翌朝、マリブのスターク邸に入ったハッピーは思わず顔を顰めた。部屋は薄暗く、酒の匂いが充満している。そしてリビングには破壊された物が散乱しており、ハッピーは昨日の時点で来ていればよかったと唇を噛みしめた。
ラボにも寝室にもトニーの姿はない。キッチンへ向かったハッピーだが、その惨劇を見ると、ペッパーに殺される…と頭を抱えた。
トニーは酒のボトルとグラスの破片の散財するキッチンの片隅で、膝を抱え座り込んでいた。
この光景は幾度となく見てきた。信じていた人間に裏切られた時、今度こそ幸せになれるかと思っていた女性と別れた時…。だが、これほどまでに荒れるトニーを見るのは初めてだった。
ハッピーが近づくと、トニーは涙でぐちゃぐちゃになった顔を向けた。虚ろな目でハッピーを見上げたトニーは、残っていた酒を飲み干すと、空になったボトルを投げ捨てた。
「ペッパーは…出て行った…。話すこともないと言われた…。連絡もするなと言われた…。なぁ、ハッピー…。どうしてみんないなくなるんだ?何があってもそばにいると約束したんだぞ?それなのに…どうして…」
大粒の涙がトニーの目から零れ落ちた。膝を抱えたトニーの背中は震えている。
一見強そうなトニーだが、実は弱く脆い。子供の様な面のあるトニーが心から信頼しているのがペッパーだ。ペッパーは愛情に飢えていたトニーに無償の愛を与えてくれ、トニーの心の拠り所となっている。だがその存在を失いかけている今、トニーが崩壊するのは時間の問題だ。
(このままではトニーは自滅する…)
長年そばにいる勘だろうか、今までとは違うと直感的に感じたハッピーは、トニーの横に座ると肩を抱き寄せた。
「ボス……。いや、トニー。ペッパーはあんたのことを見捨てたりしない。彼女はあんたを心の底から愛しているんだから…。実は昨夜連絡があったんだ。トニーが心配だから様子を見ていて欲しいと…。彼女は何があってもあんたのことを裏切ったりしない。だからきちんと話をしろ。彼女はNYにいる。迎えに行って来い」
ハッピーの言葉に、彼を見上げたトニーは涙を拭うと小さく頷いた。
ところが、事態は急変した。
夕方になり、空港に向かおうと愛車に乗り込んだトニーの元に一通のメールが届いた。
『大事な物を預かっている。返して欲しければ一人で来い。場所は…』
メールを見たトニーは顔色を変えると車を発進させた。
指定された場所は、市内のとある公園だった。夕暮れ時で人通りも少ない公園の奥まった場所へやって来たトニーは、イライラと辺りを見渡した。
そこへ現れたのは、今回の犯人であるエミリー。
「久しぶりね、トニー。会いたかったわ」
木々の影となっている場所に立つエミリーは、トニーの位置からは見えず、彼女がどんな表情をしているのかトニーには分からなかった。
「妻と娘はどこだ!」
怒鳴るトニーにエミリーは笑い声を上げた。
「いないわ。あれは嘘。そうでも言わなければ、あなたと二人きりで会えないでしょ?」
やはり嘘かと唇を噛みしめたトニーだったが、これ以上彼女を野放しに出来ない、早く捕まえてペッパーたちを迎えに行きたい…その一心だった。
「自首しろ。今なら重い罪にはならない。それに、君の目的は私だろ?話は聞こう、警察で」
手を差し出し一歩前へ進んだトニーだったが、エミリーはケタケタと嫌な笑い声を上げた。
「いいの?あなたの奥さんと娘のいる場所は知ってるわ。仲間が見張ってるの。そうそう、あなたが私と一緒に来なければ、二人を殺すことになってるのよね」
やはりこの女の目的は自分。だが、例えペッパーたちの命を守るためといえども、ここで彼女を選べば、二度とペッパーとエストには会えない…。
ゴクリと唾を飲み込んだトニーは、努めて冷静な声で言った。
「君のことは選べない。今、大切なのは妻と娘だ。妻と娘に指一本でも触れてみろ。私は君をとことん追い詰める。二人のことは私が命をかけて守る」
力強い言葉と瞳。共に20年前のトニーには見られなかった物。噂通りトニー・スタークは変わってしまったと、エミリーは大げさにため息を付いた。
「昔はそんなに熱かったかしら?でも、仕方ないわね。この手は使いたくなかったんだけど…」
と言いながら、エミリーはコートの懐に手を突っ込んだ。
「トニー、この世で結ばれないなら、こうするしかないわ。死んでくれる?あなたが死んだら私も死ぬから」
懐から何かを取り出したエミリー。暗がりでは何か分からないそれの正体に気付いた時には遅かった。
鋭い痛みがトニーの身体を突き抜けた。
最初は腹、次は胸……。何回目かの衝撃の頃には、トニーは痛みすらも感じなくなっていた。
喉奥からせり上がって来たものが、口の中いっぱいに広がった。ゴホっと咳き込み鮮血を吐き出したトニーは、膝から地面に崩れ落ちた。
地面に倒れこみ動かないトニーの首元に触れたエミリーは小さく笑った。微かに脈打っているが、辺り一面血の海なのだから、命が潰えるのも時間の問題だ。じわじわと苦しみながら、そして孤独にトニーは死を迎える。そして彼が死を迎えた時、あの女は酷く後悔するだろう。彼を孤独に死なせてしまったことに…。
屈みこんだエミリーはトニーの耳元で囁いた。
「安心して?あなたが死んだと確認したら、私もあなたのそばに行くから…。それから、あなたが死んだら奥さんと娘さんには手を出さないわ」
トニーの頭にキスをしたエミリーは、足早にその場を立ち去った。
辺りはすっかり暗くなり、猫の子一匹いない。
地面を這い、近くのベンチに何とか横になったトニーは、ポケットから携帯を取り出した。
救急車を呼ぶべきなのだろうが、トニーの脳裏にはペッパーとエストの姿しか思い浮かばなかった。
震える手で番号を押したトニーは、潰えそうな意識を必死で手繰り寄せ、電話を耳元に当てた。
(ぺっぱ…たのむ…でてくれ…)
だが、トニーの願いも空しく、ペッパーは出なかった。留守番電話の機械的なアナウンスが聞こえ、やっとの思いで一言吹き込んだトニーは、大きく息を吐くと目を閉じた。
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トニーはペッパーなしでは生きられませんからね…