『跪け』
聞き覚えのある声に目を開けたトニーはため息をついた。
目の前にいたのは、あの神様。仲間の雷神の弟…つまり、悪戯好きなロキだったからだ。
「またお前か。まだ地球を征服しようと思ってるのか?」
肩を竦めたトニーは、ロキを追い払うように手を振った。
トニーの態度にムッとしたロキは、足を踏み鳴らした。
『またとはなんだ。いつも兄が世話になっているから礼をしようとやって来たんだ。このロキ様が下等な人間のためにわざわざだぞ?ありがたく思え!』
(要するに、暇なんだろ?)
先ほどよりも盛大にため息をついたトニーは思った。絶対にロクなことにならないと。
「なるほど。だが遠慮しておく。お前に関わると厄介だ」
そう言い放ち立ち去ろうとしたトニーだが、どういう訳だか身体が動かない。いや、そもそもトニーは立ち上がっても座ってもいなかった。つまり、ベッドに寝たままだったのだ。しかも隣に眠るはずのペッパーの姿は見えず、いつの間にかトニーは真っ白な空間に浮かんでいた。
状況が分からず焦るトニーに、ククっと笑ったロキは近づいてくる。
『そう遠慮するな、鉄の男よ。お前の望みを叶えてやろう。数日前、お前はあのオンナに言っていたな。その望みを叶えてやる。それと、お前は常日頃言っている。『人生はギャンブルだ。ハプニングがあるから面白い』と。だからお前に選ばせてやる。①あの女がお前の元から消え去る ②人生はギャンブルだ!と二度と言えない出来事が起こる。さぁ、どちらか選べ!』
あのオンナ、つまりペッパーがいなくなるという選択肢がトニーにあるはずがないのだから、答えは必然的に②になるわけで…。
文句の一つでも言ってやろうとしたトニーだが、そばに立ったロキに頬を撫でられ悲鳴を上げそうになった。
『私には分かるぞ?お前の答えはただ一つ。②だ…』
トニーの考えを読んだのか、楽しそうに笑ったロキはトニーに向かって杖を向けた。途端に眩い光に辺りは包まれ、トニーのリアクターを青白い光が襲った…。
「わ~ぁぁぁ!!!!!!!!」
自分の悲鳴で飛び起きたトニーだが、自分がいつもの寝室にいると気付くと額の汗を拭った。
「何て夢なんだ…」
ペッパーは先に起きたのか隣はもぬけの殻。何度か深呼吸したトニーは、昨晩脱ぎ散らかした下着を拾うとバスルームへ向かった。
まだぼんやりする頭を覚醒させるかのように冷水で顔を洗うと、トニーは髭を整えようと鏡を見た。が…。
「ひ、髭がない!!!!!!」
理由は分からない。だが、昨夜はあったはずの髭が一晩で綺麗さっぱりなくなっているではないか。
「な、なぜだ…」
呆然とするトニーだが、髭以外にも鏡に映る自分に違和感を覚えた。顔が若いのだ。目尻の皺もなく、そこにいるのは20代の自分なのだ。
「ロキの魔法は夢ではなかったのか?」
今朝方見たのは夢だと思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。
確かに数日前に言った。小さな娘を甲斐甲斐しく世話するペッパーに『子供になったら君の胸に思う存分顔を埋められるのに…』と。
『あなたは大人だけどいつもしてるじゃないの』とペッパーに苦笑され、二人で笑いあったのも事実だ。だが、あれは冗談だ。誰がどう考えても冗談だ。おそらくその場にキャプテン・アメリカがいても、冗談だと受け止めてくれる程の冗談だ。
「おい、あの神様は本気にしたのか?!」
若返るのはいいが、このままでは娘と同年代の子供になってしまうかもしれない。現に先ほどから身長はどんどん縮んでいるのだから…。
「大変だ…」
真っ青になったトニーは甲高い声を出すと、ぶかぶかのTシャツを頭から被った。
「ペッパー!!ペッパーーーー!!!!」
ハイチェアに座らせた娘に朝食を食べさせていたペッパーは、どこからともなく聞こえる子供の声に辺りを見渡した。
「何で子供の声がするの?」
この家の唯一の子供である娘はまだロクに言葉を話せない。
「エスト…じゃないわよね?」
念のため娘に確認してみたが、小首を傾げたエストはキッチンの入り口に視線を向けると何かを指さし叫んだ。
「だー!」
エストの言う『だー』は『パパ』、つまりトニーのこと。やっと起きてきたわね…とおはようのキスをしようと立ち上がったペッパーだが、そこには夫の姿はない。
「トニー?」
すると足元で可愛らしい声が聞こえた。
「ペッパー、ここだ」
視線を下に向けたペッパーは飛び上がった。なぜならそこには3歳くらいだろうか、小さな男の子がいたのだから…。
ペッパーはパニックになった。どうして見知らぬ子供がいるのかと。
だがよく見ると、その子供はトニーのTシャツを着ている。そして大きな琥珀色の瞳、長い睫、胸には青白い光…つまりそれは…。
「と、トニー?!」
大声を出したペッパーに、男の子は指輪を差し出した。それは自分たちの結婚指輪。
「ど、どうしたの?!何があったの?!」
昨晩愛し合った大人のトニーがどうして子供になっているのか見当もつかない。いや、そもそもこんな非現実的なことが起こるのだろうか…。
目を白黒させているペッパーに抱き着いたトニーは、胸元に顔を埋めた。
「ぼくもわかんない…。でも、ロキのせいなんだよ。ロキがね、まほうをかけたんだ。だから、ソーをよんでほしいんだ。ソーならきっとどうすればいいかしってるもん!」
事情はよく分からないが、とにかくソーを呼べば解決するらしい。
「分かったわ。すぐに連絡してみるわね。でもお腹すいたでしょ?ご飯にしましょ?」
「うん」
言葉遣いも子供のようになっているトニーの頭を撫でたペッパーは、トニーを抱き上げた。
「1時間後に来るそうよ」
ソーに連絡を取ったペッパーは、リビングで娘と遊ぶトニーに告げた。
「わかった」
トニーがタワーのようにおもちゃのブロックを積み上げると、傍に座っていたエストは手を叩いて大喜び。
「だーだっだっだ!!!」
目の前の男の子が自分の父親と分かっているのか、はたまた良い遊び相手ができたと思っているのか、エストは先ほどからトニーのそばを離れようとしないのだ。
「えちゅと、つぎはくるまをちゅくるぞ」
(男の子がいたらこんな感じなのかしら…)
エストはトニーにそっくりなのだから、二人が並ぶとまるで兄妹のよう。楽しそうに遊ぶ二人の写真をこっそり撮っていたペッパーだが、あることに気が付いた。
「トニー、さっきより小さくなってない?」
「うん…」
口を尖らせたトニーは、手に持っていたブロックを放り投げた。
(一体いつになったら元に戻るんだ。このまま永久に戻らなかったらどうすればいいんだ…)
トニーの小さな胸は不安で押しつぶされ破裂しそうだった。つまり彼は限界だった。
「トニー?」
「だぁ…」
心配そうな妻と娘を交互に見たトニーだが、大きな目から涙が零れ落ちた。
「ぺ、ぺっぱー…。ぼ、ぼく…ぼく…」
ひくひくと鼻を動かしていたトニーだが、やがて大きな声を上げて泣き始めた。
「トニー、大丈夫。大丈夫だから…」
小さな身体を抱き締めたペッパーは、いつもトニーが娘にするように頭に何度もキスをした。
突然泣き始めた男の子。知らない男の子なのにどうしてか一緒にいると安心する。それは父親から感じるものと同じもの…。エストはこの男の子のことが一目見た時から大好きになっていた。だからその子が泣いていると、自分も泣きたくなってくるわけで…。
「うぇぇぇーーーん」
つられるように泣き始めたエストをペッパーはトニーを抱きかかえていない手で抱き締めた。
1時間後…。
「鉄の男よ!遅くなってすまない!」
トニーが義弟のせいでとんでもないことになっていると聞き、慌ててやって来たソーだが、目の前の出来事に絶句してしまった。
「やっと来てくれたのね!」
ペッパーのそばではスターク家の長女が遊んでいる。そしてペッパーの腕の中では見慣れない赤ちゃんが眠っている。
「いつの間に二人目が生まれたんだ?」
ポカンと口を開けているソーにペッパーは子供を起こさないように小声で言った。
「違うわよ!トニーよ、トニー!!あなたの弟の魔法のせいで、子供になっちゃったの!子供ならいいけど、どんどん小さくなって、今じゃこの有様よ!どうにかして!!!」
小さく金切り声を上げたペッパーに、腕の中のトニーが目を覚ましたのか泣き出した。
「しー…大丈夫よ、トニー。びっくりさせてごめんなさいね…」
小さな背中を摩ると、トニーは安心したのか再び目を閉じた。
見様によっては微笑ましい光景だが、いつまでも鉄の男がこの状態では大変だと、ソーは慌てて義弟を探しに行った。
その後、ソーにこっ酷く叱られたロキがトニーを元の姿に戻してくれたが、幸か不幸かトニーは子供になっていたことは覚えていなかった。
だがペッパーは覚えていた。そして写真という証拠まで残っていたため、その時の写真をこっそり見るのがペッパーの楽しみになっていた。そしてエストも…。突然いなくなった大好きな男の子。あの時の男の子はどこに行ったのだろうかと、エストはしばらく捜していたとか…。