177. Puddle

初めて足を踏み入れた邸宅に、トニーはため息を付いた。

何もかも失った。
突然他界した両親、後ろ盾もなく解散せざるを得なかった会社…。遺産は十分すぎる程あったが、家は処分した。両親との思い出の詰まった家に、一人住むのは辛すぎるから…。

ポッツ氏には感謝せねばならないだろう。例え『秘書』というポジションであったとしても、一人ぼっちになった自分に救いの手を差し出してくれたのだから。
ポッツ氏の秘書になり2週間経った。自分で言うのもだが、それなりに上手くこなしていると思う。初日は哀れみと好奇心の目で見られていた。『金持ちの道楽息子に秘書なんか務まるはずがない』と陰口も叩かれた。悔しかった。負けてたまるかと思った。だからがむしゃらに頑張った。そのため、3日も経つと次第に認められ始め、2週間経った今や、誰も文句を言う者はいなくなった。
だが虚しかった。皆、表面上の自分しか見てくれず、心の虚空を受け止めてくれる者は誰一人いなかったから…。

それでもポッツ氏は自分のことを気にかけてくれた。仕事だけではなく、プライベートのことも。必死で努力する自分のことを彼は次第に息子のように可愛がってくれるようになった。
今日も日曜で休日なのだが、彼は一緒に昼食でも…と、家へ招待してくれたのだ。
ポッツ夫人も気さくで優しい女性だった。どことなく亡き母親に似ている夫人は、一通り決まり切った紹介が済むと、目を潤ませ抱きついてきた。
「トニーくん、私たちのこと、本当の家族と思ってくれていいのよ?だから何でも言ってちょうだい…」
正直戸惑った。両親の死後、こんなにも温かく接してもらったことはなかったから…。その戸惑いが通じたのか、ポッツ夫人は背中を優しく撫でると身体を離した。その夫人に、先程よりキョロキョロと周りを見渡していたポッツ氏が声を掛けた。
「ヴァージニアは?」
「どこに行ったのかしら。今日はパパの新しい秘書の方が来るから、ちゃんとご挨拶しなさいと言っておいたんですけど…」
ふぅとため息を付いた夫人だが、何か事情があるのだろう。
思わず眉を潜めた自分に、ポッツ氏は言いにくそうに話し始めた。
「娘のヴァージニアはな…。その…何と言うか…今までの秘書を毛嫌いして追い出そうとしたんだ」
「あの子、主人と私以外には心を開こうとしないんです。だから、トニー。もしあの子があなたに対して何か言っても、気にしないでね」
ポッツ家の一人娘、ヴァージニア・ポッツ。彼女の気持ちは理解できる気がする。幼い頃より跡取りとして周囲の期待を一身に背負い、両親は多忙で常に大人の中で育ったという点では、自分と共通点があるからだ。ただ1つ違うのは、『父親』だろうか。自分の父親、ハワード・スタークはおおっぴらげに愛情表現することはなかったが、ポッツ氏は目に見えて娘を可愛がっているというところが、大きく違っているように思えた。
亡き両親の姿が頭を過ぎり、それを追い払うようにトニーは小さく頭を振った。

昼食の準備が整うまで、トニーは庭を散策することにした。雨足の弱まり始めた庭に足を踏み入れると、トニーは視線を落とした。
水溜りに映る自分の顔は濁っておりよく見えない。一体今の自分はどんな顔をしているのだろう。
家族のように受け入れてくれようとするポッツ夫妻の優しさにも素直に喜べない。それはきっと心のどこかで、彼らが自分のことを哀れんでいると思っているからだろう。そして、もう2度と味わうことのできない幸せな家族の姿に嫉妬している自分を認めざるを得なかった。
ほんの1ヵ月前までは、父親と喧嘩しながらも母親の手料理を食べ団欒しているのは自分だった。それなのに、どうして今、自分は一人ぼっちなのだろう。家に帰っても誰も迎え入れてくれず、一人孤独に朝を迎えなければならない。胸のうちを話そうにも、それに応えてくれる友達はいなかった。いや、一人いた。その彼には、両親の葬儀後、話を聞くと言われたが、軍に入隊したばかりの彼に余計な心配をかけたくなく、全てを話す事はできなかった。
だが、限界だった。悲しみを一人で背負いきれなかった。誰か支えてくれる人が欲しかった。
ぽつりぽつりと涙が水溜りに零れ落ちた。人前では泣いてはならぬと分かっていたが、涙は止まらなかった。

と、その時だった。
「お兄ちゃん…大丈夫?お兄ちゃんがパパの新しい秘書でしょ?」
幼い声に顔を上げると、そばかすの可愛らしい赤毛の少女が不安そうに立っていた。澄み切った青い瞳は、全てを受け入れてくれるように慈悲深く、そして意思の強さが浮かんでおり、トニーは一目で彼女に囚われてしまった。
ゴシゴシと乱暴に目元を擦ったトニーは、挨拶をするために少女の目線に合わせ膝を屈めた。
「はい、ヴァージニア様。アンソニー・エドワード・スタークと申します。トニーとお呼びください」
トニーの謙った挨拶が気に入らなかったのか、ヴァージニアは首を振った。
「ジニーって呼んで」
「ですが…」
戸惑いの色がトニーの瞳に浮かび、ヴァージニアは彼を安心させるように、にっこり微笑んだ。
「ジニーよ」
ヴァージニアの笑顔は、トニーの荒んだ心に染み渡った。と、ヴァージニアがトニーのジャケットを掴んだ。布越しに伝わる彼女の手は温かく、トニーの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
トニーの涙にヴァージニアは幼いながら気づいた。彼は孤独だと。彼は愛を求めていると…。そしてそれは自分と同じであると…。
トニーの涙を拭ったヴァージニアは、彼の首元に腕を回すと遠慮がちに抱きついた。
「トニーお兄ちゃん…泣かないで。お兄ちゃんは一人じゃないわ。私がいる。お兄ちゃんのそばに、ずっと私がいるから…」
トニーの肩に顔を埋めたヴァージニアをトニーは恐る恐る抱きしめた。その瞬間、2人の心は通じ合い、硬い絆で結ばれた。最も2人がそれに気づいたのは、10年以上経ってからであるが…。

「だから…トニーお兄ちゃんも私のそばにずっといて…。いなくなったりしないでね…」
じんわり浮かんだ涙を拭ったヴァージニアは、身体を離すとトニーの手を握りしめた。
数分前までとは違い、晴れ晴れした表情を浮かべたトニーは、彼女の手の甲を持ち上げると、そっと口付けした。
「ジニー、約束します。俺はあなたのそばを離れないと…」
「うん!ずーっと、ずーっと、一緒よ!私とトニーと…ずーっと一緒!」
パッと顔を輝かせたヴァージニアは、雨も上がり太陽の照りつける日差しの中、立ち上がるとトニーの手を引っ張り歩き始めた。

初めて出会ったのに、お互い掛け替えのない存在となった。どうしてなのかはこの時の2人には理解できるはずもなかったが、ヴァージニアの屈託のない純粋な笑顔に、トニーも17才の少年らしい笑みを浮かべた。それは両親が死んでから初めて見せた笑顔だった。

***
“On Your Side Forever”のトニペパ。トニー17歳、ジニー7歳。

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