男に連れられ部屋に入ってきたのは、あろうことかペッパーだった。
病院に行っていたはずなのに、ここにいるということは、おそらく拉致されたのだろう。
あのオークションで目撃した時のように、薄い絹一枚を纏ったペッパーは首輪を付けられており、そこから伸びる鎖を男は手綱のように扱っていた。
「ペッパー!」
拘束されているせいで身動きが取れない。トニーが動く度に金属音が響き渡った。
「ペッパー!おい、ペッパー!!」
必死で呼びかけるトニーだが、ペッパーは答えない。空ろな目をしたペッパーは、ちらりとトニーに視線を送ったが、トニーを見ても何の反応も示さなかった。
「57325よ」
呼びかけられたペッパーは、男の前に跪いた。
「はい、マスター…」
従順なペッパーに、男は誇らしげにトニーを見つめた。
「破れば死に値する規則は何だ?」
顔を伏せたままのペッパーは、よく通る声でハッキリと答えた。
「ご主人様を愛してはいけないこと…結婚してはならないこと……子供を作ってはいけないこと……」
その言葉を聞き、トニーはようやく合点がいった。結婚してもペッパーがいつも不安と恐怖を抱いていたのは、これが原因だったのだと…。
唇を噛み締めたトニーだが、そんなトニーを嘲り笑った男は、ペッパーを睨みつけた。
「その規律を破ればどうなるか知ってるな?」
「はい。規則を破れば、マスターに酷い罰を与えて頂けます」
「お前は規則を破った。全ての規則をな。そういう時はどうするんだ?」
手に持っていた鞭でペッパーをすっと撫でると、彼女は震える声で告げた。
「マスター…私はマスターに決めて頂いた規則を破りました。私は悪いオンナです…。お願いします。どうか私に罰を与えて下さい」
勝ち誇ったようにトニーに向かい嫌な笑みを浮かべた男は、ペッパーを立ち上がらせると、頬を掴み唇を奪った。ペッパーも彼の頬に手を添え、積極的に応えている。そして男が胸を揉み始めると、ペッパーは身体をくねらせた。
「やめろ……」
愛する女性が他の男に奪われようとしているのに、何もすることができない。情けなくなったトニーの目からは涙が零れ落ちた。
と、男がペッパーの尻を叩いた。妖艶な声を上げたペッパーは、催促するように男に抱きついた。
「トニー・スターク。見ろ。これがこのオンナの本性だ。叩かれ喜んでいるぞ?このオンナが一番好きなことは何だと思う?お前に今から見せてやろう」
呆然とするトニーの目の前にペッパーを連れてきた男は、彼女の頬を平手打ちすると床に蹴り飛ばした。
「お前は規則を破った!この男と結婚した!子供まで作った!お前のような女が幸せになれると思ってるのか?!」
這い蹲り男の足元へ四つん這いになったペッパーは、頭を下げた。
「申し訳ございません…。お願いします…。私に罰を…」
が、『子供』と聞いたトニーは凍り付いた。つまりペッパーは妊娠している。それはもちろんトニーの子供…。
目を見開き震えるトニーは今にも壊れそうで、もうすぐだと感じた男は、最後の仕上げをすることにした。
「よし、この男の目の前で、こいつらと交われ。好きだろ?大勢を1度に相手にするのは。お前の心と身体を破壊してやる。正気を失って気が狂うまでな!」
と、周りにいた男達がペッパーに向かいジリジリと近づいてきた。
「やめろ!!」
トニーは叫んだ。ひたすら叫んだ。ペッパーの名前を呼び続け、何とか正気に戻そうと…。
「トニー・スタークよ。お前のオンナは返してやる。屍になったオンナをな!」
拘束されているせいで動けない。その間にもペッパーの元には、大勢の男が集まってきている。
「ペッパー!目を覚ませ!私だ!トニーだ!お願いだ、ペッパー…お願いだ…」
目の前のペッパーは四つん這いになり、顔を下に向けている。
「ペッパー……頼む……愛してるんだ…」
と、ペッパーが顔を上げた。何度か瞬きをした彼女は、左手に視線を落とした。そして指輪に気付いた彼女は、右手でそっと指輪に触れた。その瞬間、ペッパーの瞳に光が戻った。顔を上げたペッパーは、目の前のトニーに気づいたのか、真っ直ぐと彼を見つめると叫んだ。
「私は…トニー様を愛しています!トニー様は私を一人の女性として扱って下さいました!それに…」
ゆっくりと起き上がったペッパーは、トニーの足元に座り込み、そっと彼の身体に触れた。
「そう…。私…ずっと前から…トニーのことを……」
その瞬間、ペッパーは全てを思い出した。
ついにペッパーの暗示が解けたのだ。
ぱっと顔を上げたペッパーは、目を何度も瞬かせると、辺りをキョロキョロと見渡した。
「…トニー?…私…」
何が起こっているのか理解できていないのだろう。ペッパーはほぼ何も着ていないに等しい自分の姿を見て悲鳴を上げた。そして自分の方へ近づいて来る男たちから逃れるように、トニーの背後に慌てて隠れた。
「ペッパー…思い出したのか?」
「思い出すって…」
困惑しきっているペッパーは、頭を抱えてしまった。これ以上彼女には手を出させない。拘束されている身ではどこまでできるか分からないが、とにかく自分が盾となり彼女を守らなければ…。
唇を噛みしめたトニーは、男たちを睨み付けた。
と、その時だった。
室内の灯りが消えた。
「きゃっ!な、何?!」
悲鳴を上げたペッパーは、トニーの腕に縋り付いた。
「ようやく来たか…」
ボソッとトニーが呟いた瞬間、照明弾が投げ込まれ、辺りはまばゆい光に包まれた。
そして叫び声が上がる中、大勢の警官が室内になだれ込んで来た。30分経っても出てこなければ突入するようトニーが告げていたのだ。
男たちはあっという間に鎮圧され、次々と部屋から連れ出されていった。
ペッパーが『マスター』と呼んでいた男も例外ではなく、後ろ手に手錠を掛けられると引きずられるように部屋の出口へと向かった。だが男は、拘束を解かれたトニーに向かって叫んだ。
「トニー・スターク!記憶が戻ったかもしれないが、そのオンナはもう元には戻れんぞ!」
笑い声を上げ連れ出された男を睨み付けていたトニーだが、肩から毛布を掛けられ落ち着きを取り戻したペッパーの横に腰を下ろすと、彼女が水を飲む終わるのを黙って見守った。
トニーに気付いたペッパーは、彼の腫れ上がった頬に手を添えた。小さく震えるその手をそっと握り返すと、ペッパーはそのまま壊れてしまうのではないかという程、明らかに困惑していた。
「どうしよう…。私…あなたと結婚したのよね…」
彼女の記憶がどこまで鮮明なのかは分からないが、まずは彼女を安心させることが先だろう。
「あぁ、そうだ」
力強く頷いたトニーは、ペッパーの左手を取ると指輪をなぞった。
「それに…妊娠してるみたいなの」
「あぁ、さっき聞いた」
先程あの男から聞いた時は、状況が状況だっただけに戸惑いの方が大きかったが、彼女から直接聞くと、改めて喜びが湧いて来た。
トニーの目をじっと見つめたペッパーは、彼の迷いのない力強い瞳に安心したのか、肩の力を抜くと、ふぅと息を吐いた。
「どうすればいい?」
「どうもこうも…こうするさ」
ペッパーを抱き寄せたトニーはそのまま彼女をぎゅっと抱きしめた。
「良かった…ペッパー…無事でよかった…。あのまま君を失うかと思った…」
小さく震えるトニーの身体は、彼の不安な心を物語っており、背中にそっと腕を回したペッパーも、彼の温もりにようやく心から安心できた。
「トニー…ありがと…」
検査のため2人は病院へ搬送された。ペッパーは幸いにも怪我もなく胎児にも問題はなかった。だがトニーは男に暴行された時に左腕と肋骨に数本ヒビが入り、診察室から出て来た彼は、左腕を吊り、頬には大きなガーゼを貼られていた。それでもペッパーを取り戻せたことが嬉しくて仕方ないのだろう。不安そうなペッパーとは対照的に彼は満面の笑みだった。
「さぁ、帰ろうか」
そう差し出された右手を握ったペッパーも、小さく笑みを浮かべるとトニーを支えるように歩き始めた。
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