こうして、トニー・スターク誘拐監禁事件は容疑者アルドリッチ・キリアン死亡によって幕を閉じたのだった。病院での出 来事とキリアンがトニーにしたことはうやむやにされ、キリアンの動機も『化学兵器の開発をトニー・スタークに強要するため』と発表されたため、マスコミも 余計な詮索をすることなく、トニーとペッパーの周りには、久しぶりに穏やかな日々が続いていた。
ローディが二人の元を訪ねて来たのは、あの事件から数日たった頃だった。自宅療養中と称して、ペッパーとのんびり過ごしていたトニーは、ローディが持ってきた資料を見ると目を輝かせた。
「A.I.M.で押収した資料だ。あのエクストリミスの件は極秘事項になっているから、持ち出すのは大変だったんだぞ?お前の問題の解決の糸口になればと思って…」
「ありがとう、ローディ。これがあれば何とかできるかもしれない」
というわけで、ここ数日トニーはラボにこもっているのだが、邪魔をしては悪いかとペッパーはラボに近づかないようにしていた。だが、食事の時以外は出てこようとしない夫の様子がさすがに気になって、彼の大好物のドーナツを作るとラボへ足を運んだ。
いくつものスクリーンの前に座り込んだトニーは、忙しそうに資料をめくっている。
「何か分かった?」
背後からそっと抱きつき首筋にキスをすると、向きを変えたトニーはペッパーを膝の上に座らせた。
「エクストリミスの原理を解析したんだが、解毒剤が出来そうだ」
「本当?さすがスターク先生ね」
久しぶりに聞く『先生』という言葉に、照れたように頬を掻いたトニーは、ドーナツを摘まむと頬張った。
「俺は天才だからな。それはそうと、このドーナツ美味いな。わざわざ俺のために作ってくれたのか、ポッツ君?」
かじりかけのドーナツを小さく千切り、ペッパーの口に放り込んだトニーは、口の端に付いた砂糖をペロリと舐めた。
「そうよ。私って料理が得意なの。大好きなスターク先生のために作ったお手製のドーナツよ」
クスッと笑ったペッパーは、まだドーナツの香りが残る甘い唇を合わせた。トニーの舌がペッパーの唇の隙間から口腔内に侵入したのを合図に、ペッパーは腕を トニーの首元に巻きつけた。舌を絡めるようなキスを繰り返していたトニーが、ペッパーのシャツの裾から手を忍ばせようとした時だ。
『トニー様、お客様です』
ジャーヴィスの来客を告げる声がラボに響き渡った。
「客が来る予定はあったか?」
良いところを邪魔され不機嫌そうに唸るトニーの膝から降りたペッパーは、慌てて身だしなみを整えた。
二人で手を繋ぎリビングへ向かうと、一人の女性の姿があった。女性が誰か気づいたトニーは、顔を曇らせた。
「マヤ…」
トニーの言葉で、目の前の女性があの写真に写っていた女性と分かったペッパーも顔を強張らせた。
二人の顔に緊張か走ったのを見たマヤは、深々と頭を下げた。
「トニー、突然押しかけてごめんなさい。それと、あなたにしたこと…許されることではない…。私があなたに会いにくるのもお門違いだと分かってる…」
トニーは黙ったまま、マヤにソファーに座るように促した。隣に座ったペッパーの肩を抱き寄せたトニーをチラリと見たマヤは、今度はペッパーの方を向くと再び頭を下げた。
「それから、ミセス・スターク。ご主人にあんなことをしてしまって、本当に申し訳なく思ってます。ご主人だけではなく、あなたも苦しめてしまい…。謝ってすむことではないのは分かってます…。でも…本当にすみませんでした」
膝の上で握ったマヤの拳は小さく震えており、マヤの謝罪は心からの言葉と感じたペッパーは、あの写真の送り主が目の前の女性であると確信した。
「あの写真を送ってきたのは…あなたでしょ?あの写真で、トニーの居場所が分かったんです。もし、あれがなければ…彼は……」
『殺されていた』という言葉が言えず黙ってしまったペッパーの背中をトニーは優しく撫でた。
大きく息を吸い込んだマヤは、
「おそらくあなたを誘い出す餌としてキリアンに利用され、その後殺されていたわ」
と言うと、長い話だけど…と前置きし、今までの経緯を話し始めた。
「キリアンとはスイスの会議で出会ったの。私の研究は、トニーも知っていると思うけど、エクストリミスと言って、DNAを置き換えるウイルスよ。あと一歩のところまで完成してたんだけど、資金不足で今後どうしようか悩んでたの。そんな私にキリアンは出資するから自分の研究機関で働いてくれと言ってきたわ。 条件は良かったから、私はすぐにその話に乗ったわ。今考えれば、それが間違いだったんだけど…。キリアンはエクストリミスを人間に活用したいと言ってきた。不慮の事故で身体の一部を無くした人たちの役に立ちたいと…。そこで数人にエクストリミスを投与した。見事成功したわ。でも、エクストリミスは未完成 だった。身体が耐えきれずに、何人もの人が爆発してしまったの…。キリアンの狙いは、エクストリミスを完成させて軍に売り込むことだったの。未完成の物を 売り込むわけにはいかないと、私は反対したわ。でも、キリアンは私を脅してきた。大切な物を盾に…。すぐに完成させないと殺すと彼は言ったわ。その時、あなたを思い出したの。学生の時、私の研究に大きなヒントを与え続けてくれたあなたを…。だから私は彼に言ったわ。完成させるにはトニー・スタークの協力が必要だってね。あなたの名前を聞いて、彼はいいことを思いついたと言った。
彼はミセス・スタークを人質に取って、トニーを従わせようと言ったわ。でも実際は、エクストリミスを完成させたら、トニーを兵器として利用して殺して…ミセス・スターク、あなたを自分のものにするつもりだった。キリアンは私を捌け口にしていたの…。あいつに抱かれた後、そのことを聞いて私は愕然としたわ。
そうこうしているうちに、あいつはトニーを連れてきた。そして私に言ったの。『昔の男だろ?そうだ、こいつと寝ろ。その映像をヴァージニアに見せれば、彼女はこいつが裏切ったと分かるだろ?そうすれば、容易く彼女を手に入れることができる』って…。もちろん私は拒否したわ。今さらあなたたちの幸せを壊したくなかったから。でも、トニーと寝なければ、私の大切な物を壊すとあいつは言ったの。あなたたちが結婚して、そしてトニーが幸せに暮らしていることは知っていた。でも、私にはどうすることもできなかった。だから、トニーと寝たふりをしようって思ったの。だけどあいつはビデオカメラを用意して…自分の目の前でヤレって…。ごめんなさい…私は言うことを聞かざるを得なかった…。嫌がるあなたに幻覚剤を与えて、私のことをミセス・スタークと思い込ませたの。無理矢理だったけど…愛なんてないことは分かっていたけど…久しぶりにあなたに抱かれて…思い出したの。あの楽しかった時を…」
一瞬遠い目をしたマヤだったが、目を伏せたままのトニーを見つめると再び話し始めた。
「でも、トニー、あなたは私を抱いていても、奥さんの名前ばかり言っていた。あなたの目に私は映っていなかった…。その時気づいたの。いくら私があなたの昔のオンナだとしても、あなたたち二人の間は誰も引き裂けないって…。
あの写真を送れば、トニーが裏切ったことが分かるとキリアンに言ったのは私よ。キリアンに気付かれないように、ミセス・スタークへの秘密のメッセージを入れてね」
ダミーが運んできた紅茶を啜ったマヤは、良い香りね…と微笑んだ。
マヤも本心ではなかったのだ。彼女もまたキリアンに利用されていたのだ…。だから、彼女なりにトニーを救おうとしてくれていた…。目の前の女性もまた被害者だと思ったペッパーは、目を潤ませた。
「それでトニーの居場所が分かるような写真を送ってきたのね…」
「気がつかなければ、彼を逃がすつもりだったけど…」
微かに笑ったマヤは、トニーを真っ直ぐ見つめた。
「償いをさせて。あなたたち夫婦を苦しめたんだから、いくら償ってもダメだと分かってるけど…。解毒剤を作るんでしょ?手伝うわ」
「だが…」
言葉を濁したトニーに、マヤは懇願するように頭を下げた。
「トニー。私がエクストリミスを作ったの。残っていたエクストリミスは全て破壊した。後はあなただけ。解毒剤を作るのも私の仕事よ。お願い…最後まで見届けさせて?」
開発者である彼女の助けがあるのはありがたい。だが、いくら利用されていたとはいえ、自分と関係のあった女性なのだ。ペッパーの気持ちを考えると、自分一人では決められない…。
チラリとペッパーを見たトニーだが、にっこりと微笑んだ彼女は小さく頷いた。
(ペッパーはすごい…。俺が思いもしないことに気づくし、何より俺のことを俺自身よりも理解しているのだから…)
ペッパーの手をそっと握りしめたトニーは、マヤを真っ直ぐに見つめた。
「分かった…。俺からも頼む。協力してくれ」
翌日から、マヤはトニーと協力し、解毒剤を作っていった。元々気心のしれた二人、作業は着々と進み、あっという間に解毒剤は完成した。
いよいよトニーに解毒剤を投与するという前日。トニーはずっと気になっていたことをマヤに尋ねた。
「ところで、君もあいつに脅されていたんだろ?君の言う大切な物とは…」
マヤは顔を一瞬強張らせたが、手元の資料を見ていたトニーは気づくことがなかった。
「息子がいるの」
マヤの言葉に顔を上げたトニーは目を丸くした。
「安心して、あなたの子供じゃないわ。スイスに一緒に行った男性との子供よ…」
ホッとした表情のトニーだが、マヤは顔を背けて話し始めた。
「彼とは別れたの。息子が生まれてすぐにね…。今は別の男性と結婚したの。彼は息子のことも本当の子供のように可愛がってくれているわ」
カバンから何かを取り出したマヤは、それをトニーに渡した。
「この子よ…。隣に写っているのが主人…」
手渡されたのは一枚の写真。そして写真には一人の男性とかわいらしい男の子が写っていた。
「君に似てるな」
大きな目をした漆黒の髪の少年は、マヤにそっくりだった。
「そうかしら?頭の回転が良くて、昔からイタズラばかりしてるのよ。でもね、ユーモアに富んでいて…優しくて思いやりのあるいい子なの…。父親に似たのかしら…」
愛おしそうに写真を撫でるマヤは、母親の顔をしており、トニーは眩しそうに見つめた。
「無事だったんだろ?」
「えぇ…。キリアンに捕まっていたけど、あなたがあいつを倒してくれた。今はスイスに戻ってるわ…」
「そうか…」
じっと写真を見つめるマヤに、トニーはなぜあの時自分を捨ててスイスに行ったのか聞いてみようかと思った。だが、自分も彼女も今、別の相手と幸せに暮らしているのだから、あの時の決断は間違いではなかったんだ…と思い直し、再び手元の資料を読み始めたのだった。
数日後、LAの空港にはトニーとマヤの姿があった。
完成した解毒剤のおかけで、トニーは元に戻ることができ、それを見届けたマヤはスイスへ帰ることになったのだ。
話すべきことはあるのだろうが、二人は黙ったまま搭乗ゲートへ向かった。
10年前、トニーに別れも告げずスイスへ旅立った理由を話そうかずっと迷っていたマヤだったが、ペッパーと幸せに暮らしているトニーには言えるはずはなかった。それに、トニーへの思いを断ち切ったのは自分であり、あの時とっくに捨てたのだから…。
頭を振ったマヤは、トニーに向き合うと手を差し出した。
「トニー、二度と会うことはないけど…元気でね。奥さんを大切にしてあげて」
差し出された手を握ったトニーもいろいろと思うところはあったが、それを隠すように笑顔を向けた。
「あぁ。マヤ、いろいろありがとう。君こそ元気で…」
そしてマヤは二度と振り返ることなく、スイスへと帰って行った。
しばらくして振り返ると、トニーの姿はなかった。携帯を取り出したマヤは、彼女の一番大切な人へ電話を掛け始めた。数回のコールの後、電話口からは愛しい声が聞こえてきた。ますます父親に似てき始めたその声に、マヤは目を細めた。
「ママよ。どう?調子は?…え?ママは大丈夫!心配しないで?パパの言うことをちゃんと聞いてる?もうすぐ帰るわ。ママもあなたに早く会いたい…。…えぇ、ママも愛してるわ、エドワード…」
電話を切ったマヤは、彼女の心の片隅で永遠に生き続ける最愛の男性の顔を思い出していた。
(ねぇ、トニー。あなたは私に大切な物を与えてくれたわ…。あの時あなたにあげられなかった物を…今度は私があの子に伝えるから…)