Day 5 8/7 : missing scenes (5 years mid-endgame)

仲間に…かつての言ってもいいのかもしれないが、トニーが彼らに怒りをぶつけるのを、ペッパーは部屋の隅にある病室から黙って見守った。
22日間、宇宙を漂流していたトニーは見る影のないほど痩せ細っていた。そのトニーの全身からは、怒りと苦しみ、悲しみ、そして絶望が滲み出ているのに、ローディ以外は誰一人としてそれを受け止めようとしていなかった。
と、トニーがふらついた。そしてその場に座り込んだトニーは、バッタリと倒れてしまった。
慌てて駆け寄ろうとしたペッパーだが、それより先に、トニーを宇宙から連れ戻してくれた女性がトニーを抱き上げた。そして先導するローディの後をついて、トニーをペッパーの元へと連れてきてくれた。
ベッドの上にトニーを寝かせた女性は、ペッパーに向かって頷くと、再び先ほどの議論の場所へと戻って行った。
医師と看護師がトニーに点滴を付けた。鎮静剤を打たれたトニーは眠り始めたが、ペッパーはトニーの手を握りしめた。
「お願いだから…トニーのこと…そっとしておいてくれる?」
トニーのサングラスを外したローディに、ペッパーは告げた。その目には、怒りと悲しみが滲み出ており、ローディは黙って頷いた。
「ペッパー…」
入れ替わるように入ってきたブルースが、ペッパーの傍らに立った。彼はトニーを心配そうに見つめるとモニターを見た。そして波形が安定してきたのを見届けた彼は、安心したように息を吐いた。
部屋の向こうでは、他のメンバーが話し込んでいる。
「…行かなくていいの?」
黙ったまま佇んでいるブルースに尋ねると、彼はペッパーの肩にそっと手を置いた。
「友人が苦しんでいるんだ。放っておける訳ないだろ?」
ブルースの手の温かさに、ペッパーの目から小さな涙が零れ落ちた。

何事か話していた彼らは、暫くするとローディを残し部屋を出て行った。
「一応伝えておく。サノスの居場所が分かったから、今から行ってくる」
ペッパーにそう告げたローディだが、トニーだけを見つめているペッパーは何も言わなかった。そんな2人を残し、ローディとブルースは部屋を後にした。

トニーは眠り続けた。そしてペッパーはトニーにずっと付き添った。
精神的にも肉体的にもトニーは極限まで追い詰められている。それなのに…どうしてあんなことを…こんな状態のトニーに言えるのだろうか…。

ヒーローだから?
それとも昔から彼は責任を押し付けられているから?

悔しかった。
トニーのことを誰一人として…いや、ローディとブルース以外は誰一人として労ってくれなかった。
悔しくて悲しくて、ペッパーは涙が止まらなかった。

「ハニー……」
か細い声に顔を上げると、目を覚ましたトニーが苦しそうに顔を歪めていた。
涙を拭ったペッパーは無精髭の生えた頬を優しく撫でた。
「気分はどう?」
小さく唸ったトニーは何度か首を振った。そして手を伸ばすとペッパーの涙を拭った。
「ペッパー…泣かないでくれ…」
トニーの手の温かさに…そして自分が一番辛いはずなのに労ってくれる優しさに、ペッパーは涙が止まらなかった。
トニーが腕を伸ばした。そしてペッパーを抱き寄せた。トニーの胸元に顔を押し付けたペッパーは、彼の胸の中で泣き続けた。

***

翌日。まだふらついているトニーを車椅子に乗せ、ペッパーは自宅へと戻った。
あの場所にはいたくなかった。トニーを彼らと会わせたくなかった。トニーをこれ以上傷つけさせたくなかったから…。
寝室のベッドにトニーを寝かせたペッパーは、トニーが眠り始めたのを確認すると、彼の好物を作り始めた。

暫くして、寝室から悲痛な叫び声が聞こえた。慌てて向かうと、ベッドの上に起き上がったトニーが震えていた。頭を抱えこんだトニーは、泣きながら震えていた。
「トニー…大丈夫…。大丈夫よ…。私がいるわ…」
身体を抱き寄せると、トニーはペッパーにしがみついた。

トニーの心はどうしようもない程傷つき壊れかけている。今、トニーを支えられるのは自分だけ…。
そのため、ペッパーは彼をそばで支えるため、極力家で仕事をした。SIも社員の半分以上が消え、CEOとしてやるべきことは山のようにあった。だが、トニーのことを放ってはおけなかった。精神的にも肉体的にも追い詰められているトニーを、誰もいない家に一人残しておくことなんか出来なかった。

ペッパーは献身的にトニーを支えた。
彼が必要としている時は、ずっと側に寄り添った。早くトニーには元気になってもらいたかったから…。少しずつ前を向いて歩いて欲しかったから…。
ペッパーの愛に包まれ、トニーは少しずつ回復していった。
体重も元に戻り、生気が出てきた。
悲しみと苦しみしかなかった瞳には、希望の色も見え始めた。

ペッパーだけは、いつも自分を信じ、支え、そして愛してくれる…。
今のように眠れない夜でも、ペッパーの温もりを感じるだけで、心が安らいだ。
『生き残ったのには理由がある』
トニーは遠い昔、彼女にそう告げたことを思い出した。魔法使いが石を差し出してまで救ってくれた命…。自分にしか出来ない…やらなけらばならないことがあるのかもしれない。
だが、今は何も考えたくなかった。
もうあの場所には戻りたくなかった。
いつかは戻らねばならないのかもしれないが…出来るなら遠ざけておきたい…。

胸が苦しくなってきた。
何度も深呼吸をしたトニーは、腕の中で眠っているペッパーを見つめた。
そして決めた。
助けられた命…だからこそ、2度目の人生を全うしよう…。
誰にも邪魔させない…。ペッパーと2人で…これからは生きていくんだから…。

***

人が消え静まり返った街中では、否応が無しにあの出来事を思い出してしまうと考えたペッパーは、数日後トニーに提案した。
「ねぇ、トニー。もっと静かな場所に行かない?湖畔にいい家があるんだけど…」
トニーは目をパチクリさせている。一体どういう風の吹き回しかと瞬きしたトニーに、ペッパーは微笑んだ。
「ここだと落ち着かないでしょ?あなたが元気になるには、もっと静かな場所でゆっくりした方がいいかと思って…」
ペッパーの言葉にトニーは目を潤ませた。
最愛の女性は、本当に自分のことを考えてくれている…。そう感じたトニーは、小さく頷いた。
「ありがとう…ペッパー…」
トニーはペッパーを抱きしめると首筋にキスをした。

こうしてトニーとペッパーは街はずれの湖畔の家に移り住むことにした。
ペッパーのためにトニーは家を改装した。エコロジカルな家にしようと、色々備え付けた。料理好きなペッパーのために、大きなキッチンを作った。オーガニックの野菜を育てるための畑も作った。今までの家とは違い、そこは自然に近い普通の家だったが、のんびりとした風景は、2人の心に平穏をもたらした。

1ヶ月後。
ようやく体力も回復したトニーは、ペッパーと結婚式を挙げた。
湖畔の家で挙げた小さな結婚式。ハッピーとローディだけを呼んだ式だったが、2人は幸せだった。
誓いを立てた2人の左指にはお揃いの指輪が光っていた。夫婦の証を嬉しそうに見つめたペッパーは、トニーの指に自分の指を絡ませた。絶対に何があっても離さないというように、お互いの手を硬く握り合った2人は、キスを繰り返した。

***

結婚式から1月ほど経ったある日。
ペッパーのためにデッキでリクライニングチェアを作っていたトニーは、妻に呼ばれ振り返った。恥ずかしそうに目を瞬かせたペッパーは、トニーに向かって何かを差し出した。妻が差し出したのは妊娠検査薬だった。つまり…。
目を見開いたトニーに向かって、ペッパーは微笑んだ。
「妊娠したの」
トニーは黙ったままペッパーを抱きしめた。

夢がまた一つ叶った…。
いつからだろうか…。ずっと夢見てきた家族が…ようやく手に入れた家族がまた一人増えるのだ。

トニーの目から涙が零れ落ちた。ポタポタと止まることのない涙は、ペッパーの肩に降り注いだ。トニーが小さく震え出した。
「ペッパー……ありがとう…ありがとう…」
トニーは感謝の言葉を繰り返した。何度も何度も繰り返した。

ハッピーとローディに妊娠のことを告げると、2人は自分のことのように喜んでくれた。そしてまだ産まれてもないのに、2人は大好きなおじさんのポジションを争い始めたのだから、トニーもペッパーもそんな2人の気持ちが嬉しくて仕方がなかった。

『父親になる』
そう分かってからのトニーは、以前のトニーと変わりないように振舞っていた。が、その一方で、トニーは家から殆ど出ようとしなかった。だがペッパーは、それでもよいと思っていた。というのも、次第に荒廃していく街を見るのは、毎日仕事に向かうペッパーですらも胸が苦しくなるのだから…。それでも時折、どうしても出掛けなければならないことはあった。その時のトニーは、運転していても、黙ったままだった。そんな夫の手をペッパーも黙って握りしめることしか出来なかった。

***

冬になり、家の周りは一面の銀世界となった。
暖炉の前に座り込み、2人は話をしていた。
ペッパーの大きくなったお腹に、トニーは話しかけていた。
「パパのおチビちゃんは、元気にしてるか?」
子供は女の子と言われていた。トニーが夢で見た通り、2人は娘に『モーガン』と名付けると決めていた。毎日話しかけているためか、モーガンは生まれる前から父親のことが大好きだった。今日も小さな娘は、父親の声に反応すると、元気よく母親のお腹を蹴った。
「おい、元気すぎるやつだな。ママを壊さないでくれよ」
そう言うとトニーは声を上げて笑った。笑っているトニーは、以前のトニーと同じだった。だが、彼はぼんやりとしていることが多かった。夜も魘され続けていた。それでもトニーはペッパーと共にいると、笑っていた。心からの笑顔で笑っていた。
ペッパーは幸せだった。トニーが笑ってくれる…それが何よりの幸せだった。そして祈った。この幸せが続きますように…と。

***

モーガンが生まれたのは、庭に植えたチューリップが咲き始めた頃だった。
夜中に産気づいたペッパーを、トニーは大慌てで病院へ連れて行ったが、何もかもが初めてなのだから、トニーは見たことがない程パニックになっていた。
陣痛の間隔が狭まるのを病室で待っている間も、トニーはウロウロと熊のように歩き回っていた。
「トニー…落ち着いて…」
妻に言われ、そばの椅子に座ったトニーだが、ペッパーが痛みに顔を歪めると、椅子から飛び上がった。
「は、は、ハニー!!」
ペッパーの手を握りしめたトニーは、泣き出しそうな顔をしている。
「大丈夫よ…」
安心させるように頷いたペッパーに、トニーも何とか気持ちを落ち着けようとしたが、初産ということもあり、なかなか産まれる気配はない。丸一日経った頃、ようやく分娩室に向かったのだが、トニーはペッパーの手を握りしめ励まし続けた。その甲斐あってか、それからは順調に事が進み、ペッパーは可愛らしい女の子を無事に出産した。
元気よく泣き続ける娘は、トニーにそっくりだった。そんな小さな娘を抱きしめたトニーに、初めての感情が襲いかかった。
今まで彼の世界の中心はペッパーだけだった。だが、腕に抱いた我が子もまた、世界の中心となった。
ペッパーとモーガンは、彼の全てになった。何よりも守りたい存在になった。

(この子を守るためなら…何だってしてみせる…。例え命を投げ出しても、この子の世界を…未来を守ってみせる…。)

トニーは誓った。妻と娘を抱きしめたトニーは大粒の涙を流しながら、一人心に誓った。

夏になり、庭にはトニーの好きなひまわりが咲き誇った。この頃になると、モーガンの笑い声が家の中からよく聞こえるようになった。ハッピーは勿論のこと、ローディも頻繁に家へとやって来た。湖畔の家だけは、昔と変わらない平穏さがあったから…。モーガンの笑顔に誰もが荒廃した現実を忘れる事ができたから…。が、モーガンの存在に一番救われていたのは、トニーだった。モーガンは小さな手に希望を握りしめていた。その希望に触れることで、トニーは先の見えない未来に、一筋の希望を見出すようになっていたのだ。だが、彼は動こうとしなかった。ローディや、そして本当に時折訪ねてくるナターシャからは、何度かチームに加わってくれと頼まれていたが、トニーは頑なに動こうとしなかった。彼にとっての最優先事項は、今は妻と娘との生活を守ることだったから…。

秋になると、ペッパーは仕事に復帰した。が、彼女は家で仕事をすることにした。時折会社へ行かねばならないこともあったが、その時家でモーガンの世話をするのはトニーの仕事になった。ハイハイをし始めたモーガンは、目を離すとあっという間に姿をくらましてしまうのだから、トニーは娘の後ろを追いかけ回していた。慌ただしく過ぎ去る日々だったが、それでもトニーは毎日楽しくて仕方がなかった。人生はこんなに楽しく素晴らしいものなのかと、トニーは本当の人生を娘と共に歩んでいたのだから…。

クリスマスには大きなツリーを飾り付けた。暖炉には3足の靴下も吊り下げた。ハッピーとローディを呼び、クリスマスパーティーも開いた。サンタクロースに扮したハッピーに、驚いたモーガンは号泣し始めた。慌てて扮装を剥ぎ取ったハッピーは、モーガンをあやし始めたのだが、トニーにしがみついて泣きじゃくるモーガンが「ぱぁぱ」と言ったのだ。それはモーガンの初めての言葉だった。
「モーガン?!今、パパと言ったのか?!」
満面の笑みで頬にキスをしてくる父親の喜びが伝わったのか、泣き止んだモーガンは小さな手でペチペチとトニーの頬を叩くと何度も「ぱぁぱ」と言った。翌日には「まぁま」とペッパーを指差して言ったのだから、2人は最高のクリスマスプレゼントだと、手を叩き合って喜んだ。

年が明け、歩き始めたモーガンは、言葉もどんどん覚え始めた。父親に似て賢いのだろう、モーガンはあっという間に色々な言葉を覚えた。そこでトニーはモーガンにフランス語やイタリア語まで教え始めた。が、ペッパーは心配だった。それはトニーが時々口の悪い言葉を口走ること…。
「トニー、お願いだから、変なことは教えないでね」
そう念押ししていたにも関わらず、ある日ペッパーに、モーガンは笑顔で”cagna!”と告げた。つまりそれは…。
「トニー!!」
妻の金切り声にトニーがキッチンから飛び出してきた。
「どうした?」
キョトンとしているトニーの首根っこを掴んだペッパーは喚いた。
「どうもこうもないわよ!モーガンが”bitch!”って言ったのよ⁈それもイタリア語で!変な言葉、教えないでって言ったでしょ!」
あっ…というような顔をしたトニーは、目を泳がせ始めた。そしてまた怒られそうな言葉を口走りそうになり、慌てて口を押さえた。
と、モーガンがトニーを指差した。
「ぱぁぱ、あーうーぶー!」
娘の言葉にトニーは目を見開いた。
「おい、もしかして”I love you.”と言ったのか?」
「え?!ホント?」
顔を輝かせた両親を見比べたモーガンは、今度は母親を指差すと笑った。
「あーうーぶー!まぁま!」
トニーがモーガンを抱き上げると、彼女は小さな手を叩き始めた。そんな娘の両側から頬にキスをすると、モーガンは笑い声を上げて喜んだ。

***

そして春になった。
毎日撮る家族写真が365枚目になった、モーガンの1歳の誕生日。大きなケーキに、モーガンは小さな手を叩いて喜んだ。
モーガンの誕生日プレゼントに、トニーはアルパカを用意していた。
「どうしてアルパカなの?普通は犬とか猫じゃない?」
するとトニーはふんっと鼻を鳴らした。
「動物の図鑑を見ていたら、モーガンが欲しいと言ったんだ」
まだ小さいがそのうち大きくなるのでは…と、ペッパーはアルパカを見つめた。するとアルパカはつぶらな瞳でペッパーを見つめ返した。その瞳はまるでトニーのようで、結局ジェラルドと名付けられたアルパカは、スターク家の一員となった。
そして3人は庭にひまわりの種を蒔いた。モーガンも小さなスコップを手に、あちこちで土を撒き散らしている。泥んこになって遊ぶ娘の顔を拭きながら『これからも毎年、みんなでひまわりを植えましょうね』とペッパーはトニーに告げた。

夏になり、アルパカのジェラルドと一緒に庭で走り回るモーガンの後を、トニーはビデオカメラ片手に追いかけた。庭で遊ぶのが大好きなモーガンは、毎日泥んこになって遊んだ。トニー自身は幼少期の頃、こんなに泥んこになって遊んだ記憶はなかったが、娘と一緒に泥だらけになって遊ぶのが楽しくて仕方なかった。

秋になり肌寒くなってきた頃。モーガンが風邪を引いた。真っ赤な顔をして咳き込んでいる娘を、トニーとペッパーは慌てて病院へ連れて行った。以前は賑わっていた病院も、今ではひっそりと静まり返っており、薄暗い廊下の椅子にトニーは腰を下ろした。時間がかかるのか、診察室に入った妻と娘はまだ出てこない…。

『スタークさん…気分が悪いよ…』
突然、『彼』の声が聞こえた。顔を上げたトニーは目を見開くと立ち上がった。病院の廊下のはずなのに、そこはあの悪夢が起こった惑星だった。周りには誰もいなかった。いや、腕の中には『彼』の重みと温もりが残っていた。掌には塵と化した少年しか残っていないのに…。

トニーは頭を抱えると座り込んだ。心臓が激しく脈打ち、息ができなくなってきた。汗が滝のように流れ始めた。何とか息を吸い込もうと胸元を掴んだが、胸の痛みはますます激しくなった…。

「…に………、トニー!」
我に返ると、モーガンを抱き上げたペッパーが背中を撫でていた。
「大丈夫?顔色悪いわよ…」
「あぁ…」
小さく震える手を握りしめたトニーは、額に浮かんだ汗を拭った。真っ青な顔をした父親に、モーガンも不安げだ。
「パパ、いたいいたい?」
泣き出しそうな妻と娘に、何度も深呼吸をしたトニーは、無理矢理笑みを浮かべた。
「大丈夫さ、モーガン。パパは大丈夫だから…」
すると、モーガンは安心したのか、トニーに向かって手を伸ばした。娘を受け取ったトニーは、小さな身体を抱きしめた。腕の中の温もりは、もそもそと身体を動かすと、首元にギュッと抱きついてきた。その重みに、ようやく気持ちが楽になったトニーは、娘の背中を撫でると、立ち上がった。
だがペッパーはとっくに気づいていた。トニーの心の奥深くに根付き、永遠に消えないであろう恐怖に…。
「トニー…、私とモーガンは…どこにも行かないから…大丈夫よ…」
夫の腰に腕を回したペッパーは、温もりを移すようにトニーの頬にキスをした。

冬になった。
暖炉の前でトニーはモーガンに本を読んでいた。
「…おしまい。よし、モーグーナー。次はどれがいい?」
目の前に積み重なる絵本を眺めていたモーガンは、カラフルな絵本を指差した。
「こえ!」
絵本を手に取ったトニーの顔色が変わった。それは、アイアンマンとスパイダーマンの本だったから…。
「パパ?」
絵本を手にしたまま固まっている父親を、モーガンが突いた。娘に気付かれないように何度か深呼吸をしたトニーは、絵本を開いた。が、彼は咳払いをすると、スパイダーマンのイラストを指差した。
「彼は…スパイダーマン。アイアンマンの仲間だ。スパイダーマンはな…」
作られた物語などいらなかった。彼のことはよく知ってるのだから…。
トニーは語った。アイアンマンとスパイダーマンの物語を…。

こうしてモーガンにとってスパイダーマンは、アイアンマンとウォーマシーンの次に身近なヒーローとなった。

***

モーガンは2歳になった。
ペッパーが仕事で会社に出かけたため、トニーはモーガンを連れ、街へ出かけた。
トニーとペッパーは、モーガンを連れて外に出たことは殆どなかった。そのためモーガンは、珍しそうに窓の外を眺めている。が、数年前までは賑わってきた街も、今では殆ど人影がなく、こんな世界しか知ることのできない娘の未来を思うと、トニーは胸が痛んだ。
しばらくすると、バーガーキングを見つけた。久しぶりにチーズバーガーが食べたくなったトニーは、店に入った。
「モーガン、何がいい?」
うーんと頭をひねったモーガンは、笑顔でトニーを見つめた。
「パパといっちょ!」
そこでトニーはチーズバーガーを頼んだ。
店内には誰も客はいなかった。店の隅に腰を下ろしたトニーは、チーズバーガーに食らいついた。モーガンも父親を真似て、大きな口でかぶりついた。
「パパ、おいちいね!」
口の周りをケチャップやらチーズでベタベタにしたモーガンは、満面の笑みを浮かべた。こうしてモーガンはチーズバーガーが大好きになった。父親と同じように…。

夏には親子3人で、湖で遊んだ。
ふざけてポーズを決めて飛び込む父親に、モーガンはケラケラ笑い声をあげた。

ハロウィンの日には、ハッピーとローディを呼び、パーティーを開いた。仮装はしなかったが、ペッパーが張り切ってご馳走を作り、5人は久しぶりに遅くまで盛り上がった。以前と何も変わらない日常があった。家族と友人たちと…誰一人欠けることなく、冗談を言い合い、笑い合い…。
「私たち…運が良かったのよね…」
ペッパーがポツリと呟いた。
「そうだな…」
ハッピーとローディと庭で走り回るモーガンを見つめながら、二人は黙って抱き合った。

辺り一面が雪景色になった頃、トニーが風邪を引いた。高熱を出し寝込んでしまったトニーは、モーガンにうつってはいけないと、ゲストルームに篭った。が、父親の姿が見えないと、モーガンは大泣きし始めた。
「モーガン。パパは風邪をひいてお熱があるの。だからゆっくり休ませてあげて」
ペッパーが言い聞かせる声が部屋の中まで聞こえてきた。が、モーガンは泣き止む気配がない。
トニーはふと思った。もし自分が突然いなくなれば…娘は今のように自分を探して泣くだろう…。何も言わずに突然いなくなれば…きっと父親のことを許してくれないだろう…と。
ベッドから起き上がったトニーはそっとドアを開けた。モーガンはまだグズグズ泣いていた。
「モーグーナ…」
父親の声にモーガンは顔を上げた。そして父親の姿を見ると、顔を歪め大粒の涙を流した。
「パパ…」
ギュッと抱きついてきた娘を、トニーは抱きしめた。
「トニー、大丈夫?」
熱で真っ赤な顔をしているトニーをペッパーは不安げに見つめたが、トニーは妻に向かって頷くと、小さく震える娘の背中を撫でた。
「モーガン…パパはどこにも行かない…。モーガンのそばにいるよ…」
何度かそう言うと、モーガンは安心したように息を吐いた。
「よかった…。パパ…ずっといっちょよ…」
だがトニーは黙ったままだった。黙って娘の背中を撫で続けた。

***

3歳の誕生日。
トニーは庭にブランコを作った。モーガンはブランコで遊ぶのが大好きになった。歓声を上げる娘の背中をトニーは押した。

夏には望遠鏡で星空を眺めた。
トニーに似て聡明なモーガンは、星の名前を覚えるのが大好きになり、週に何度かは親子で星を眺めるのが日課となった。

秋になり、庭に小さな子供用のテントを立てたトニーは、可愛らしいテーブルと椅子を作った。モーガンはここでおままごとをするのが大好きになった。時にはテントの中で眠ってしまうこともあり、その度に、トニーとペッパーは娘を起こさないように抱き上げ、そっと部屋へと連れて行った。

冬。一面雪景色となった庭で、親子で雪合戦をした。両手で掴めない程の雪を掬ったモーガンは、それを投げようとしたが、足を滑らせ雪の中にひっくり返ってしまった。顔色を変えたトニーとペッパーだが、雪に埋もれた娘は、ケラケラ笑いだした。

***

4歳の誕生日。
ろうそくを吹き消した娘を見つめながら、トニーは祈った…。
これからも、モーガンの成長をペッパーと2人で見守れますように…と。

そして気づけばあの日から、5年の歳月が流れていた…。
そんなある日のことだった。
幸せが終わる時がついにやって来た。
ついに彼らがやって来たのだ。
昼食を作っていたペッパーは、スティーブたちの声に手が震え出した。
(トニーが…遠くに行ってしまう…。トニーを…奪われてしまう…。)
唇を噛み締めたペッパーは、目を閉じたが、
「ハニー…」
とトニーに呼びかけられ、我に返った。
モーガンを下ろしたトニーは、真っ青な顔をした妻を抱きしめた。そして
「話を聞くだけだ」
と、低い声で言うと、飲み物を持ち外へと向かった。

ペッパーは、外から聞こえる話に聞き耳を立てた。
「大切な人を失った」
そう聞こえた。トニーは何も失っていないと言わんばかりの口ぶりに、ペッパーは拳を握りしめた。

トニーだって…トニーだって失った。息子のような存在になっていた少年を…。何より彼は自分自身を失いかけた。
今の幸せは、彼がこの5年間、前を見て歩き続けた結果なのに…。まるで最初からあったように…彼は何一つ失っていないかのように告げる彼らに、ペッパーは悔し涙が止まらなかった。

震える母親に気づいたモーガンがそっと腕を掴んだ。
「ママ?」
我に返ったペッパーは、腰を屈めると娘に囁いた。
「モーガン、パパを助けてきてくれる?」
「うん!」
パタパタと走って行った娘は、暫くしてトニーに抱きかかえられ戻って来た。
「助かったよ…」
ポツリと呟いたトニーの表情はさえなかった。

その日から、トニーは時折何かをしていた。
苦悩する夫の後ろ姿を見つめながらペッパーは考えた。

トニーは板挟みになっている。
今の生活を…彼の二度目の人生を壊されたくないという思いと、そしてこの5年間…いや、十年以上にわたって彼を苦しめる悪夢に…。それを終わらせるためには、5年前の出来事に決着を付けねばならないということに…。

彼を失いたくない…。この幸せな生活を壊されたくない…。
だけど彼は果たすべき責任をきっと分かってる…。自分がどうすべきなのかも…。そして私もそれを分かっているはずなのに…。
だけど、今までとは違う…そんな気がした。
もしかしたら…もう二度と今の生活を送れない…彼が戻って来ない…そんな気がした。

2日後。
5回目の結婚記念日に、トニーは記念日のプレゼントだと、ペッパーにアーマーを贈った。
「実は…5年前からずっと作ってたんだが…。君は私が選んだ服は着てくれないだろ?だから渡しそびれてた」
青色に輝くアーマー。それは10年以上前、初めて踊ったダンスの時に…お互いを男と女として意識した瞬間に、自分が着ていたドレスと同じ色だった。
「どうしたの…急に…」
「もし…もしもの話だが…。私に何かあったら、モーガンを守るんだ…」
トニーが苦しそうに顔を歪めた。あまりに苦しそうなトニーに、ペッパーは胸が締め付けられそうになった。が、悲観的な事を考えて欲しくないというように、ペッパーはトニーに敢えて告げた。
「もしもなんてないでしょ?あなたはいつだって私とモーガンの傍にいるでしょ?」
「そうだな…」
そう言うと、トニーは笑った。とても寂しそうに…悲しそうに…。
その夜トニーは優しかった。いつも以上に優しかった。まるでこれが最後と言うように、優しくペッパーを愛した…。

それから数日後。
タイムトラベルの装置が完成しそうだと、トニーはペッパーに告げた。今の生活を続けたいと迷うトニーの背中をペッパーは押した。彼自身の心に巣食う悪夢を取り除く戦いになるのなら…これを乗り越えることで彼がゆっくり眠れるようになるのなら…そう思い、ペッパーは夫の背中をそっと押した。

翌日、トニーは朝からラボに篭っていた。
タイムトラベルを可能にする装置。これがあれば、過去に戻り、そして5年前に消えた人々を取り戻すことができるかもしれない。これを完成させること…それこそが、5年前に命を助けられた自分の使命なのだから…。
そこへモーガンがやって来た。
「モーグーナー。ここは危ないから外で遊んできなさい」
「でも、あたし、ここがすきなの」
ニコニコ笑ったモーガンは、トニーの横の椅子によじ登った。
小さい頃からラボが大好きな娘。何もかもが自分そっくりな娘に、トニーは不意に父親の言葉を思い出した。
『私が作り出した物で最も素晴らしいものは、お前だ、トニー』
もしも自分に何かあっても…ペッパーにはこの娘を残すことができた…。
自分の血を受け継いだこの娘がいれば、きっとペッパーも乗り越えてくれる…。
「そうか…」
手を止めた父親の目に、薄っすらと涙が浮かんでいることにモーガンは気付いた。先日、見知らぬ人が訪ねてきてから、父親の様子はおかしかった。父親はこのまま消えてしまうのではと思ったこともある。
(パパは…あたしのパパよ。パパはあたしとずーっといっしょにいるんだもん!)
父親を引き止めておくには、お願い事をするのが一番だと考えたモーガンは、先日父親が母親へプレゼントだと渡していたアーマーの存在を思い出した。
「パパ、あたしにも、ママみたいなアイアンマンつくって!パパとママとあたしと、おそらをとぶのよ!」
娘の言葉にトニーは少しだけ目を見開いた。そんな未来は考えたこともなかった。ペッパーとモーガンと…親子三人で空を飛ぶという未来は…。いつか叶えたい夢だが、叶うはずのない夢になるかもしれない…。
「そうだな…。いつか皆で飛びたいな…」
小さく笑ったトニーは、娘の頭を撫でると作業に戻った。

その夜。三人は同じベッドで眠った。
トニーは眠れなかった。悪夢を見るからではない。妻と娘の姿を、可能な限り目に焼き付けておこうと、彼はずっと二人を見つめていた。
トニーの目から涙が溢れ落ちた。

『みんな、大切な人を失ったんだ』

自分もあの少年を失った。だが、最愛の人と結婚し子供にも恵まれた。親友は2人とも健在だ。

『私たちは幸運だったのよ』

そうだな…。幸運だったんだ。
失ったものは、自分にとっては大きかったが、他人から見れば、何も失っていないと見えたんだ…。
だからこそ、今の自分の幸せと引き換えに、皆を元に戻すのが、自分の使命なのかもしれない…。

ペッパーは分かってくれる。きっと分かってくれる。
だが、モーガンは…。
分かってくれるだろうか…。
酷い父親だと恨まれるのだろうか…。

自分がハワードを恨んでいたように…。

トニーは首を振った。
どうしてこうも、悲観的なことばかり思い浮かぶのだろうか…。
絶対に…絶対に…この場所に戻ってこれるに決まっているのに…。
誰だって、ハッピーエンドが好きに決まっているのに…。

***

翌日。
「パパ、はやくかえってきてね!」
笑顔のモーガンをトニーは黙って抱きしめた。が、いつもなら何か言う父親なのに、今日は何も言わないではないか。
「パパ?」
そっと父親の背中に触れたモーガンは気づいた。父親が小さく震えていることに…。
「パパ…」
モーガンは不安になった。もう二度と父親が帰ってこないのではないかと…。が、父親はいつだって帰ってくるのだから、そんなことはないだろうと、彼女は小さな胸に浮かんだ疑念を払うように、父親に抱きついた。

トニーの目から小さな涙が一粒零れ落ちた。
彼の涙の理由…それはただ単に久しぶりの…そして成功するか分からないタイムスリップという任務に挑むため…それだけではないと分かっていた。その先に起こるかもしれない何かに、トニーは勿論のこと、ペッパーも言葉には出さないが気づいていた。

「パパ、3000回あいしてる」
「あぁ、モーガン…。パパも…3000回愛してるよ…」
娘の頬にキスをしたトニーは立ち上がった。
「トニー…大丈夫よ…。きっと成功するわ…」
頷いたトニーは、ペッパーを抱きしめた。
「ハニー…愛してる…」
ギュっと腕の中にペッパーを閉じ込めたまま、トニーは暫く動くことができなかった。まるでペッパーの温もりを身体に染み込ませるように…自分の温もりもペッパーに残すように…。

「ハッピー、ペッパーとモーガンのこと…頼んだぞ」
今まで聞いたことがない。どんな時も、トニーはハッピーに何かを託していくことなどなかったのに…。それなのに、どうして彼は二人のことを託したのだろう…。
ハッピーは不安になった。
もうトニーが二度と戻ってこないのではないか…と…。もう二度と…会えないのではないか…と…。
「ボス…」
それ以上何も言うなというように、眉を少しだけ吊り上げてみせたトニーは、もう一度ペッパーにキスをすると、振り返りもせず車へと向かった。

そしてトニーは再び戦いの場に戻って行った……。

***

明日、タイムトラベルを決行する。
一度家に帰ろうかと考えたが、今帰れば任務に臨む決意が薄れてしまいそうで、帰れなかった。だが、あの場所にはもう戻れない…そんな気もした。

トニーは左手の指輪を見た。
たった5年…5年しか結婚生活を送れなかった。だが、5年も…と考えなければならないのかもしれない。
5年間、本当に幸せだった。今までの人生で一番幸せだった。10年も20年も生きたように感じた。
悪夢で目を覚ましても、妻と娘がそばにいてくれた。

この5年で、ペッパーに何を残せただろう……。彼女が残りの人生を幸せに暮らせるように、自分は何か残せただろうか…。
彼女を幸せにできたのだろうか…。
辛い思いや、悲しい思いばかりさせてきたのではないだろうか…。

それにモーガンにも…。
幼い娘は…もし自分に何かあった時…自分のことを覚えていてくれるだろうか…。
覚えていて欲しい。
どんなに小さなことでもいい…。
一緒にブランコに乗ったことでも…。
雪だるまを作ったことでも…。
チーズバーガーを食べに行ったことでも…。
たった一つだけでもいい…。
自分のことを…父親のことを…。抱きしめた温もりを…声を…何か一つでもいいから、覚えていて欲しい…。
娘のことを…自分の血を分けたたった一人の愛しい存在を…世界一愛していたことを……。

涙が止まらなかった。
久しぶりの任務に感情が高まっているのかと思おうとしたが、そうではないことは自分が一番分かっていた。
何かが起こる気がする…。『生き残ったのには理由がある』のだから…。
もしかしたら、これが最後の旅になるかもしれない…。結末はどうであれ、自分にとっての…いや、アイアンマンの最後の旅に…。

ペッパーとモーガンから離れたくない…。命が尽きるまで、ずっとそばにいたい…。
それが本音に決まってる。
悪夢を見続けても…ゆっくり眠ることができなくても…2人がそばにいてくれるなら、それでもいい…。

今の生活を守ること…、なるべく死なないこと…。キャプテンにはそう告げた。優先事項だと告げた。
今の生活を…ペッパーとモーガンの未来を守る…、それが一番の優先事項だと告げた。
だからもし…もし自分が命を落としても、2人の世界を守れるのなら…。

トニーは首を振った。
悲観的なことを考えてはいけない…。
絶対に無事に戻ってこれるのだから…。

目元を拭ったトニーはふぅと深呼吸をした。

だが、もしもの時のために残しておこう…。
聞かなくて済むに越したことはない。
そのもしもが起こってしまえば…。これが最後になるかもしれない…。妻と娘に最後に残す言葉になるかもしれない…。自分がいなくなっても、2人には前を向いて歩き続けて欲しいから…。自分の死をいつか乗り越え、2人には彼女たちの人生を歩んで欲しいから…。希望溢れる未来を見続けて欲しいから…。

頬を叩いて無理矢理笑顔を作ったトニーは、メッセージを録画し始めた……。

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