいる手前、声を荒らげる訳にもいかず、ペッパーは息子の背中を優しく撫でた。
「ルーカス、お願いだから、離して」
諭すように告げてみたが、ルーカスは足を踏み鳴らした。
「いやだ!いや!ママといる!!」
首を振り抵抗するルーカスに、ペッパーは思わず叱りつけてしまった。
「ルーカス!いい加減にしなさい!」
強引に手を振りほどくと、ルーカスは大粒の涙を零しながら叫んだ。
「ぼく、あかちゃんなんて、いらない!だから、ママとずっといっしょがいいの!」
その言葉に、見たことがないほど悲しそうな顔をした母親は、凍りついてしまった。母親の目から涙が流れ始めたのに気づいたルーカスは、部屋の隅まで走っていくと踞り泣き始めた。
黙って2人のやり取りを見守っていたトニーも息子の言葉に眉を吊り上げたが、見ると社員たちはどうすることも出来ない雰囲気に狼狽してしまっている。
「ペッパー、行ってこい。ルーカスは任せろ」
静かに泣きじゃくるペッパーを抱き寄せたトニーは、彼女の背中を優しく撫で始めた。
「でも…」
頬に流れ落ちた涙を拭ったトニーは、優しいキスをすると頷いた。
「大丈夫だ。きっとルーカスなりに理由があるはずだ。話をしてみるから…」
ペッパーと社員たちが部屋を出ていくと、トニーは部屋の隅で泣いている息子の元へと歩み寄った。軽く頭を撫でると、振り返ったルーカスは父親に抱きついた。声を上げて泣き始めた息子を抱き上げたトニーは、ソファーへと腰を下ろした。
「なぁ、ルーカス。昨日からどうしたんだ?パパに理由を教えてくれないか?」
黙ったまま泣いていたルーカスだが、暫くすると蚊の鳴くような声を出した。
「ぼく…あかちゃん、ほしくない…」
トニーのスーツもシャツもルーカスの涙で濡れているが、そんなことはお構い無しに、トニーは息子の頭をぎゅっと抱きしめた。
「どうしてだ?」
父親の優しい声色に、きっとヒーローである父親はよいアドバイスをくれるに違いないと、ルーカスは昨夜から考えていたことを恐る恐る話し始めた。
「だって…だって……あかちゃんがきたらね…ぼくだけのパパとママじゃなくなっちゃう……。それからね、おともだちがいってたの。あかちゃんがうまれたらね、パパとママはあかちゃんのほうがだいすきだから、おはなしきいてくれないし、あそんでくれないって…」
息子の言葉に、トニーは戸惑った。
一人っ子のトニーは妹や弟がいるという気持ちが、両親の愛情を自分以外と分け合うという気持ちが、正直理解出来なかったのだ。それは一人っ子であるペッパーも同じだろう。だからこそ、一晩中泣きじゃくったルーカスの気持ちに気づいてやれなかった。息子は小さな胸でそんなことを考えていたのかと、トニーは唇を噛み締めた。
だが、ルーカスが考えているようなことは決してないのだ。それを息子に分からせようと、トニーは息子の肩を掴み顔を上げさせた。
「ルーカス、それは違うぞ?」
いつになく厳しい顔をした父親に、ルーカスは目を瞬かせた。
「ルーカスは、パパとママにとって、大事な息子だ。パパの世界を変えてくれた世界一大切な宝物だ。ルーカスは優しくて強くて頭も良くて…パパとママの自慢の息子なんだぞ?赤ちゃんが生まれても…いや、ルーカスが大人になってもそれは変わらないことだ」
父親の力強い言葉に、ルーカスは涙を拭った。
「ホント?」
「あぁ、本当だ」
息子に少しだけ笑みが戻ったのを確認すると、トニーはルーカスを抱きしめなおした。
「ルーカス、アイアンマンになりたいんだろ?」
「うん」
トニーの肩に顔を埋めたルーカスは、大きく頷いた。
「だったら、まずはお前の妹のアイアンマンになるんだ」
「いもうとのアイアンマン?」
首を傾げたルーカスは、父親をじっと見つめた。
「そうだ。赤ちゃんはな、女の子なんだ。赤ちゃん…つまり、お前の妹はな、生まれてすぐは、自分で何もできないんだ。ご飯を食べるのも、服を着替えるのも、トイレにも1人で行かれない。ママやパパが手伝わないといけないんだ。だからルーカスも協力してくれ。パパが仕事でいない時は、ママの手伝いをしてやってくれ。それから、妹が泣いてたら、アイアンマンの出番だぞ?妹を守ってやるんだ」
「うん……」
力なく頷いたルーカスの髪をくしゃっと撫でたトニーは、少し明るめの声で告げた。
「なぁ、ルーカス。パパがどうしてアイアンマンを続けているか分かるか?」
父親がアイアンマンになった話は絵本で読んだし、父親本人からも聞いていたが、続けている理由は知らなかったため、ルーカスは首を振った。
「パパはな、この世界を守りたいんだ。大好きなママとルーカスが楽しく暮らしている世界を…。お前たちが笑顔で暮らしていけるように、この世界の平和を守りたいんだ。だからパパはアイアンマンを続けている。ルーカスもママのこと守りたいだろ?だったら、これからはパパとお前と2人で、ママと赤ちゃんのことを守るんだ」
父親の言葉に涙を拭ったルーカスはうんと頷いた。
「でも…パパ…。ぼく…うまくできるかなぁ…」
不安げだが、先程とはうって変わりスッキリとした表情の息子に、トニーは笑みを向けた。
「できるさ。それに上手にできなくてもいいんだ。少しずつ、上手にできるようになればいいんだ。パパを見てみろ。いつも失敗してママに怒られてる。一昨日、お前と黙ってハンバーガー食べに行っただろ?実はな、帰ってママに雷を落とされた。またハンバーガー食べさせて!ってな」
ハハッと笑い声を上げたトニーにつられて、ルーカスも嬉しそうに笑った。
「パパもパパになったばっかりでまだまだ未熟者だ。失敗ばかりしている。でも、パパは失敗してもいいから、もっといいパパになれるように頑張ろうと決めた。だからルーカス、大丈夫だ。お兄ちゃんになることだけじゃない。ルーカスはこれから色々なことにぶち当たる。だがな、お前なら絶対に乗り越えられる。だから自信を持って歩き続けろ」
「うん…」
ルーカスは目をキュッと閉じると、父親に抱きついた。
「パパ…パパはね、せかいでいちばんカッコいいパパだよ。ママもね…せかいでいちばんすてきなママ…」
「そうか…」
息子の背中をポンッと叩くと、ルーカスは涙でベタベタになった顔を袖口で拭った。
「ぼくね…ホントはね…ずっとおとうとといもうとがほしかったの…。でも、ママに…あかちゃんいらないって…。ぼく…ママをなかせちゃった…」
(なんだ、ちゃんと分かってるじゃないか)
自分の言葉で母親が酷く傷ついていることを息子がきちんと理解していることが、トニーは嬉しかった。
軽く咳払いをしたトニーは、ルーカスの鼻を摘んだ。
「ルーカス、男はな、一番大切な女性を悲しませちゃダメだぞ?パパはママのことを今までいっぱい悲しませた。だから決めたんだ。もう絶対にママのことは悲しませないって…。ルーカスはママのこと、大好きだろ?」
「うん!」
目をキラキラさせ始めたルーカスは、力いっぱい頷いた。
「だったら、ママのことを泣かせたらダメだ」
「わかったよ、パパ。ごめんなさい」
と、ドアの向こうでガタッと音がした。チラリとドアの方を見たトニーは、ルーカスの耳元で囁いた。
「ママ、ドアの外で泣いてるぞ?」
目を丸くしたルーカスは、慌てたように口を押さえた。
「どうしよう、パパ…」
オロオロし始めた息子に、トニーは悪戯めいた笑みを浮かべた。
「ママに謝れ。それから、ママの耳元で『愛してる』って優しく言うんだ」
父親からとっておきの方法を教えてもらったルーカスは、「うん!」と頷くと、膝の上から飛び降りた。
ルーカスは、そっとドアを開けた。すると、ペッパーは廊下に座り込んで泣いていた。
実はペッパー、先程の話を最初から全て聞いており、トニーの言葉に感動し泣いているのだが、幼いルーカスにはそこまで理解できるはずもなく、自分の言葉のせいで母親が酷く悲しんでいると考えた。そのため、そっと母親に近づいたルーカスは、遠慮がちに母親の肩に触れた。
「ママ…ごめんなさい。あかちゃんいらないっていって、ごめんなさい。ぼくね、あかちゃんができたら、パパとママとあそべなくなるっておもってたの。でもね、ホントはね、いもうとができてね、うれしかったよ…。それからね、ぼくとパパがね、ママとあかちゃんのこと、まもるからね。だって、ぼくはアイアンマンだから!」
「ルーカス…」
ペッパーにギュッと抱きついたルーカスは、父親から教わったように、耳元で囁いた。
「ママ…あいしてるよ…」
その言い方はトニーそっくりで、思わず笑みを浮かべたペッパーは、息子を腕の中に閉じ込めた。
「ママもよ。ルーカスのこと、愛してるわ…」
ペッパーがふと顔を上げると、ドアに寄りかかってトニーがニコニコと笑っていた。オーダーメイドの高級スーツは、ジャケットもシャツもネクタイもルーカスの鼻水と涙でぐちゃぐちゃに汚れていたが、彼は心から嬉しそうに笑っていた。
どうして彼はこんなにも家族の気持ちを理解してくれているのだろう。付き合い始めた頃、彼は家族の愛情を知らないから家族を作る自信がないと言っていたが、彼ほど家族のことを理解してくれている人はいないだろう。
(トニーが旦那様で本当によかった…)
ルーカスを抱き上げたペッパーは立ち上がった。そして腕を広げて待っているトニーの胸元に飛び込むと、彼の胸元に顔を押し付けた。
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