「大丈夫か…」
トイレに座り込んで早30分。
私に出来ることと言えば、立ち上がる気配のない彼女の背中をさすることくらいだ。
ペッパーの妊娠が分かったのはつい先日。それと同時に彼女を襲ったのは、いわゆる「つわり」。
彼女の場合は相当酷いらしく、3ヶ月目に入った頃にはつわりはピークに達していた。
食欲もほとんどなく、寝込むことも多くなった。もちろん仕事は休業中。以前は彼女が先に帰宅していると、必ず笑顔で出迎えてくれていたが、最近はリビングのソファーの上で横になっているか、トイレにこもっているかのどちらかだ。
青白い顔をしている彼女を見るのは痛々しく、彼女が欲しいと言ったものは何でも買ってくるが、口に入れるとすぐにもどしてしまう。それでも、お腹の子のために栄養をつけなきゃ!と無理に食べているようなのだが…。
今日も季節外れのイチゴが…アレルギーだと決して口にしなかったはずなのに…食べたいと電話かあったので、街中探し回って買って帰ったのだが…。
「トニー…せっかく買ってきてくれたのに…ごめんね…」
青い顔をし、涙を浮かべる彼女を後ろから抱きしめる。ここ数週間、忙しくほとんどかまってやれなかったんだが…。何時の間にこんなに細くなってしまったんだろう…。
社内でもペッパーのことは皆気になっているらしく、「奥様、大丈夫ですか?」とよく聞かれるが、出産経験豊富な女性陣から「社長、奥様のそばにいてあげて下さいね。つわりって辛いんですよ。精神的にも不安定な時期ですから…」とアドバイスされたことを思い出した。
「いいんだ、ペッパー。それよりも何か欲しいものとか、やりたいことあるか?何でも言ってくれ。私にはそれくらいしかできないから…」
***
トニーは優しい。前から優しいけど、つわりで苦しむ私を忙しいのに彼なりに精一杯サポートしてくれる。
一度、
「私ばかり辛くて…もういや!」
と彼に泣いて当たり散らしたことがあった。今思えば彼に当たるなんて間違っている。
だけど彼は困った顔をしながらも
「君だけに辛い思いをさせてすまない。できることなら変わってやりたいんだが…」
と、一晩中私を抱きしめてくれた。
彼がそばにいてくれると、心が休まる…。でもここ最近、仕事とヒーロー活動で忙しく、すれ違いが多かったからか、私の気持ちも乱れ気味…。とにかく四六時中そばにいて抱きしめて欲しかった。彼にはやるべき仕事があるのは分かっている…。
でも…。
さっきからずっと私を抱きしめてくれている腕をそっと掴む。
「…ずっと…ずっとそばにいてくれる?」
私はずるい。この状況でお願いしたら、彼はイヤと言わないはず…。
案の定、彼から出た言葉は…
「あぁ、君が望むだけ…いくらでもそばにいるよ…」
その夜、彼に抱きしめられて眠った私は、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。
その日から、彼は定時には必ず帰宅し、出張にもほとんど行かなくなった。ヒーローとしての活動はやむを得ないけれど…それでも以前よりもずっと早く帰宅するようになった。料理のにおいですらダメな私の代わりに食事も一生懸命作ってくれるし、家事も進んで手伝ってくれた。夜は私が眠るまでずっと抱きしめてくれ、そして朝私が目覚めると目の前にいて「おはよう」とキスをしてくれた。
そんな生活が2週間ほど続き、もうすぐ4ヶ月目に入ろうとした頃。
私もだいぶ精神的に落ち着いたのか、食欲も戻ってきた。そして自分が落ち着いたおかげで、彼に心配りする余裕も出てきた。
そんなある日、目を覚ますと珍しく隣に彼はいなかった。
キッチンへ向かうと、一足先に起きていた彼がコーヒーを飲みながら新聞を広げていた。
「おはよう、ハニー。気分はどうだ?」
「おはよう、トニー。今日は大丈夫みたい」
彼の前には食べかけのトースト1枚。しかもほとんど食べてない。
「トニー、何か作るわ…リクエストある?」
「いや、ペッパー。もう行かないと…」
コーヒーを流し込み立ち上がった彼に、いってらっしゃい…とキスをする。
久しぶりに落ち着いて彼の顔を見た気がするけど、彼は目の下に隈を作り顔色も悪い。
「トニー、大丈夫?」
顔を覗き込んで言うと、
「大丈夫だ。行ってくるよ…」
そう言うと、彼は私のお腹を撫でキスをすると、玄関へと向かった。
つわりがひどくて料理のにおいすらダメだったけど、今日は大丈夫そう。
彼も疲れているみたいだし、彼の大好きな料理を作ってお昼に差し入れしよう…。
1ヶ月ぶりに会社に足を運んだ私をみんな歓迎してくれた。
彼のいる社長室を覗くと、会議中なのだろうか、部屋にはいなかった。ただ、いつもキレイに片付いている机の上は書類の山。その山の中に、育児書が数冊混ざっているのを見つけた私は嬉しくなり、なぜそんなに書類が散乱しているのかまでは気が回らなかった。
結婚後、副社長になった私だけど彼の秘書も兼任している。それは彼のことを他の女性に任せたくないという思いもあるのだけど…。
彼のスケジュールを把握するため秘書室に向かうと、同僚が歓迎してくれた。
「ペッパー!大丈夫なの?つわりがひどくて、起き上がれないって聞いたけど…」
「うん、だいぶ落ち着いてきたから…。今日は彼にお弁当持ってきたの」
「ちゃんと奥さんしてるのね!」
「それより、すっかりママの顔ね~」
「そうそう、社長が…あのトニー・スタークもすっかりパパの顔なのよ!社内じゃあなたたち2人の話でもちきりよ」
1ヶ月ぶりに会った同僚との会話は弾む一方。
そんな中、
「それより、社長、最近相当無理しているみたいだけど…大丈夫?」
私が不在の間、彼の秘書を務めてくれている同僚の言葉に思わず耳を疑った。
「え?無理って?」
「あ…!ううん、ゴメン。今のは忘れて…」
そう言うなり黙り込んでしまった同僚たち。
「何?どうしたの?」
急に彼の話が出て、それもいい話ではなさそう…。声を震わせた私に彼女たちは慌てた。
「違うわよ、何でもないわよ。」
「そうそう。あなた、ご主人に相当愛されているってことよ」
目を合わさない彼女たちの様子に違和感を覚え、問いただそうとしたその時、1本の電話がかかってきた。
「はい、秘書し…え?!社長が?!分かりました。ちょうど奥様が来られているんです!すぐに向かいます」
電話を受けた同僚が青い顔をして私の方を向いた。
「ペッパー、落ち着いて聞いてね…あのね…社長が…ご主人が倒れて、病院へ運ばれたの…」
会議中、気分が悪いと立ち上がった瞬間、意識を失い倒れたトニーは、すぐに病院に運ばれた。
過労だった。
病院へ向かう間、同僚がこの2週間の彼の様子を話してくれた。
来週、大規模な展示会が控えているにもかかわらず、定時前に帰宅するために、出勤してから退社するまでの時間全てを会議や打ち合わせ、その他の業務につぎ込み、出張は日帰り(ありがたいと言うべきか…彼にはアーマーがある)。
実は家にも仕事を持ち帰り、私が眠っている間に片付け、朝になって私が起きる頃、一晩中そこにいたようにそっと私の横に戻ってきていたみたい。そしてその間には、アイアンマンとしての仕事も…。
つまり、この2週間、彼は食事も睡眠もろくに取っていなかったのだ。
彼の無茶は全て私のため…。
「ダメなママね…。ゴメンね、大事なパパをこんな目に合わせて…」
お腹に向かって話しかけると、隣にいた同僚がそっと手を握りしめてくれた。
「トニー!」
病室に駆け込むと、青い顔をした彼は、腕に点滴を受けながら、寝転んで天井をぼーっと見ていた。
「ペッパー!」
突然の私の登場に驚いたトニーは慌てて起き上がり、胸に飛び込んだ私を受け止めた。
「おい、ペッパーには絶対に知らせるなと言ったろ?」
私を抱きしめながらも、後ろに控えていた同僚を軽く睨んだ。
「申し訳ありません、社長…ちょうど…」
「彼女が悪いんじゃないの!私が偶然会社にいたのよ。それで…」
同僚の声を遮るように言うと、彼は眉毛をつりあげた。
「偶然?」
「今日は気分も良かったし、あなた疲れているみたいだったから、お弁当を作ったの。会社に持って行ったら、あなたが突然倒れたって聞いて…」
「みんな大袈裟なんだ…眩暈がして少し気を失っていただけなんだ…」
苦笑しながら私の頭を撫でているが、やはり顔色は悪い。
「トニー…ごめんなさい…あなたにばかり無理させてごめんなさい…。私、自分のことしか考えてなかった…」
こんな時でも決して私のせいにしないトニーの優しさに涙が溢れ出て、やがて私は子供みたいに大きな声をあげて泣いてしまった。
ただ泣くだけの私の背中をトニーは優しく撫でながら、狼狽える同僚にウインクして言った。
「妊婦だから、精神的に不安定なんだよ…」
いつまでも泣き止まない私を彼はギュッと抱きしめた。
「おい、泣くな。それより君の手料理はどこだ?私に食べさせてくれないのか?」
しゃくりあげる私のおでこにキスをすると、子供をあやすように顔を覗き込んで頭をポンっと軽く叩いた。
「ゴメンなさい…慌ててたから…会社に忘れてきちゃったの…」
そう言うなりまた泣き出した私をトニーは抱きしめながら
「残念だな…君の手料理も食べたいんだが…。そうだな、体調がいいようなら、気分転換にどこか食事に行かないか?」
と言い出した。
「でも、仕事は?」
彼は私の頬を伝う涙を拭き
「おい、ペッパー。私は働きすぎて倒れたんだぞ。それなのにまだ働かせる気か?今日くらいはゆっくり休ませてくれてもいいだろ?」
と苦笑い。
「ということだ。今日の仕事は…」
トニーがドア付近にいる同僚に声をかけると
「もちろん全てキャンセルしています、社長。退院許可も取ってきますね…。ペッパーのこと、お願いします…。」
同僚は嬉しそうに部屋から出て行った。
病室に2人きりとなると
「さて、どこに行こうか?君はずっと家にこもっていたから久しぶりに映画でも行くか?それともベビー用品を買いに行くのもいいな?美味いディナーを食べて…明日からまた頑張ろうな…」
トニーは優しく何度もキスをしてくれた。
「ありがとう…トニー」
背中に手を回しぎゅっと抱きつくと、彼は
「言っただろ?私にはこれくらいしかできないからな…それに正直、私もかなりペッパー不足なんだ…今夜は甘えさせてくれよ、ハニー」
真っ赤になって彼の胸に顔をうずめた私の頭に何度もキスをした…。
ペッパー妊娠三か月。