今夜もトニーはなかなか帰ってこない。
「ひと暴れしてくるから遅くなるよ」と連絡があって早5時間。
時計の針はもう少しで日付を超えようとしている。
「先に寝てろ」と言われたが、やはり心配でペッパーはソファーに座り本を読みながらトニーの帰りを待っているのだった。
『ペッパー様、トニー様が戻られました』
ジャービスが言うと同時に屋上から物音がし、しばらくしてトニーが姿を現した。
「トニー?!」
トニーの姿を見たペッパーはそばに駆け寄った。
トニーの顔は血まみれだった。あちこちに傷を作り、その傷からは血が滴り落ちている。
トニーは薄暗い入口に持たれかかるように立ち、駆け寄ってきたペッパーを見ると苦しそうに無理やり笑顔を作った。
「遅くなってすまない…まだ起きてたのか?」
「そんなことより…何があったの?!」
トニーの腰に手を回し、右腕を自分の肩に乗せると、ペッパーはトニーを支えるようにしてゆっくり歩き出した。
「…大したことはない…大丈夫だ…」
顔をしかめたトニーの脚がもつれ、倒れそうになる。ペッパーはトニーを支え直すとゆっくりと歩きソファーへ座らせた。
「待ってて…手当しなきゃ…」
ペッパーは救急箱を取りにバスルームへと向かった。
トニーは苦しそうに息をすると、ソファーへ横になった。
しばらくして、救急箱とタオルを持ったペッパーが戻って来た。
「ジャービス、もう少し明るくしてくれる?」
ソファーに横になっていたトニーは、ペッパーが戻ってきたのを見て起きあがった。
「トニー、手当するか…」
トニーの姿を見たペッパーは悲鳴をあげそうになった。
先ほどは暗くてよく見えなかったが、トニーの左上半身は血で真っ赤に染まっていたのだ。
「トニー!!すごい怪我じゃないの!」
「大丈夫だ、ペッパー。見た目ほど酷くないから…」
涙を浮かべたペッパーを安心させるようにトニーは言った。
「と、とにかく…脱いで!」
痛みがあるのだろう、顔をしかめ服を脱ごうとするトニーを手伝い、何とかTシャツを脱がせた。
左肩から胸にかけて無数の切り傷や打撲の跡があり、ジワジワと血が滲み出ている。左手の指は骨が折れているのでは…と心配になるくらい腫れ上がっている。
額の傷は思ったより深く、ペッパーが血まみれのトニーの顔をタオルで拭っても、次々と溢れ出てきた。
何とか止血し、顔や肩の傷にバンドエイドを貼り、左手を包帯で固定すると、ペッパーはトニーに鎮痛剤を渡した。
「トニー…お医者様を呼んだ方が…」
「大丈夫だ…。明日になれば治る…」
トニーの病院嫌いは今始まったことではない。だが、苦しそうに息をし、歩くだけでも辛そうなトニー。
ペッパーは、トニーを寝室に連れて行きながら、朝になったらお医者様を呼ぶか病院に連れて行こうと考えた。
ペッパーに支えられるようにベッドに横たわったトニーは、不安そうに自分を見ている彼女の視線に気づいた。いつも左側で寝ているペッパーの枕を右側に置くと、
「今日は反対側で寝てくれないか?」
とわざとらしくニヤリと笑った。
「トニー、辛かったら、いつでも起こしてね…」
ベッドに潜りながらペッパーが言うとトニーは右手でペッパーの髪を撫でながら
「分かった。おやすみ…」
と、シーツに潜り込んだ。
トニーのことが心配になり、夜中にふと目を覚ましたペッパー。
左隣を見ると、トニーはペッパーに背を向け丸くなって眠っていた。
ペッパーは足元まで蹴飛ばされていたシーツをトニーにそっと掛け、頭にキスをすると再び眠りについた。
*****
翌朝、まだ夜が明けきらぬ頃、トニーが目を覚ますと、ペッパーはまだスヤスヤと眠っていた。
頭が割れるように痛い…。いや、頭だけではない。身体は気怠く自分の身体ではないようだ。
実は昨夜の戦闘中、アーマーが破壊されるほどの衝撃を頭部に受けて、トニーはしばらく失神していたのだ。だが、その前後の記憶がないトニーはこの頭痛の原因がまったく分からなかった。
頭痛はだんだんと酷くなり、トニーはペッパーを起こさないようにベッドから抜け出した。
歩こうとすると足がもつれ、倒れそうになる。壁に手を付き、ゆっくりと歩きだしたトニーは、バスルームへと向かった。
やっとの思いでバスルームへ辿りついたトニーだが、頭はまるでハンマーで殴られ続けているよう。
「まいったな…」
棚から鎮痛剤を取り出し飲もうとするが、目の前がぐるぐるとまわりだし、トニーは思わずしゃがみこんでしまった。
頭痛と眩暈に襲われ、立ち上がることができず、しばらく座り込んでいたトニーだが、
「?!…うぅ…」
慌ててトイレへ屈むと、胃からせり上がってきたものを吐き出した。
「ぅぅぅ…」
吐き気はおさまったと思えばまた襲ってくる。胃の中が空っぽになり、吐き出すものが胃液だけになった頃には、頭痛も眩暈もピークに達しており、もはや動くことすらできない。
「ジャーヴィス……ぺっ…ぱ……」
壁にもたれかかり、やっとの思いで言葉を発したトニーだが、そのまま意識を失ってしまった。
その頃、目を覚ましたペッパーは隣にトニーがいないことに気づき、ベッドから起き上がろうとしていた。
「あら?珍しいわね…。私より早起きだなんて…」
パジャマの上にガウンを羽織ったペッパーにジャービスが声を掛けた。
『おはようございます、ペッパー様。トニー様がバスルームまで来て欲しいと言われています』
「トニーが?どうしたのかしら…」
こんな朝早くからどうしたのかしらね…不思議に思いながらもペッパーはバスルームへと向かった。
「トニー?いるの?」
呼んでおきながらも、ドアの外から呼びかけるも返事はなく、不審に思ったペッパーはドアを開けた。
「トニー?!どうしたの?!」
真っ青な顔をし脂汗をかいたトニーは、目を閉じグッタリと壁にもたれかかっていた。
そばへ駆け寄り、肩を揺するも返事はない。
「トニー!トニー!返事をして!」
ペッパーが泣きながら必死でトニーに呼びかけると、しばらくしてトニーは目を覚ました。
「やあ、ペッパー…どうしたんだ?」
どこかぼんやりした表情のトニー。
「どうしたって…。こっちが聞きたいわよ。どうしてバスルームで寝てるの?それに酷い顔色よ。トニー…やっぱり病院へ行きましょ?」
「大丈夫だ…。眩暈が酷いが…眠ったら治る…」
大丈夫だの一点張りだけど…どう見てもどこか悪いに違いないわ…。やはり病院へ連れて行かないと…。
ペッパーはふらついて一人では歩けないトニーを抱えるようにして寝室へと連れて行った。
ベッドへ連れて戻ると、トニーはモソモソとシーツの中へ潜った。
「何か食べる?」
「…いや…」
そう言うと、トニーは目を閉じ眠ってしまった。
寝室から出たペッパーは、病院に連絡した。トニーの主治医に昨日からの様子を伝えると、すぐに連れて来るように言われ、ペッパーは着替えをすませると寝室へと戻った。
「トニー…トニー。起きて。先生にね、連絡したら、すぐに来なさいって…」
何度揺すっても目を覚まさないトニー。
「トニー?!トニーったら!起きて!」
「…ぺっぱー?」
ようやく目を開けたトニーだが、その視線は宙を漂っており、反応は鈍く、どう考えてもいつものトニーではない。
「トニー、出掛けるわよ…」
トニーを起こし、支えるように立ち上がらせる。
「…きがえないと…」
おぼつかない足でクローゼットの方へ向かおうとするトニーを引っ張り、部屋を出る。
「大丈夫よ、このままでいいわ。それより、歩ける?」
黙って頷くトニーを抱えるようにして車に乗せると、ペッパーは猛スピードで病院へ向かった。
「トニー…頑張ってね…」
助手席で目を閉じているトニーに時々声をかける。初めは
「あぁ…だいじょうぶ…」
と返答していたトニーだが、次第に返事をしなくなり意識を失ってしまった。
「トニー?トニーったら!しっかりしてよ!」
大変!急がなきゃ…。早く連れていかないと…トニーが…。
病院へ到着すると、スタッフが担架とともに待ち構えており、意識を失いぐったりとしたトニーを手術室へ連れて行った。
脳内出血と頭蓋骨骨折…肋骨や左手指も骨折しており、運ばれた時には昏睡状態だったトニーの手術はほぼ一日に及んだ。
手術後、呼吸器を付け頭も身体も包帯だらけの痛々しい姿で運ばれるトニーに、ペッパーは気を失いそうになった。
昨夜の時点で病院へ連れてきてれば…嫌がっても無理やり連れてきてれば…。
眠り続けるトニーの手を握りしめ、ペッパーは祈るような気持ちで夜を過ごした。
*****
3日後、日用品や着替えを取りに一旦家に戻ったペッパーはラボにいた。
あの日、トニーが着ていたアーマーは大きく破損しており、特に頭部を中心に左上半身は見る影もなかった。
「私がもっと早く気付いてれば…」
その場に泣き崩れたペッパーだが、トニーが目を覚ましたと連絡が入り、涙を拭くと病院へと急いで戻った。
病室の前では、トニーの主治医とナースがペッパーを待ち構えていた。
「目を覚ましたと連絡が…」
深刻な顔をした医師にただならぬ気配を感じたペッパーが不安そうに2人を見つめると、医師は重い口を開いた。
「意識は戻られたんですが…。記憶が…。何も覚えていないのです…。ご自身のことも…。そして、ミス・ポッツ…。あなたのことも…」
「トニー?」
泣き出しそうな気持ちを抑え、ペッパーが病室に入ると、トニーは眠っていた。
ベッドサイドの椅子に座り、祈るような気持ちで手を握る。
しばらくすると、まぶたがゆっくりとあがりトニーが目を覚ました。
「トニー?分かる?私よ、ペッパーよ…」
何も覚えていないと言われても…もしかしたら…。わずかな望みをかけてトニーの顔を覗きこんだペッパーだが…。
じっとペッパーの顔を見つめていたトニーだが、申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめん…何も分からないんだ…。君は…誰?」
トニーは、何もかも忘れていた。ペッパーのことはもちろん、自分自身のことも。日常生活に関することは覚えているのだが、自分が何者であるかさえも忘れてしまっていた。
一時的なものかもしれませんが、もしかしたらずっとこのままかもしれません…。そう宣告されたが、ペッパーには信じられなかった。
3日ほどたち、ベッドの上に起き上がれるようになったトニー。
自分はトニー・スタークであること、スターク・インダストリーズのCEOであること、アイアンマンとして活動していること…。記憶は失っても元来頭の回転 が早く天才と呼ばれる男なのだ。一度聞いたことはあっという間に自分のものにし、5日もたった頃には、他人からの知識によるものだが、自分はどういう人生 を歩んできたか、大体のことは把握していた。
だが、ペッパーのことは…。
「トニー?覚えてる?この時のあなたはね…」
少しでも記憶が回復する糸口になれば…と、ペッパーは写真など思い出の品を持ち込み、毎日のように話をした。
だが…
「…ゴメン…ペッパー…。やはり思い出せない…」
毎日のように動けない自分の世話をしてくれるペッパー。「恋人」だと説明されたが、どうして大事な女性のことまで忘れてしまったのだろう…。彼女を「好き」ということは覚えているのに、どうして一緒に過ごした日々を忘れてしまったのだろう…。どうして思い出せないのだろう…。せめて彼女との思い出だけでも…。
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