マリブにしては珍しく激しい雨の降るある晩。
怖い夢を見て目を覚ましたエストは、眠れなくなり父親と母親のいる寝室へと向かった。
眠い目を擦りながらそっとドアを開けたエストだが、突然母親の怒鳴り声が聞こえビクっと肩を震わせた。
「信じられないわ!あなたは私の事を何だと思ってるのよ!」
部屋の中をそっと覗くと、ベッドに座り込んだ父親と、部屋の中をうろうろと歩き回る母親の姿が見えた。
「私の事が信じられないというのか?私よりも世間の噂を信じるのか!」
「そうよ!もうあなたのことなんて信じられないわ!」
クローゼットから大きなカバンを取り出したペッパーは、その中に自分の物を次々と放り込んでいった。
「エストも連れていくから!あなたになんか任せておけないわ!」
「こんな時間に出ていくのか?エストを起こして?それでも母親か?」
「父親面しないでよ!」
鞄を掴んだペッパーは、指に嵌めていた結婚指輪を外すとトニーに向かって投げつけた。
「これも返すわ!もうあなたなんかと一緒にいたくないもの!」
指輪を拾ったトニーはエストが見たことがないくらい悲しそうな顔をしたが、ポケットに突っ込むとペッパーを睨みつけた。
「勝手にしろ!」
カバンを掴んだペッパーがドアを開けると、目に涙を溜めたエストが部屋の外に佇んでいた。
「エスト…」
その声にトニーも振り返った。
「ママ?パパとけんかはダメ!いつもなかよしなのに、ダメよ…」
声を上げて泣き始めたエストを抱き上げたペッパーは、何か言いたげなトニーを睨みつけると家を出て行った。
翌日。会社に着くや否やトニーはお抱えの弁護士を呼び出した。
昨夜の喧嘩の原因である記事…トニーが何十年も前から多数の女性と関係があり、そのうちの何人かの女性とは結婚した今でも続いていること、夫人であるペッパーはその一人で子供がいるため仕方なく結婚生活を続けていること、実は他の女性との間にも何人も子供がいること、そしてトニー自身は女性を性欲処理の道具としか思っていないことなど、根も葉もないことがいかにも真実かのように…それもトニーの独占インタビューとして書かれていたのだった。
慌てて飛んできた弁護士にトニーは物凄い剣幕で捲し立てた。
「いいか!あの記事を書いた記者を連れて来い!妻の前で謝らせろ!それと、あの記事には真実は何一つないと謝罪の記事を書かせろ!逆らったら名誉毀損で訴える…いや、潰すと言え!」
こんなに激怒するトニーは、付き合いの長い弁護士も見たことはなかった。必ず何とかすると約束した弁護士は、部屋を飛び出して行った。
午後になってもペッパーからは何の連絡もなかった。いつもなら大量のメールや着信に対して何らかのリアクションがあるのだが、肝心の携帯の電源を切っているらしく、全く音沙汰がない。
会議から戻ってきたトニーは自室で携帯をチェックしたが、やはり何も連絡はない。
(今回は相当怒ってるな…)
ため息を付いたトニーだが、きっといつものように実家に帰っているのだろうと思い、電話をかけ始めた。
だが…。
「え?そちらに行ってないんですか?…そうですか……え?い、いや…その…。…はい……」
記事のことを知らないのか、また喧嘩したの?今度は何が原因?と楽しそうに聞くペッパーの母親から逃げるように電話を切ったトニーは顔を覆った。
(おい、ペッパー。どこへ消えたんだ?)
一方、ペッパーは街中の某ホテルのスイートルームにいた。
「ママ?おうちにかえらないの?」
腹癒せとばかりに大量に買い込んだ洋服や靴やバッグをベッドルームで広げる母親を戸口から見ていたエストだったが、テレビから父親の名前が聞こえ振り返った。
「あ!パパ!」
父親の姿を見れば母親も機嫌を直すかもしれない…。淡い期待を抱きながら、エストはインタビューに答えるトニーの映像を指差しながらペッパーに向かって叫んだ。
「ねえ、ママ!パパがでてるよ!」
ジロリとテレビを睨みつけたペッパーは、立ち上がるとリモコンを掴みテレビを消した。
「あんな男、顔も見たくないわ!」
ガックリと肩を落としたエストは、ブツブツと文句を言っている母親の顔色を伺うように見上げた。
「ママ…パパとなかなおりしないの?」
何も言わず黙ってしまった母親は、自分の方を見ようともしない。
「エスト…パパにあいたい…」
しょんぼりと頭を垂れたエストは口を尖らせ、手に持っていたアイアンマンのぬいぐるみを抱きしめた。
翌朝、会社に連絡を入れようと携帯を開いたペッパー。トニーからは大量の着信やメールが届いており、ペッパーは今朝届いたばかりのメールを開いた。
『ペッパー、頼む。もう一度きちんと話をしよう。T』
(話し合えばすむ問題じゃないでしょ?)
「もう!知らないわ!」
ヒステリックに叫んだペッパーは、電源を切り携帯を部屋の隅に投げ捨てた。
一方のトニーは、せっかくの休日だが何をする気も起こらず、ラボに座りぼーっとしていた。電話は繋がらないため何度もメールを打ってはいるが、果たして見ているかどうか…。
「どうしたものか…」
ため息をつき沈み込んだ主人を心配そうに見つめたダミーとユーがジャーヴィスに何か訴えるようにアームを上にあげた。
LA市内のホテルのコンピューターを検索し始めたジャーヴィスは、ペッパーとエストの居場所を突き止めた。
『トニー様、ペッパー様ですが…』
すぐさま伝えようと主人に声をかけようとしたジャーヴィスだが、タイミング悪くローディから電話がかかってきた。
『トニー?今いいか?』
「あぁ…どうした?」
『すまないが、手伝ってくれ』
「分かった。すぐに向かう…」
頭を振ったトニーは、アーマーを着ると指定された場所へ向かった。
「あ!パパ!」
街中で買い物をしていたペッパーは、空を見上げていたエストの声に顔を上げた。頭上はるか上空、赤と金色のボディを光らせて飛んでいるのは、間違いなく自分の夫。
(また仕事?無事に戻ってきてね…)
泣き出しそうな顔で空を見上げた母親にエストは声をかけた。
「ママ…。おうちにかえろうよ…。パパにごめんちゃいってしようよ…」
「ダメ!帰らないわ。向こうが反省するまでは帰らないわよ!」
怒っているくせに心配そうに父親を見上げる母親。頬を膨らませた母親をエストは不思議そうな顔をして見つめた。
(おとなってへんなの…。よくわかんないや…)
深夜。
ラボに転がり込むように戻って来たトニーは、アーマーを脱ぎ捨てると床に倒れこんだ。
「く…っ…」
腹部を押さえたトニーは、床に這いつくばり移動すると隅にあるソファーに横たわった。
『トニー様…』
ジャーヴィスの心配そうな声にトニーは顔を苦痛で歪めながら無理やり笑みを浮かべた。
「だ、大丈夫だ…。心配…するな…」
腹部を押さえた指の間からは、真っ赤な鮮血が溢れており、トニーが通った道は朱色に染まっている。全身状態を素早くスキャンしたジャーヴィスは、救急車を要請した。
『トニー様、ペッパー様にお知ら……トニー様?トニー様!』
苦しそうに咳き込んでいたトニーだが、小さく息を吐くと意識を失ってしまった。ダミーとユーが触れても、ぐったりとしたトニーは反応しない。
アームたちが騒ぐ中、ジャーヴィスは祈るような気持ちでペッパーの滞在しているホテルに電話を掛けた。
『ペッパー様!トニー様が…』
ジャーヴィスから連絡をもらったペッパーは、エストを叩き起こすと車に飛び乗り、病院へ向かった。
深夜の病院は不気味なほど静まり返っていた。ナースステーションに駆け寄ったペッパーは、エストを抱きしめ直すとスタッフに声を掛けた。
「すみません!スタークですけど…主人は…」
「先程手術が終わりましたので、ICUにいらっしゃいますよ」
ICUに向かうと、手術を終えたばかりのトニーに、医師やナースが処置を施していた。血の気のない顔をして眠るトニーをガラス越しに見つめていると、エストがペッパーの頬に触れた。
「ママ…」
泣き出しそうな娘を安心させるように微笑んだペッパーは、小さな背中をそっと撫でた。
「大丈夫よ…パパは大丈夫だから…」
ペッパーの服をギュッと握りしめたエストは、トニーを見るとペッパーの肩に顔を押し付けた。
「パパ…ひとりでかわいそう…。ママもエストもいないっておもってる…」
大切な娘は自分たちのせいでその小さな胸を痛めている…。自責の念に駆られたペッパーは、娘の震える身体を抱きしめた。
「そうね…。パパにゴメンねってしなきゃ…。パパのこと信じなくてゴメンねって…」
「スタークさん?」
顔をあげると医師がそばに立っていた。
「先生…主人は…」
零れ落ちそうな涙を堪えたペッパーを安心させるように医師は微笑んだ。
「腹部を撃たれ出血が多かったのですが、大丈夫ですよ。じきに目を覚まされると思います」
ベッドサイドの小さな椅子に腰掛けたペッパーは、トニーの頬をそっと撫でた。
しばらくして、先ほどからうとうとしていたエストが眠ってしまうと、顔見知りのナースが雑誌を持ってやって来た。
「ペッパーさん、これ、見られました?」
「いえ…」
「では、どうぞ。それにしても、偽りの事を面白おかしく書くなんて許されることではないですよ。でも、みんな分かっていますよ。お二人がお互いに大切に思い合っていることは。それに…」
「どうしたんです?」
トニーとペッパーを交互に見つめたナースは、手に持っていた雑誌をペッパーに手渡した。
「いえ。これを読めば分かりますよ」
そう言うとナースは「何かあったら呼んでください」と足早にその場を後にした。
すっかり眠ってしまったエストを抱きしめ直すとペッパーは雑誌を広げた。
それはあの記事が掲載された雑誌だった。
表紙の写真はトニー。そしてその下には『お詫び』という文字と『独占インタビュー』と文字が大きく書かれていた。
前号の記事は、スターク氏のインタビューではなく捏造したものであること、そして記事の内容は真実ではないこと、スターク夫妻に多大なる迷惑をかけてし まったこと、報道する側としてはあるまじきことをしてしまったことなどが、見開き一面でお詫びとして掲載されていた。そして、真実を報道しろと、スターク氏が独占インタビューに答えてくれたと続いているではないか。
プライベートのことを語るのをトニーが嫌がるのを知っているペッパーは驚いた。
(もしかして、私のため?)
零れ落ちそうになった涙を拭うと、ペッパーはその記事を読み始めた。
それは、トニーのペッパーに対する愛に溢れたインタビューだった。
二人の出会いから始まった記事は、恋人になり結婚し、そして子供にも恵まれたこと、その間ペッパーはどんな時でもずっと自分を見守り支えてくれたこと、彼 女なしでは今の自分はいないこと、彼女の事を一人の人間として尊敬していることなどが、5ページにわたりトニー自身の口から語られていた。
「トニー…」
溢れた涙が次々と雑誌の上に零れ落ちる。
(こんなにも彼は私のことを愛してくれているのに、どうして私はあの時彼の言葉を信じられなかったの?)
「ごめんなさい、トニー…」
前髪を掻き上げ額にキスをすると、トニーがゆっくりと目を開いた。
「トニー?」
何度か瞬きをしたトニーは、ペッパーに気付くと嬉しそうに目尻を下げた。
「…ぺっ…ぱー…」
伸ばされた手を握りしめたギュッと握ると、トニーの目から涙が零れ落ちた。
「戻ってきて…くれた…。すまなかった……」
頬を伝わる涙を拭ったペッパーは、トニーの手の甲に何度もキスをした。
「ごめんなさい。あなたのこと信じなくて…ごめんなさい…。あんな記事信じるなんて…本当に馬鹿だったわ…。私、あなたに世界一愛されているって分かって いるのに、心の何処かでずっと昔のことが引っかかっていたのかもしれないわ…。でも、もう二度と、あなたの言葉を疑わないわ…。あなたのことだけを信じる…。愛してる…。だから許して…」
涙の流れるペッパーの頬にそっと触れたトニーは、目を細めた。そして彼女が手に持っている雑誌に気付いた。
「これ、読んだわ。ありがとう、トニー。私の事をこんなにも大切に思ってくれて…。ありがとう…」
照れ臭そうに瞬きをしてトニーは口の端を上げた。
「君のこと…道具だと…一度だって…思ったことない…。出会った頃から…一人の女性として…愛してる…尊敬してる…。傷付けて…すまない…。ペッパー……愛してる…」
大きく息を吸い込んだトニーは酸素マスクを取ると唇を指差した。
「あら?キスして欲しいの?」
荒い息をしているのに、トニーは満面の笑みを浮かべ頷いた。
「元気になったらいくらでもしてあげる…だから今日はこれだけよ…」
唇に触れる程度の優しいキスをしたペッパー。その唇は甘く柔らかく、この二日間喧嘩離れしていた二人の心を再び寄り添わせてくれた。
***
トニペパ夫婦喧嘩