エストは小さい頃からよく眠り手がかからなかったが、エリオットは夜泣きも激しく、ペッパーはほとんど寝れない日々が続いた。
「ウェ~ン!!!」
つい2時間前にミルクをあげたばかりなのに…。
隣で眠るトニーを起こさないようにペッパーはそっと起き上がった。
「シー。パパが寝てるから起こしたらかわいそうよ…」
小さな身体を抱きしめると、エリオットは泣き止みウトウトし始めた。
その時、ベッドの方からゴソゴソと音がし、ペッパーが振り返るとトニーが寝ぼけ眼で起き上がろうとしていた。
「大丈夫か?」
「ごめんなさい…起こしちゃった?大丈夫だから眠って?」
大きな欠伸をしたトニーは、エリオットが眠り始めたのを見ると、再びシーツに潜った。
トニーはとても協力的で、エリオットが夜中に目を覚ますと文句も言わず交代で面倒を見てくれる。
だが、昼間のスターク社のCEOとしての仕事…ペッパーに休みを取らせるためにやったことがないペッパーの仕事まで行っているのだ…に加えて、アイアンマンとしての仕事もあるトニー。ペッパーが動けない代わりに、エストの送迎もできるだけしてくれる。いくら鍛えているとはいえ、さすがに体力的にキツイのだろう。バスタブの中で眠ってしまい危うく溺れ掛けたのはつい先日の話だ。
私はエリオットと一緒に昼寝することもできるけど、トニーは…。
目の下に隈をつくり、大欠伸をしながらもエストと笑いあい朝食を食べているトニーを眺めながら、ペッパーはどうすればいいか考えた。
その夜、ペッパーの隣に潜り込もうとしたトニーをペッパーは遮った。
「トニー、今日からゲストルームで寝て頂戴?」
「は?何故だ?」
ペッパーが妊娠中ですら言われたことのないセリフを聞かされ、不機嫌そうにトニーは唸った。
「いいから…。ね、お願い…」
トニーの枕を軽く叩き渡そうとすると
「私は君の隣で寝たいんだ。君を抱きしめて寝たい…」
トニーはペッパーにキスをして抱きしめようとした。
「トニー、ダメ!」
思わずトニーを押し避けたペッパーだが、理由も言わず自分を拒否するペッパーに
「ペッパー!」
とトニーは怒鳴ってしまった。
トニーのその態度に、ムッとしたペッパー。
「私はあなたの欲求を解消する道具じゃないの!」
思ってもいなかった言葉が口から飛び出し、ペッパーは青くなり口元を押さえた。
「…そんな風に思われていたとは…。情けないよ…」
怒りで真っ赤な顔をしたトニーは眉間にシワをよせ、無言で部屋を出て行った
どうしよう…。何であんなこと言っちゃったの?
私はただ…トニーにゆっくり眠ってもらいたかっただけなのに…。
翌朝、ペッパーがゲストルームを覗くと、トニーの姿はなかった。
「ジャーヴィス、トニーは?」
優秀な電脳執事は申し訳なさそうな声で言った。
『ペッパー様、トニー様は…昨晩遅くに出て行かれて戻って来られていません』
「そう…」
目に涙を浮かべたペッパーは、顔を伏せそっと涙を拭った。
エストを起こしたペッパーは、朝食を食べさせると、子供部屋でエストが洋服を着替えるのを手伝った。
「パパは?」
一度も顔を見せない父親と目を真っ赤にした母親。両親の間の不穏な空気を感じ取ったのか、エストが不安そうな顔をしてペッパーを見上げた。
「パパはお仕事よ。今日はハッピーにお迎え頼むから…」
「…うん…」
さみしそうに俯いたエストだが、ペッパーはそれ以上何も言うことができなかった…。
そして、いつもなら日に何度も連絡をしてくるのに、その日は一度も連絡もなく、夜になり一通のメールがきた。
『今日は仕事で帰れない。T』
どうしよう…。自分が撒いた種とはいえ…。トニーの心が離れてしまったら…私はどうすればいいの?
携帯を握りしめ、目に涙を浮かべたペッパーの服の裾をそばにいたエストが引っ張った。
「ママ?パパは?」
「…アイアンマンのお仕事よ…」
「アイアンマンのおようふく、あるよ?」
賢いエストはペッパーの嘘を見破っている。
「ねぇ?ママ?ねぇ?」
食い下がるエストにペッパーは思わず怒鳴ってしまった。
「パパは帰ってこないわ!!早く寝なさい!!」
ペッパーの怒鳴り声に驚いたエストは、しばらく呆然としていたが、みるみるうちに大きな目に涙が溜まり始め、やがて声をあげて泣き出した。
「エスト…ゴメンね…。パパは…明日になったら帰ってくるわ…」
自分の気持ちに整理をつけることができないペッパーは、泣きじゃくるエストを抱きしめた。
***
次の日、エストが幼稚園から帰ってくると、リビングに寝かされたエリオットが見覚えのあるぬいぐるみで遊んでいた。
「あ!あたしの!アイアンマン!」
走り寄ったエストは、ニコニコと機嫌良く遊んでいたエリオットからアイアンマンのぬいぐるみを取り上げた。
おもちゃを取り上げられ、大声で泣き始めたエリオット。その声にキッチンでエストのおやつを作っていたペッパーが飛んできた。
先ほどまでエリオットが遊んでいたぬいぐるみは、膨れっ面をしたエストが抱きしめているではないか。
「エスト!何でエリからぬいぐるみを取ったの!」
泣き叫ぶエリオットを抱きあげたペッパーはエストに向かって声を張り上げた。
ぬいぐるみを抱きしめたエストは
「だって…これ…エストのだもん…」
と、俯いたまま小さな声で言った。
「エスト!お姉ちゃんでしょ?貸してあげなさい!」
「イヤ!このこはダメなの!エストのたからものなの!!」
ぬいぐるみを背中に隠し反論するエスト。ため息をついたペッパーは
「エリオット…泣かないのよ」
と、エリオットを抱きしめあやし始めた。
その様子を寂しそうに指をくわえて見ていたエストだが、自分に注意を引こうとペッパーの服を引っ張った
「ねぇ、ママ。ジュースのみたい…」
腕の中のエリオットがウトウトし始めたため、ペッパーは小声でエストに言った。
「自分で出せるでしょ?お姉ちゃんなんだから…」
「ママが出して!」
「今、エリを抱っこしてるから無理よ」
下を向きうつむいたエスト。
トニーとも喧嘩状態、エリオットの世話で手一杯…精神的に余裕のない今のペッパーには、エストの様子に気付くゆとりはなかった。
イラついたペッパーの様子を感じ取ったエストは、ペッパーを喜ばせようとカバンの中から一枚の紙を大切そうに取り出した。
「ママ!きょうね、ようちえんでね…」
「エスト!エリが寝そうなの!後にして頂戴!」
エストの話を遮ったペッパーは、
「エスト、エリを寝かしてくるわね…」
と言うとエリオットを連れて部屋に向かった。
一人ポツンと取り残されたエスト。
よだれで濡れたアイアンマンを抱きしめたエストの目には涙が溜まっていた。
「あたし…おねえちゃんじゃないもん…。エストだもん…」
俯いたまま声を出さずに泣き出したエストの目からは次々と涙がこぼれ落ち、足元を濡らした…。
***
昨晩のペッパーの態度とそしてあの言葉。あの場ではカチンときて頭に血がのぼってしまったトニーだが、冷静になってエリオットが産まれてからのペッパーの様子を一日中思い起こしていた。
ペッパーは疲れているんだ。一日中エリオットの世話をし、料理も洗濯も掃除も以前と変わらずやってくれる。
エリオットばかりではない。しっかりしていると言っても、エストもまだ小さく手がかかる。夜や休日は手助けしてやれるが、ほぼ一人で全てをやってくれているのだ。
しっかり話を聞いて、一人で抱え込むな…と言わなければ…。このままではみんなが悲しい思いをしなくてはならない…。
「ただいま」
ペッパーの大好きなチョコレートと真っ赤なバラの花束を抱えたトニーは玄関を開けると明るい声で言った。
が、いつもは飛び出してくるはずのエストの姿がない。
「ジャーヴィス、ペッパーとエストは?」
誰の気配もしないリビングに向かうと、
『トニー様。お二人とも部屋にいらっしゃいます』
とジャーヴィスが教えてくれた。
トニーが寝室を覗くと、ペッパーはベッドの上で丸くなって眠っていた。
「ペッパー…」
サイドテーブルにチョコレートと花束を置いたトニーは、幸せそうな顔をして眠るペッパーにブランケットを掛けると、額に軽くキスをおとした。
ベビーベッドのエリオットを覗くと、ニコニコとトニーに向かって笑いかけた。
「今日はご機嫌だな?ママが眠ってるから、静かにしとけよ?」
頬をくすぐると、まるで分かったと言うように、エリオットはトニーにかわいらしい笑顔を向けた。
寝室を出たトニーはエストの部屋に向かった。
「エスト?いるのか?」
部屋を覗くと、エストはベッドの上で泣きながらアイアンマンのぬいぐるみをタオルで拭いているではないか。
「エスト?!どうしたんだ?!」
「パパ…」
トニーに気づいたエストは、大きな声で泣きながら抱きついてきた。
「エスト?何かあったのか?」
泣くばかりで何も話さないエストをトニーは黙って抱きしめた。
ベッドに座り膝の上にエストを乗せたトニーは、涙で濡れたエストの顔をタオルで拭きながら話し始めた。
「なあ、エスト。泣いてばかりじゃ分からないぞ?エストが泣いてる理由、パパに話してくれないか?」
しばらくうつむいたまましゃくりあげていたエストだったが、トニーの顔をチラリと見ると、ボソボソと話し始めた。
「あのね…。エリがね…あたしのアイアンマンのぬいぐるみでね…あそんでたの。これね、あたしのたからものなの。パパがあたしにくれたアイアンマン…。あかちゃんのときからね、エストのおともだちなの…。なのに、ママがね、エストはおねえちゃんだからかしてあげなさいって。エストね、おもちゃ、なんでもかしてあげるよ?でもね、このこはね、ダメなの…。エストのだいじなおともだちだから…」
トニーはエストが抱きしめているぬいぐるみを見つめた。エストが生まれてすぐにトニーが買ってきたアイアンマンのぬいぐるみ。それ以来、エストが何よりも大切にしているのをペッパーも知っているはずなのに…。
「そうか…」
トニーが背中をさすると、エストの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「あとね…ママね…エストのおはなしきいてくれなかったの…。ようちえんでね、じょうずにおえかきできたから、ママにあげようとおもったのに…」
見ると、ベッドの下にはぐちゃぐちゃに丸められた紙くずが落ちている。トニーはエストの背中をさすりながら紙くずを拾うと、破かないように広げた。
そこにはペッパーとエリオットと思われる絵が描いてあった。
「エスト、これはママとエリオットか?」
「うん…」
元気なく返事をするエストに、トニーは笑顔を向けた。
「上手に描いてるじゃないか?!パパ、びっくりしたよ。エストはこんなに上手にお絵描きできるようになったんだな?」
トニーの言葉にもエストは何も言わず黙ったままだ。
「ママにこれをあげようと思ったのか?」
「…うん…」
「そうか、ママ、きっと喜ぶぞ?」
「でも…ママ…。あたしのおはなし、きいてくれないの…。エストよりエリがすきなの?エスト、いいこじゃないから…おねえちゃんじゃないから、きらいになったのかなぁ?」
娘の言葉に一瞬眉をひそめたトニーだったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「嫌いなわけないだろ?ママもパパもエストのことは大好きだ」
「エスト、いいこじゃないよ?おねえちゃんじゃなくても、パパもママもエストのこと、すき?」
顔をあげたエスト。涙に濡れた大きな瞳を捉えたトニーの目も真剣だ。
「エスト…。いいか、エステファニア。エリオットにとってはお姉ちゃんだけど、パパとママにとっては、エストは大事な娘だ。だから、いつもいい子じゃなくてもいいんだ。お姉ちゃんだからって我慢しなくてもいいんだ。甘えたい時は甘えればいいんだ。それに、エストはいろんなことが自分でできるだろ?本も読めるし、ご飯も食べられる…。でもな、エリオットはまだ小さいから自分で何もできないんだ。これから大きくなっていって少しずつエストみたいに自分でできるようになるんだ。だから、エリオットがママのことを独り占めしてると思うかもしれないが…。ママもパパもいつもエストのこと考えてるぞ…」
トニーの言葉に、エストの目には新たに涙が溜まり始めた。
「パパ…エストね、パパもママもだいすき…」
トニーにしがみついたエストはシクシクと泣き始めた。声を押し殺して泣く娘の背中をトニーは優しく抱きしめた。
しばらくすると、エストは眠ってしまった。眠ったエストをそっとベッドに寝かすと、トニーは寝室へ向かった。
その頃、目を覚ましたペッパーは、サイドテーブルに花束とチョコレートがあるのを見つけた。
(トニーが帰ってきた!昨日のこと、謝らなきゃ…。きちんと話をしないと…)
ベッドから起き上がり寝室を出ようとドアを開けたペッパーの目の前に、ちょうど部屋に入ろうとしていたトニーがいた。
「トニー…私…」
トニーは何も言わずペッパーを腕の中に閉じ込めた。
「ごめんなさい…トニー。あんな思ってもないこと言ってごめんなさい…」
涙の零れ落ちる顔をトニーの胸元にすり寄せたペッパーを、トニーは力強く抱きしめた。
「いいんだ…ペッパー。気づいてやれなくてすまなかった。だが、お願いだから一人で抱え込むな。一人で頑張らなくていいんだ…。もっと頼ってくれ…」
「ごめんなさい…トニー…」
胸元に顔を押し付けられたペッパーの耳元で、トニーは囁いた。
「謝るなら、エストに謝れよ。エスト、傷付いてるぞ。まだ甘えたいのにあの子なりに頑張っているんだから…」
「うん…分かってる…。ごめんなさい…」
子供部屋に向かったペッパーは、ベッドサイドにひざまずくと、涙の跡が残る娘の頬をそっと撫でた。
「ゴメンね、エスト。ダメなママでゴメンね…」
おでこにキスを落としシーツを掛け直したペッパーが立ち上がろうとしたその時。
「ママ…」
シーツの中から小さな声がした。
「エスト…」
シーツを捲ると、様子を伺うように大きな瞳がペッパーを見つめていた。
「エスト…ごめんね。ママが悪かったわ。エストにはお姉ちゃんだからって、我慢させててごめんね…。でもね、ママはエストのことが大好きよ…」
「ママ…。あたしも…ママだいすき…」
「エスト…」
手を伸ばした娘を抱きしめると、エストは嬉しそうに顔を摺り寄せた。
「ママ、ほんよんで?」
「いいわよ。どれにする?」
「えっとね…ちんでれら!」
「シンデレラね…じゃあ、読むわね…」
二人の様子を部屋の入口から伺っていたトニーは、小さく笑うとそっと寝室へ戻って行った。
***
「うえーん!!」
小さな声で啼き始めたエリオットに気付いたペッパーが起き上がろうとすると、寝ていたはずのトニーが手を掴んだ。
「…君は寝てろ。ほとんど寝てないだろ?」
「大丈夫よ。あなたこそ明日も早いでしょ?」
身体を起こしたペッパーをトニーは腕の中に閉じ込めた。
「トニー!」
小さく抗議したペッパーの唇を奪うと、
「そんなに柔じゃないから大丈夫だ…」
耳元で囁いたトニーはベッドから起き上がった。
トニーはエリオットを抱き上げるとリビングへ降りて行った。
「ジャーヴィス…何か頼むよ…」
『お任せ下さい、トニー様』
窓際に置いたソファーに座ると、室内には波の音が流れ始めた。
大きな目に涙を溜めたエリオットの額にそっとキスを落とすと、トニーは静かに話し始めた。
「なあ、誰に似たんだ?あんまりペッパーを…ママを困らせるなよ?ん?もしかして私か?いや、そんなことはないか…。お前も泣くのが仕事だろうけど、泣きすぎるとママに似たかわいい顔が台無しだ…。それと、お前にもエストと同じぬいぐるみ買ってくるから…。あれはエストの友達なんだ。だから勝手に触るなよ」
笑いながら柔らかな頬をつつくと、エリオットはトニーににっこりと笑いかけた。
「さすが私の息子だな。物分りがいい。エリオット、いいか。スターク家の男なら、女性には優しくしろ。と言っても、大切な女性にだけでいいからな。みんなに優しくしてもダメだぞ。かえって大切な人を泣かせるはめになる。大切な女性を守ってこそスターク家の男だ。まぁ、これは親父…お前のおじいちゃんからの受け売りだが…」
階段の上に座り込みトニーの話を聞いていたペッパー。
(よかった…私の旦那様がトニーでよかった…)
二人の様子をしばらくこっそり見ていたペッパーだが、トニーの腕の中のエリオットがうとうとし始めたのを確認すると、寝室へと戻って行った。