「どうしてあなたって、そんなに自分勝手なのよ!」
いつもの口喧嘩のはずだった。
いつものように怪我をして戻って来たトニー。ペッパーの涙を見たくないトニーが、いつものように自分で応急処置をしていると、運が悪いと言うべきか、今日に限ってペッパーがラボへ降りて来た。
血塗れの手を見たペッパーは、顔色を変えて駆け寄って来た。
「大したことない。擦り傷だ。心配するな。それよりキスしてくれ」
茶化すようなトニーの言葉。いつもならキスをした後、美味しい食事をし、二人そろって寝室へ向かうのだが…。今日のペッパーは虫の居所が悪いのか、トニーの言葉に食い下がった。
「私がどんな思いで、あなたを待ってるか知ってるの?あなたは楽しいかもしれないけど、私は…」
大粒の涙が頬を流れ落ちたのを見たトニーはため息をついた。
(ペッパーは理解してくれていると思っていたが…)
この問題については、今まで幾度となく話し合ってきたはずなのに…。
「君が心配してくれているのは知ってる。だが、これは私の使命だ。知ってるだろ?私が…」
顔を上げたペッパーは、トニーの言葉を遮るように叫んだ。
「そんなこと関係ないわ!あなたがこれ以上傷つくのは見たくないの!」
「じゃあ、やめろというのか?」
思わず声を荒げたトニーに、ペッパーも黙ってはいなかった。
「やめる?あなたはアイアンマンをやめられないわ!そうでしょ?あなたは大好きなおもちゃを手放せるわけないもの!」
「それは…」
トニーは何も言えなかった。黙ったままのトニーに苛立ったペッパー。心の何処かでずっと思っていたことが、とうとう爆発してしまった。
「アイアンマンはあなたのエゴよ!あなたは自分を傷つけることで、みんなを救ってると思ってる!あなたが傷つくことで、悲しむ人間がいることなんか考えてないでしょ!」
「…」
俯いたままのトニーに向かって、ペッパーはさらに叫んだ。
「もう我慢できない!あなたが怪我しようが、死のうが、私は知らないわ!」
(どうも様子がおかしい…。何かあったのか?)
いつになく感情を露わにするペッパー。イライラとしたペッパーは、トニーの目から見ても情緒不安定。心配になったトニーが何か言いかけたその時…。
「トニー様。フューリー様から至急来て欲しいとご連絡が…」
(おい、待てよ。よりによってこんな時に…)
天を仰いだまま動かないトニーをペッパーは睨みつけた。
「行かないの?」
「いや…その…」
口ごもるトニーに、ペッパーは声を荒げた。
「行きなさいよ!本当は行きたくてウズウズしてるでしょ?」
「だが…君のことが…」
心配だ…という言葉を、トニーは最後まで言うことが出来なかった。
「さっさと行けばいいでしょ!」
手当たり次第に手元の物を投げ始めたペッパー。飛び交う物を避けながら近寄ったトニーは、
「おい、ペッパー!やめろ!」
と、抱きしめようとした。だがペッパーはその手を振り払った。
「ペッパー!おい、ペッパー!!」
無理やり抱きしめると、ペッパーは胸元をポカポカと叩き泣き始めた。
「帰ったら話し合おう。いいな?」
額にそっとキスを落としたトニーは、(アーマーを着ると指輪が傷つくため)結婚指輪を外すと、お手製のリアクター型のケースに大切そうに置いた。
そして、後ろ髪引かれる思いで飛び出して行った。
***
数時間後。戻ってきたトニーはペッパーを探した。
寝室に向かったトニー。いつもならベッドで不貞腐れて眠っているペッパーだが、その姿はない。
「ペッパー?どこだ?」
家じゅうを探すがその姿はどこにもなく、不安になったトニーは寝室へと戻り、クローゼットを覗いた。すると、広いクローゼットを二人は半分ずつ使っているのだが…その半分のペッパーの物はもぬけの殻。
「…ジャーヴィス!」
思わず怒鳴りつけたトニーに、ジャーヴィスは申し訳なさそうに告げた。
「トニー様。ペッパー様は2時間ほど前に出て行かれました…」
(出て行っただと?!)
青くなったトニーは拳を握りしめた。
「なぜ言わないんだ!」
怒りをぶつけるところが間違っているとは分かっているが、トニーは感情を抑えることができなかった。
「ペッパー様に止められました。トニー様には言うなと…」
慌てて電話を掛けるも、携帯を切っているのか繋がらない。車のGPSも何もかも切られており、トニーはペッパーの姿を完全に見失ってしまった。
がっくりと肩を落としたトニーは寝室へと戻った。
一人には大きすぎるベッドへ横たわる。
(どうも様子がおかしかった。何かあったのか?)
数時間前のやり取りを思い出したトニー。
ペッパーはどこかイラついていた。
(もしかして…どこか具合でも悪いのか?)
考えれば考えるほど、悪い方向に考えてしまう…。
「くそっ!」
小さく舌打ちしたトニーは頭からシーツを被り目を閉じた。
だが、結婚してから初めての一人寝の夜。結局一睡もできないまま、トニーは朝を迎えた。
翌日、携帯は相変わらず不通のため、トニーは自分の想いを留守電にメッセージとして残した。
(おそらく実家に帰ったのだろう。明日になっても連絡がなければ、迎えに行くか…)
指輪を眺めながらラボに座りぼんやりとした頭で考えていると、敵が来たとローディから応援要請があり、トニーは慌てて飛び出して行った。
スターク社の製品を悪事に使おうとしている連中がいるらしい。
そう情報を掴んだローディだが、相手はかなりの装備を整えていると分かり、新婚のトニーを危険な任務で呼び出すのは悪いと思いつつ、アイアンマンに応援を要請したのだった。
「…とにー……トニー!!」
ローディに小突かれ、トニーは我に返った。珍しくどこかぼんやりしているトニーをローディはからかった。
「どうしたんだ?新婚だからって張り切りすぎなんじゃないか?」
ローディの冗談にもトニーは反応しない。
しばらくたってから、トニーは親友が心配そうに見つめているのに気づき、顔をあげた。
「いや…何でもない…。すまない、こんな時に他のことを考えてはいけないな」
あのトニー・スタークがこんなに落ち込む姿はあまり見られるものではなく、その原因として考えられるのはただ一つ。
(さては、ペッパーと喧嘩したな?)
マズイ時に呼んだか?
ローディは心配だったが、敵が動き出したという情報が伝えられたため、打ち合わせ通り二人は別々の入口へ向かった。
(ダメだ…今日は集中できない…。しっかりしろ!一瞬の隙が命取りになるぞ!)
自分を叱咤激励しようとしたトニーだが…。一瞬だった。トニーに隙が出来たのは。その隙を敵は見逃さなかった。
足元に転がってきた爆弾に気づいたトニーは、慌てて逃げようとしたが遅かった。
トニーの全身を電磁波のようなものが包みこむと同時に、身体を覆っていたアーマーが音を立てて崩れ落ちた。
そして次の瞬間。
大きな爆発音と共に、生身となったトニーの身体を熱風が襲った。爆風で数メートル吹き飛ばされたトニーは、嫌というほど地面に叩きつけられた
目の前が霞んでよく見えない。空気を吸おうにも、肺が焼けたように痛み、息ができない。意識が朦朧とし、痛みを感じない。腰から下は動かすことすらできない。左手も感覚がなく、自分の手ではないようだ。
右の脇腹に熱いものを感じたトニーは、かろうじて感覚のある右手を当てた。ぬるりとした感触を感じ、見ると掌は真っ赤に染まっている。首を伸ばし身体を見ると、腹にはいくつもの大きな破片が刺さっており、どす黒い鮮血が右の脇腹から止まることなく溢れ出ている。
段々と息苦しくなり、目の前が霞んできた。死が迫るこんな時でも、トニーの脳裏に思い浮かぶのは、やはり最愛のペッパーの姿だけだった。
(私は…死ぬのか…?…死ぬのなら…会いたかった……ペッパーに…。ペッパー…すまない…また…君を…泣かしてしまう……)
「トニー!!!」
爆発に気付いたローディが慌てて駆け寄ってきたが、半分意識のないトニーにその声は届かなかった。
頭の先から足の指先まで血まみれのトニー。腹部には爆弾の破片がいくつも刺さり、両脚は妙な方向に曲がり見るも無残な状態だ。焦点のあっていない視線が宙を彷徨う。何か必死で言おうとしている口からは血が溢れ出て、息が漏れる苦しそうな音が聞こえる。
「おい!トニー!しっかりしろ!!すぐに病院へ連れて行ってやるからな!」
自分で飛んでいった方が早い。そう考えたローディは、近くにいた兵士に破壊されたアーマーを任せると、トニーを抱きかかえ空高く飛び上がった。
***
病院へ駆け込んだローディを、連絡を受けたスタッフが待ち構えていた
ぐったりとしたトニーはすでに意識がなく虫の息。
すぐに手術室へ運ばれたトニーを追うように、ローディも手術室の前へ向かった。
トニーが手術室へ入って数時間。
時折スタッフが慌ただしく出てくるが、手術は難航しているのか、誰も何も言ってくれない。
廊下に座り込んだローディは、トニーが一番大切にしている人物に…ペッパーに連絡を取ろうと必死だった。だが、携帯を切っているのか、一向に繋がらない。
何十回目かの電話。ローディは留守番電話にメッセージを残した。
「ペッパー、ローディだ。トニーが…トニーが大怪我をした。爆発に巻き込まれて…。死にそうなんだ。今…手術中だが…もう…ダメかもしれないと言われた…。君たちの間に何があったかは知らない。だが、あいつは君に会いたいはずだ…。頼む…」
ローディは、携帯を握りしめ親友の生還を祈った。
半日以上たった頃。
手術室のドアが開き、トニーが運ばれてきた。
全身包帯とギブスで覆われたトニー。たくさんのチューブが口元や腕や下半身から伸び、顔は半分以上ガーゼで覆われている。まるで機械に生かされているようなその変わり果てた親友の姿に、ローディの身体から力が抜けた。
「トニー…」
目の前を通り過ぎていくトニーは死人同様の顔色をしており、ローディは声を掛けることすらできなかった。
気が付くと執刀医が目の前にいた。
顔を上げたトニーは医師に縋り付いた。
「先生…トニーは…」
「内臓の損傷が激しく、かなりの大量出血で…非常に危険な状態です。何とか止血しましたが…。頑張っていらっしゃいますが…。ですが…会わせたい方がいらっしゃったら、早く呼んであげて下さい…」
冷たい床に座り込んだローディの肩を医師は気遣うように叩いた。
「残念です…」
ICUに向かったローディは、ベッドのそばの小さな椅子に座った。
唯一無傷だった右手を取ると、その冷たい手を握りしめた。
「トニー…ペッパーに電話したんだが…繋がらない。待ってるだろ?会いたいよな…。留守電にメッセージを残した。きっと戻ってくる…。だから、頑張ろうな…」
リアクターの光が青白く輝く部屋の中、トニーを生かすための機械的な装置の音だけが、妙にはっきり聞こえた。
***
一方ペッパーは、実家に戻っていた。
突然戻ってきた娘。つい二週間ほど前、トニーと一緒にハネムーンのお土産を持って顔を見せた時には、二人とも幸せそうに寄り添っていたのに…。
何も語ろうとしない娘は、親の目から見ても様子がおかしかった。
どうせトニーと喧嘩したんだろう…そのうちトニーが迎えに来て、キスでもすれば仲直りするさ…。
そう思った両親はあえて何も聞かなかった。
だが、三日たってもトニーは迎えに来なかった。
「ヴァージニア、何があったのか知らないけど、いい加減にしなさいよ!」
見るに見かねた母親がペッパーを諭したが…。
「今度は許せないの!向こうが謝るまで戻らないから!」
そう叫ぶと、ペッパーは自分の部屋へ向かった。
子供染みてるかもしれないが、何となく後に引けなかった。素直になれなかった。母親にはそう言ったものの、迎えに来ないトニーのことが心配だった。
あの日、なぜか分からないけど、気分が悪くイライラしていた。
それは、ここ数日見続けた夢のせいかもしれない。
目の前で敵に傷つけられるトニーに何もできなかった自分。
助けを求める彼に何もできなかった自分。
そして彼は…目の前で…それも、自分の腕の中で息を引き取った。
その悪夢は何度もペッパーを襲った。
目を覚まし、隣でトニーが眠っているのを確認しては抱きついて眠る日々。
そこへトニーが怪我をして帰ってきた。
いつもなら許せることなのに、自らを危険に晒し傷ついても、おちゃらける彼を妙に腹立たしく感じてしまった。
それに加えての今朝の夢…最悪の夢だった。
ボロボロのアーマーを着たトニー。ペッパーが近づくと、トニーは全身の至る所から血を流し始めた。手を握った時には、ペッパーの身体にまで血が飛び散るほど。苦しそうなトニーなのに、彼はペッパーの心配ばかりしていた。『あなたの方こそ、すごい怪我よ!』そう叫ぶと、繋いだ手が何かに無理やり離され、アー マーが音をたてて砕け散った。そしてトニーは血しぶきをあげ、まるで人形のように倒れた。『トニー!!』ペッパーは自分の叫び声で目が覚めた。
連絡一つないトニーに、その夢を思い出したペッパー。
すると、部屋に飾ってあった写真立てが突然床に落ち、ガラスが砕け散った。
「大変…」
慌てて写真を拾うと、二人で撮った写真のトニーの部分に大きな傷が入っているではないか。
(…何かあったの?そうよ…電話!もしかしたら、メールが届いてるかも…)
家を飛び出してから携帯の電源を切りっぱなしだったことを思い出したペッパーは、カバンから携帯を取り出し、電源を入れた。
トニーから何十件も電話とメールが届いていたが、喧嘩をした翌日の昼からは、プツリと連絡が途絶えていた。
それと入れ替わるかのように、社の人間とそしてローディからの連絡が1時間おきに入っていた。
一番新しいメッセージは今朝のものだった。
震える指で再生ボタンを押すと、ローディの悲壮な声が通話口から聞こえてきた。
『ペッパー。頼むから連絡くれ。今朝、容態が急変したんだ…。何とか持ち直したが…今夜がヤマだと言われた…。覚悟してくれと言われた…。トニーは…トニーは君を待ってる…。頑張っているが…もう……。頼む…ペッパー…』
(今夜がヤマって…。まさか…トニーが…)
ガタガタと震える身体を押さえると、ペッパーはトニーの携帯に電話をかけた。
だが、電源が入っていないと繋がらない。
(で、でも…テレビで何も言ってなかったし…)
震える身体を抱きしめ、他のメッセージを確認しようとした時、母親が血相を変えて部屋に飛び込んで来た。
「ヴァージニア…大変よ。トニーが…」
リビングのテレビでは、ニュース速報が繰り返し流されていた。
『繰り返します。速報です。アイアンマンことトニー・スターク氏が三日前、爆発に巻き込まれていたとの情報が入ってきました。スターク氏は現在も意識不明の重体です。一部情報では昨夜亡くなったとも言われています。スターク氏に何が起きたのかは、情報が錯綜しており不明ですが、今後のスターク・インダ ストリーズの先行きを不安視したためか、株価が……』
テレビが報道しなかったはずだ…速報ということは、誰も知らなかったのだから…。
(トニーが……。ど、どうしよう…)
ヘナヘナと座りこんだペッパーの顔は真っ青。座り込んだまま動かない娘を見た父親は、
「ヴァージニア、何してるんだ!行くぞ!」
と、ペッパーの手を引っ張り、車へ押し込んだ。
数時間後、テッドの運転で病院へ到着した頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
車を降りるとすぐにペッパーは待ち構えていた報道陣に囲まれた。
「ミセス・スターク!ご主人の容態は?」
「すでに亡くなったという情報もありますが?」
真っ青な顔をしたペッパーは震えるばかりで何も答えない…。いや、答えることができなかった。彼女はトニーの容態を知らないのだから…。
「急いでるんだ」
テッドは足の止まった娘を抱きかかえるように報道陣を掻き分け、病院内へと急いだ。
***
「トニー…頑張れよ…」
あれからローディは、ずっとトニーに付き添っていた。トニーの容態は一進一退していたが、今朝方急変してからは、悪化の一途を辿る一方だった。
どんどん脈が弱くなるトニーは、人口呼吸器を付けていても、もはや呼吸することも困難になり始めていた。
医師や看護師たちはモニターを見ながら処置を施している。
「ローズ大佐…」
トニーに声をかけ続けるローディに医師が声をかけた。
言いたいことは分かっている。だが、ローディは諦めたくなかった。何がなんでもトニーのことは助けてみせる。せめてペッパーが来るまでは…と。
「トニーはまだ頑張れる」
土気色の頬を撫でたローディの目から涙が一筋零れ落ちた。
「ですが…これ以上は…。ご本人も…」
辛いだけ…その言葉は聞きたくなかった。例えそうでも…トニーはペッパーを待っているのだから…。
「分かってる…だが、彼が一番会いたい女性がまだ来てないんだ…。こいつは待ってるんだ…。最後に会わせてやりたい…。それまでは…」
「トニー…」
背後からか細い声が聞こえ、ローディは振り返った。そこにはこの数日間、待ち続けていたペッパーの姿があった。
ベッドで眠るトニーの姿を見たペッパーは、顔色を変え口元を押さえた。その場に倒れそうになった娘を後ろにいた父親が慌てて支えた。
ペッパーに対するこの数日間の怒りが爆発したローディは、声を荒げた。
「ペッパー…!どうして連絡くれなかったんだ!トニーは…トニーは…ずっと待ってたんだぞ!!」
その言葉に、糸の切れた凧のように、フラフラと近づいたペッパー。トニーの手を握りしめると腕にすがりついた。
「ごめんなさい…。トニー…ごめんなさい…。知らなくてごめんなさい…。もっと早く来てあげればよかった…。もうどこにも行かないわ。ずっとそばにいるから…。愛してるわ…」
ポロポロと零れる大粒の涙がトニーの顔に落ちた。
すると、まるでペッパーを待っていたかのように、モニターがけたたましい音をたて始めた。
「トニー?」
モニターに表示された数字がどんどん下がっていく。
「すみませんが、外でお待ちください…」
トニーに抱きつこうとしたペッパーをスタッフが引き離した。
泣き叫ぶペッパーを抱きしめ廊下に連れ出したテッドは、娘を椅子に座らせた。
「ヴァージニア!しっかりしろ!トニーは大丈夫だ。必ず助かるから…」
父親にしがみついたペッパー。震える娘の背中をテッドは小さな子供を安心させるように撫で続けた。
バタバタと動き回るスタッフの間から、トニーが見える。
やがて、ピーという無情な音が廊下にまで聞こえてきた。
身体から離れた魂を呼び戻そうと、みな必死だった。
(トニー…お願い…。もう二度とそばを離れないから…お願い…)
ペッパーの祈りが通じたのか、数分後、ピッというか細い音と共に、トニーは戻ってきた。
その音を聞いたテッドは、娘の頭を撫でると立ち上がった。
「母さんに電話してくる」
ローディも知り合いに連絡してくると、立ち上がった。
一人残されたペッパー。震える身体をギュッと抱きしめたペッパーは、思い出したように留守電を再生し始めた。
『ペッパー…どこにいるんだ?』
『おい、ペッパー。電話に出てくれ』
『実家にいるんだろ?明日になっても戻らなかったら、連れ戻しに行くぞ』
何件も残されているトニーからのメッセージをペッパーは聞き続けた。
最後に残されたメッセージは、今までのものとは違っていた。
『ペッパー…すまなかった。私が悪かった。君が心配してくれているのは分かっている。私が傷つくことを恐れていることも…。これは私のやるべきことだとずっと思っていたが…もし君がやめろというなら…。だが、私は君を守りたいだけなんだ。私が一番怖いのは、君が敵に傷つけられることだ。君に敵の手が及ぶ前に片付けたい。それだけなんだ。私が闘い続ける理由は…。
ペッパー…君は私が何と引き換えても守りたい存在だ。君がいなければ、私は何もできない…。いつか君が言ったとおり、靴紐さえ結べないような男なんだ…。愛してる、ヴァージニア。だから、頼む…。戻ってきてくれ…』
分かってる…分かってるわ、トニー…。
あなたがやろうとしていることも…。あなたが命を掛けて守ろうとしているものも…。あの時…誓ったのに…。何があっても離れないって…。何があってもあなたのことを支えるって…。なのに…私…あんなことを…。
指にはめた絆を見つめたペッパーの目からは、次々と涙が零れおちた。
しばらくして、病室から医師が出てきた。
「ミセス・スターク…」
「せ、先生!トニー…主人は?」
立ち上がったペッパーを座らせた医師の表情は硬い。
「手は尽くしました。ですが…。覚悟して下さい…」
「そんな…」
言葉を失ったペッパーに一礼すると、スタッフはその場から立ち去った。
先ほどよりもたくさんの点滴やチューブが付けられたトニー。顔にもそして指の先も血の気はなく、今にも命の灯火が潰えそう。
「トニー…ねぇ、トニーったら…」
ベッドサイドの椅子に腰掛けたペッパーは、右手を握りしめた。だが、呼びかけてもトニーは反応しない。
「あなたの気持ち、ずっとそばにいた私が一番分かってるはずなのに…。あんなこと言ってごめんなさい…。私ね、あなたがそばにいてくれるだけでいいの…。 だから、お願い…置いていかないで…。愛してるの…。あなたがいなくなったら…私はどうすればいいの?お願い…トニー…。私を一人にしないで…」
肩を震わせ必死で涙をこらえるペッパー。病室の入口でその様子を見守っているテッドとローディの目からも涙が零れ落ちた。
翌朝、病院に駆けつけたシルヴィア。
ベッド脇に座り、トニーの手を握りしめたまま動かない娘の横顔は疲れ切っており、そしてひどく顔色が悪く、シルヴィアは心配になった。
「トニーは?」
隣に立つテッドは、真っ赤になった目を擦った。
「昨日は危なかったが、何とか持ち直したんだ…。だが…いつどうなるかは分からないと…。覚悟してくれと言われた…」
「そんな…」
涙をぐっと堪えたシルヴィアは、深呼吸すると病室へ入っていった。
「ヴァージニア?」
「ママ…」
振り返ったペッパーは憔悴しきっており、母親の姿を見ると、目からは新たに涙が零れ落ちた。
「少し休みなさい。ママが代わるから…」
「離れたくないの…」
そう言うと、トニーの方へ視線を戻した。
しばらくした後、ペッパーはポツリとつぶやいた。
「トニーに嫌われちゃったかしら…」
「ヴァージニア?」
見るとペッパーは身体を震わせ必死で涙を堪えている。
「ママ…私…酷いこと言っちゃったの…。好きにすればって…勝手に死ねばいいって…。そんなこと思ってないのに…。なのに…。どうしよう…ママ…。私が一番、彼の気持ちを分かってるはずなのに…」
「ヴァージニア…。大丈夫よ…。トニーはあなたの気持ち分かってるわよ…。大丈夫だから…」
「ママ…」
母親に抱きついたペッパーは、子供のように泣き続けた。
しばらくして、シルヴィアはペッパーに告げた。
「顔色が悪いわ。あなたまで倒れたら大変よ。ほら、少し休んで…」
「うん…」
立ち上がり、ソファに向かおうとしたペッパーだが、すっと意識が遠のき、その場に倒れてしまった。
「ん……」
気が付くとペッパーは病院のベッドに横たわっていた。
「ヴァージニア、目が覚めた?」
母親の声にキョロキョロと辺りを見回したペッパーは、ベッドの上に身体を起こした。
「トニーは?!」
首を静かに振った母親に、相変わらず目を覚ましていないと悟ったペッパーだが、自分がそばにいなければ…と、身体の向きを変えた。
「待ちなさい、ヴァージニア。話があるの」
シルヴィアがペッパーの腕を掴んだ。
「何?早く戻らな…」
その声を遮るように、シルヴィアは優しく微笑んだ。
「おめでとう。あなた、妊娠してるわ」
五日後…。
未だ目を覚まさないトニー。何とか落ち着いてはいるが、まだ予断は許さない状態は続いていた。
「トニー、目を開けてみない?」
毎日のように笑顔で話しかけるペッパー。いくら返事がなくても…呼吸器とモニターの機械的な音しか答えがなくても、話しかけていればきっとトニーは帰ってきてくれる…。それだけを信じて、ペッパーは笑顔でいると決めていた。
「今日はね、これを持ってきたの。大事な物を…」
カバンから取り出したのは、あのリアクター型の箱。蓋を開け、そっと指輪を取り出したペッパーは、トニーの手の甲にキスをすると指にはめた。
(このまま目を覚まさなくてもいい…ただそばにいてくれるだけで…)
そう思っていたペッパーだが、果たしてトニーはこのままで幸せなのか…、そう思い、この五日間ずっと心の中にある思いを吐き出した。
「トニー…あのね…。楽になりたかったら…。私のことは心配しないで…。私は大丈夫……」
ダメだった。やはりダメだった。口に出すとその思いは消え去り、虚しさだけが残った。
「ウソ…。大丈夫じゃないわ…。あなたがいないと…。トニー…お願い…目を覚まして…。もう耐えきれない…。あなたの声を聞きたいの…。抱きしめて欲しいの…」
声を押し殺して泣き始めたペッパーは、涙を隠すようにトニーの胸元に顔を付けた。
すると、小さな唸り声が聞こえ、ペッパーは慌てて顔をあげた。
「トニー?」
見ると、トニーのまぶたがヒクヒクと動いている。
「トニー?トニー!」
ペッパーの呼びかけに、ゆっくりとまぶたが開き、トニーの目が彷徨い始めた。
「トニー!私よ!ペッパーよ!分かる?」
右手を握りしめたペッパー。トニーの指がゆっくりと動きその手を撫で始めた。
だが、様子がおかしい。
顔を覗き込んだペッパーだが、トニーの視線は定まらない。そればかりか、見当違いな方向を見つめている。
不安を感じながらも、ペッパーはナースコールを押した。
全身の状態をチェックしていた医師が、相変わらず虚ろな目をしているトニーの前に指を一本差し出した。
「スタークさん、指を目で追って下さい」
焦点の合わない瞳で正面を見つめるトニー。だが、いくら待ってもその目は動かない。
「スタークさん?見えますか?」
医師の問いかけにトニーはゆっくりと口を開いた。
「…なにも…みえない…」
翌日、ペッパーと両親、そしてローディの前で、医師はトニーの状態を説明し始めた。
ひとまず容態も落ち着き、回復に向かってはいる。長期にわたるリハビリは必要だが、順調にいけば二ヶ月ほどで退院できるだろう。ただ、視力に関しては…神経は傷ついていない。一時的なものでしょう…。
そう言われたが、いつ回復するかは分からず、最悪の場合、永遠に視力は失われたまま…。そう宣告されたペッパーはトニーにどう言ったらいいのか迷った。
ドアの前で深呼吸をしたペッパーがドアを開けると、トニーは眠っているのか目を閉じていた。
そっとベッドに近づくペッパーに気づいたトニーが声をかけた。
「ペッパーか?」
昨日は喋る気力さえなかったトニーだが、今日はか細く掠れた声だが、幾分か元気を取り戻しており、ペッパーは安心した。
「よく分かったわね」
「君のことなら…何でも分かる…」
その言葉にクスッと笑ったペッパーは、椅子に腰をおろした。
「どう?痛むところはない?」
「あぁ…何とか…」
トニーの唯一動く右手がペッパーを探すように彷徨い始めた。その手をそっと掴んだペッパーは、トニーに告げなければ…と、言葉を選び話し出した。
「トニー…あのね…」
ペッパーの言おうとしていることが分かったのだろう。トニーはわざと明るい声でペッパーの言葉を遮った。
「ペッパー…。また見えるようになるか?」
「え…」
顔をあげたペッパーは、トニーが見えない目でじっと自分を見つめているのに気づいた。
「目だ。私の目は、元に戻るのか?」
「神経は傷ついてないそうよ。一時的なものでしょう…って…」
ペッパーの言葉に一瞬顔を曇らせたトニーの顔だったが、すぐに笑みがこぼれた。
「そうか…。では、いつかは戻るんだな。よかったよ。もう二度と君の顔が見れないかと思った」
ショックだった。急に奪われた視力。いつ戻るか分からない視界。もう二度と彼女の顔を見ることができないかもしれないと思うと、気が狂いそうだ。だがト ニーは、ペッパーを元気付けるために、無理矢理笑ってみせたのだった。それでも、ペッパーはトニーのその思いに気づいていた。
「トニー…」
頬をそっと撫でたペッパーの声は震えていたが、トニーはあえて気づかないふりをした。
「こんな状態じゃあ、もう無理だな…。君の言うとおりだ。もうやめればよかったよ…。あのまま死んでいたら、君に申し訳なくて…。死んでも死にきれなかった」
自傷気味に笑うトニー。
(彼が一番辛いのよ…)
こぼれ落ちそうになった涙をペッパーはぐっと堪えた。
「トニー…。大丈夫…大丈夫よ。あなたの目はまた見えるようになるわ。すぐに元気になるわよ。それに…」
不思議そうな顔をするトニーに、ペッパーは微笑みかけた。
「私ね、考えたの。あなたのどこに惹かれたのかって。あなたのどこを好きになって結婚したのかって…」
「どこだ?」
目を閉じたトニーは、まるでペッパーの顔を思い浮かべているようだ。
「全てよ。トニー・スタークの全てが好きなの。自分勝手で我儘で、自信家で子供みたいなところがあるところも、お酒が大好きで、派手好きなところも…。それとね…アイアンマンであることも…」
「ペッパー…」
ペッパーの言葉にトニーは見えない瞳を細めた。トニーの右手を握りしめたペッパーは、手の甲にキスをすると撫で始めた。
「私ね、あなたがどんな思いで戦っているか、理解してるつもりだったわ。ずっとあなたのことを見てきたんだもの…。それなのに、あんなことを言ってあなたを傷つけてしまった…。ごめんなさい…トニー。あの日ね、夢を見たの。あなたが傷付いて…私をおいていなくなる夢を…。だからあんなこと言ってしまったの…。でもね、あなたの気持ち、分かってる…。だって、十年以上、あなたのそばにいるのよ?それも、誰よりも一番近くにいたのよ?あなたが苦しんでいる姿も、頑張ってる姿も、喜ぶ姿も…私だけが全部見てたのよ?だから、やめないで。あなたはアイアンマン。あなたは世界に必要なの。あなたの助けを待っている人がたくさんいるもの…。あなたが戦い続ける限り、私は何があってもあなたを支えるから…」
「ペッパー…ありがとう…」
見えないトニーの目から、涙が零れ落ちた。
指先でその涙を拭い取ったペッパーは、トニーの手を自分の頬に当てた。
「それとね…嬉しいお知らせがあるの」
「何だ?」
ふふっと笑ったペッパーは、トニーの耳元に口を近づけた。
「あのね…妊娠したわ」
一瞬目を見開いたトニーだが、その顔にはすぐに笑顔が溢れかえった。
「本当か?」
「えぇ…ハネムーンのあなたの努力が報われたみたい」
くすくす笑うペッパーの手を握りしめたトニーは、涙をこらえるように鼻を啜った。
「そうか…早く見えるようになりたい…。今、君がどんな顔をしているのか…知りたい…。子供の顔も見たい…」
一ヶ月後。
トニーはめまぐるしく回復していき、まだ一人で自由には動けないが、支えてもらえば歩けるようになっていた。だが、目は見えるようになっておらず、何をするにも誰かの介助が必要だった。
「おはよう、トニー」
ある朝、病室へ入ろうとしたペッパーは、ベッドから起き上がろうとしているトニーを見て、慌てて駆け寄った。
「どうしたの?」
「いや…トイレに…。自分で行けるようになっておかないと…」
そう言うと、手探りでベッドの横に立てかけてある松葉杖を取ったトニーは、壁に片手をつき歩き出した。ペッパーは、トニーが倒れないようにそっと背中を支えた。
ベッドに戻ると、トニーは大きく息を吐き、ペッパーに視線を向けた。
「なあ、ペッパー。頼みがある」
見えなくても煌きは失われていない真剣な眼差しに、ペッパーはドキっとした。
「何?」
「キスさせてくれ」
「え?キス?」
そういえば、トニーの目が見えなくなってから、キスはペッパーからしていたのだ。
「あぁ…」
手を伸ばしたトニーだが、顔を触ろうとした手が空を切った。
「ここよ…」
ペッパーはトニーの手を取ると頬を触らせた。トニーは唇を顔に近づけたが、鼻にぶつかった。
「ここじゃないな… 」
ペッパーがトニーの頬を掴み唇を寄せようとすると、トニーはその手を払いのけた。
「ダメだ。私がする」
トニーの唇が頬にふれ、ペッパーはくすぐったそうに笑った。
「おかしいな。ここか?」
ようやく重なりあった唇。甘く柔らかな口づけに、二人はしばらくお互いの唇を味わっていた。
ペッパーの下唇を音をたてて離したトニーは、苦笑い。
「キスをするのも一苦労だな…」
「ホントね」
クスクスと笑いあっていた二人だが、ペッパーは先ほど担当医に言われたことを思い出した。
「もうすぐ退院できるわね」
「あぁ…だが…」
言葉を濁したトニーは、顔をしかめた。
「もしかして、迷惑かけると思ってるの?」
顔を伏せたトニーは、目を閉じた。
「今の私は、一人では何もできない…。君にキスすることさえできないんだ…」
悔しそうな…そして自分ではどうすることもできない無念さを感じたペッパーは、トニーをそっと抱き寄せた。
「迷惑なわけないわ。言ったでしょ?何があってもあなたを支えるって…。だって、私はあなたの妻なのよ?愛するあなたが苦しんでいる時に、放っておけるわけないわ。私はあなたがそばにいてくれれば、それでいいの…。だから、一緒に頑張りましょ?」
「ペッパー…」
胸元に顔を埋めたトニーの頭をペッパーは優しく撫で続けた。
そしてあの事故から二ヶ月。
退院したトニーは家に着くなりペッパーの手を借りてラボへ向かった。
「トニー様、おかえりなさい」
二か月ぶりの我が家。ジャーヴィスの声も懐かしく、トニーは目を閉じると息を吸った。
「ただいま、ジャーヴィス。早速だが、一仕事してくれ。私は目が見えない。何もできないんだ。だから…」
トニーの気持ちを理解している忠実な執事は、話を遮るように言った。
「お任せ下さい、トニー様。私がトニー様の目の代わりになります」
「頼んだぞ、ジャーヴィス」
安心したように笑ったトニーは、ペッパーの手を借りリビングへと向かった。
「トニー、そこは段差があるから気をつけて…」
リビングへ戻った二人。ソファにトニーを座らせると、ペッパーは
「紅茶でもいれてくるわ」
と、キッチンへ向かった
目が見えなくなり二ヶ月。視覚が奪われたトニーが頼る物は触覚と聴覚と嗅覚。今まで気付かなかった些細な物音にも気付くようになったトニーは、部屋の空気を吸い込んだ。
窓が開いているのか、波の音と海の匂いを感じる。
(ここは、こんなに静かなんだ…)
目を閉じその感覚を楽しんでいると、ジャーヴィスが来客を告げた。
「トニー、退院おめでとう」
やって来たのは、親友のローディ。
「やあ、ローディ。元気か?」
サングラスを掛けたトニーは、キョロキョロと辺りを見回したが、その顔は違う方向を向いており、ローディは胸が痛んだ。
トニーの隣に座ったローディは、親友の手を取り軽く叩いた。
「元気そうだな。よかったよ、トニー。お前とまたこうして話ができて」
「本当だ。ローディ、いろいろ世話になったな」
嬉しそうに笑ったトニー。その笑顔を見たローディは胸が締め付けられ、彼に謝罪しなければ…と口を開きかけたが、ペッパーがやって来たので口を閉じた。
「あら、いらっしゃい」
テーブルにカップを置いたペッパーはトニーの隣に座ると、
「トニー、これなら飲めるでしょ?」
と、アイスティーを手渡した。コップを持たせるとトニーは器用にストローで飲み始めた。
甲斐甲斐しく世話をするペッパー。その姿を見たローディは、あの事故以来、ずっと言えなかった言葉を二人に言おうと姿勢を正した。
「トニー、ペッパー…すまなかった」
頭を下げるローディに、トニーもペッパーも不思議そうな顔をした。
「なぜ謝るんだ?」
首を傾げたトニーだが、ローディは頭を下げたままだ。
「お前に怪我をさせたことだ。あの時お前に応援を頼まなければ、こんなことには…」
手探りで親友の肩に触れたトニーは、自分よりも大きな身体を抱き寄せた。
「よせよ、ローディ。気持ち悪い。頼むから今回のことは二度と謝るな。あれは私の不注意だ。私が油断した、それだけのことだ。いいか?次に謝ってみろ。この家から追い出すからな」
ニヤニヤと笑うトニーに、涙ぐんでいたローディは久しぶりに心の底から笑うことができたのだった。
夕食後、
「シャワー浴びてくる」
と立ち上がったトニー。
「一緒に行くわ」
と言うペッパーを制したトニーは、
「いや、大丈夫だ。一人で行ける」
と、ゆっくり歩き出した。
まだ足を思う通りに動かせないトニーは、杖を付きながら壁に手を沿わせ、バスルームへ向かった。
服を脱ぎ、手探りでバスルームへ入ったトニー。慣れ親しんだ我が家のため、どこに何があるかはある程度把握済み。
「トニー様、シャンプーは左でございます」
「これか?」
「いえ、それは、ペッパー様のシャンプーです。トニー様のは…いえ、それはボディーソープです…。シャンプーは、今触れられたものです」
ジャーヴィスの指示に従い、何とかシャワーを浴びたトニー。
(しかし、目が見えないのはこんなに大変なのか…)
それでもTシャツとスウェットを身につけたトニーは、寝室へと向かった。
何度も段差に躓き、階段では転倒しかけたトニー。
「この家は段差が多すぎるぞ」
小声で言ったはずの文句は、ジャーヴィスの耳にはちゃんと届いていた。
「トニー様がデザインされたのですよ」
「…そうだった…。だが、子供が産まれてみろ。心配だ。よし、リフォームするか」
やっとの思いで寝室へ辿り着いたトニーは、手探りでベッドへ向かうと横になった。久しぶりの慣れ親しんだベッド。トニーが大きく伸びをしていると、ペッパーが入ってきた。
「あら?無事にシャワーも浴びれたのね」
ベッドが軋み、ペッパーが隣に横たわったのを感じたトニーは、ペッパーを手招きした。
嬉しそうに身体を摺り寄せてきたペッパーを抱きしめていたトニーだったが、やはり疲れたのであろう。いつの間にか寝息を立て始めた。
「おやすみなさい、トニー…」
まぶたにキスをおとすと、ペッパーは明かりを消し、トニーに抱きつき目を閉じた。
翌日、トニーを着替えさせ、朝食を食べるのを手伝っていたペッパー。午前中にどうしても抜けられない会議があるため、出社の準備を始めた。
「トニー、一人で大丈夫?」
こんな状態のトニーを一人残しておくのは気が引けるが、そうかと言ってまだ顔色も悪く本調子ではないトニーを連れて出歩くのも心配だった。トニーが外に出れば、マスコミにあらぬことを書かれる…というのも一因だが…。
心配そうなペッパーに気づいたのだろう、トニーは笑顔で答えた。
「大丈夫だ。ジャーヴィスがいる」
トニーにキスをするとペッパーは
「何かあったらすぐに連絡してね。昼前には戻るから…」
後ろ髪引かれる思いで社へ向かった。
「さてと。何をしよう…」
ペッパーがいなくなり、急に手持ち無沙汰になったトニー。
ラボへ降りて行ったトニーはモニターの前に座ると、ジャーヴィスに指示を出した。
「あの爆発の前にアーマーが自動解除させられた。原因は?」
「強力なエネルギー波によって、アーマーの機能が強制終了しました」
「そうか…。よし、強化しよう。お前に任せる、ジャーヴィス。頼んだぞ」
「かしこまりました、トニー様」
今までのようにアーマーの整備もできない。ましてや、本を読むこともできない。
(ここにいても何もできない…)
立ち上がったトニーは、リビングへと戻って行った。
ソファに座ったトニーは、ニュースなら音声だけでも…と思い、指示を出した。
「ジャーヴィス、ニュースをつけてくれ」
CMだろうか、賑やかな音がしばらく聞こえていたが、ふと気がつくと自分の名前が聞こえたため、トニーは見えない目をテレビに向けた。
『…スターク氏は昨日退院し、自宅で静養中と公式発表がありましたが、誰もその姿は見ていません。人前に出ることができない、あるいはすでに亡くなっているという情報もあります…』
「言いたい放題だな…」
苦笑したトニーは、立ち上がるとキッチンへと向かった。
「トニー様、いかがされました?」
「水が飲みたいんだ」
ジャーヴィスに聞かれたトニーは、カウンターを手探りで触り始めた。
(確かペッパーがコップを出しておくと言っていたはずだが…)
カウンターを探っていたトニーの手が、並べてあったグラスに当たった。
ガシャーン!!
グラスは音をたてて床におち、破片が辺りに飛び散った。
「しまった…」
慌てたトニーは座り込むと、無意識に破片を拾おうとした。
「痛っ!」
左右の手に突き刺すような痛みを感じ、血が流れる感触がする。
「トニー様、危ないですから、そのままにしておいて下さい。ダミーに片付けさせます」
手探りでシンクまで行くとトニーは手を洗い始めた。だが、思いのほか傷は深いのか、血は止まることなく流れ落ちる。
四苦八苦していると階下からペッパーの声が聞こえた。
「しまった…」
ペッパーに見つかるとまずいと思ったトニーだが、何をするにも手探りなためモタモタとしていると、リビングに姿のないトニーを探してペッパーがやって来た。
「トニー!どうしたの!」
血まみれの手とTシャツ、そして床には砕け散ったグラスと血溜まり。
瞬時に状況を理解したペッパーは、トニーの手を取ると、そばにあったタオルで両手を包み込んだ。
「トニー、手当てするから、こっちに来て?」
「…」
俯き黙ったままのトニーの手を引き、ペッパーは寝室へと向かった。
「すまない、ペッパー…迷惑をかけてしまった…」
しょんぼりとするトニーの手に包帯を巻きつけたペッパー。
「思ったより傷は浅いし、これなら病院へ行かなくても大丈夫そうよ」
妊娠中の彼女に迷惑をかけまいと、負担にならぬようにと、できることは自分でやろうと決めたのに…。結局のところ、かえって迷惑をかけている…。
自分の不甲斐なさに情けなくなったトニーの目から小さな涙が一粒零れ落ちた。
トニーの涙に気付いたペッパーは、少し痩せたその背中を抱き締めた。
「トニー、私がいるわ。何があってもあなたのこと支えるから…。だから大丈夫よ…」
「ペッパー…」
彼女は強い。自分よりも数段強い心を持っている。彼女がそばにいてくれる。だから、どんな時でも頑張れるんだ…。
ペッパーを抱きしめたトニーは、唇にキスをおとした。舌を絡めるようなキスを繰り返しながらも、慣れた手つきで服を脱がせていく。
「あら?上手ね」
「当たり前だ。君のことだけは、見なくても分かる」
小さく笑ったトニーは、柔らかな胸を掴み、ペッパーをベッドへ押し倒した。
だが、やはり見えないとなるとどうもうまくいかない。
苦労するトニーを見たペッパーは、身体を起こすとトニーをベッドに横たわらせた。
「私がしてあげる…」
唇にキスを落としたペッパーは、トニーの上に跨った。
***
夜半にふと目を覚ましたトニー。抱きしめていた温もりは消え、気配すらない。
「ペッパー?」
起き上がり手探りでベッド下の下着を見つけたトニーは、バスローブを羽織った。
「ペッパー?」
名前を呼びながら壁伝いにゆっくりと歩を進めるトニー。
「ジャーヴィス、ペッパーはどこだ?」
「ペッパー様は寝室のバスルームへ行かれました」
ジャーヴィスに居場所を確認したトニーは、ゆっくりとバスルームへ向かった。
「ペッパー?いるのか?」
バスルームのドアは閉められている。遠慮がちに声を掛けるも、返事がない。
なぜだか分からないが、嫌な予感がしたトニー。
「ペッパー、開けるぞ?」
と、そっとドアを開けるが、ペッパーの声はしない。見えないトニーは状況が分からず困惑した。
「おい、ペ…」
その時、足元でかすかに呻き声が聞こえた。
「ペッパー?」
屈みこみ、手探りでバスルームの床を触っていると、柔らかい何か…間違いなくペッパーの腕なのだが…が手に触れた。
(倒れてるのか?!)
「おい!ペッパー!!どうしたんだ!」
その腕に触り身体を揺さぶると、
「とにー…おなかが…、おなかがいたいの…」
苦しそうな声と共にかすかに聞こえた妻の声。
「お腹って…。大変だ!おい、ジャーヴィス!救急車を呼べ!!」
(どうしてこんな時に…ペッパーが苦しんでいる時に、見えないんだ…)
ペッパーを抱き寄せたトニーは、目が見えず何もできない自分を恨んだ。
病院の冷たい廊下にトニーは座っていた。ペッパーが処置室に運ばれ、何時間経っただろうか…。祈るようにじっと座っていたトニーの耳にドアが開く音が聞こえ、トニーは顔をあげた。
「スタークさん…」
医師の声がし、トニーは立ち上がった。
「先生、ペッパー…妻は…子供は…」
恐る恐る尋ねたトニーに、医師の悲痛な声が聞こえた。
「…残念です…」
病室に入ったトニー。
「トニー…」
自分の名前を呼ぶか細い声がする方へ手探りで向かうと、ペッパーが手を伸ばしていたのだろう、トニーの手を握った。
「そこに椅子があるわ。座って…」
椅子を確認したトニーは、腰を下ろし、ペッパーの手を握り直した。
「ペッパー…その…」
何と言えばいいか分からなかった。
自分はもちろんだが、彼女はもっとショックを受けているに違いない…。
トニーの手を握り返したペッパーは、震える声で言った。
「ごめんなさい、トニー。私がもっと早く病院へ行けばよかったわ…。兆候はあったの。三日ほど前に出血して…。ごめんなさい…ごめんなさい…」
零れ落ちた涙が二人の繋がれた手の上に降り注いだ。
「ペッパー…いいんだ。子供の事は残念だが、君が無事だったんだから…。それにまだチャンスはある。そうだろ?」
「えぇ…。でも、あの子に会いたかった…」
「そうだな…。でもきっとまた、会いに来てくれるさ…」
そう言うと、ペッパーが鼻を啜るのが聞こえたのだろう。トニーは手を伸ばしペッパーの頬に触った。
一晩中付き添っていたトニーは、眠るペッパーの手をずっと握り締めていた。
なぜこんなことになったんだ…。なぜ、私の目は見えるようにならないんだ…。命に替えて守ると決めたのに、ペッパーに苦労をかけてばかりじゃないか…。ペッパーを悲しませてばかりじゃないか…。
先の見えない暗闇…。いつ戻るとも分からないこの状態。自分ではどうすることもできない闇…。
「すまない…ペッパー…。本当にすまない…」
声を押し殺したトニーは、一人静かに泣き続けた。
翌日ペッパーを連れて家へと帰ってきたトニー。
一晩中眠れなかったのだろう。トニーはひどく疲れた顔をしていた。
「トニー、少し眠って…」
「あぁ…」
ベッドに横になると、二人は自然に抱き合った。ペッパーの背中を黙って撫でていたトニーだったが、しばらくして重い口を開いた。
「ペッパー…すまない…」
悲痛なその声にペッパーの胸は締め付けられた。
「なぜ謝るの?」
頬にそっと触れるも、トニーはペッパーの方を見ず、言葉を続けた。
「この数ヶ月、私は君に苦労をかけてばかりだ。私の目が見えないばかりに、君の様子に気づいてやることもできなかった…。すまなかった…」
今回の出来事を、トニーは自分のせいだと思っている。自分が迷惑をかけているから…異変に気づいてやれなかったから…だと思っている。守ることができなかったと思っている。彼のせいではない…。ただ、不運なことが重なった結果なのに…。
「トニー…。謝らないで…。謝って欲しくない。これは、誰のせいでもないの…。だから…」
言葉を続けることができなかった。
ポロポロと涙を流すペッパーをトニーはそっと抱きしめた。
やがて、寝息をたて始めたトニーをペッパーはじっと見つめた。
トニーには言えないけど、数日前に夢を見た。
お腹にいる子供が成長した姿で夢の中に現れた。
「ママ…パパの目を治したい?」
彼に似た大きな煌めく瞳も持った我が子は、私にそう聞いた。
「治せるの?トニーの目を治せるの?」
叫ぶように言う私に、その子は言った。
「うん。でもね…犠牲を払わなきゃいけないの…」
「犠牲?」
「ママ、私もね、パパがまた見えるようになって欲しい…。ママのこともそして私のことも見て欲しいもの…。それにね、ママのいない所で、パパはいつも落ち込んでる…。辛そうにしてるの…。ママに迷惑かけてるって…。ママを今までのように愛してやることができないって…。それに、私のことも…。生まれてきても顔を見てやれない…。一緒に遊んでやれないって…。パパ…一人で泣いてたわ…。私ね、あんな辛そうなパパの姿、見たくない。だって、パパはヒーローなのよ。ママと私にとって世界でただ一人のヒーローなの。大事なパパなの…。だから…」
「ねぇ…もしかして…」
「ママ、私ね、またすぐにパパとママの子供として生まれ変わるから…。だから、待ってて…。すぐに会えるから…」
「ちょっと待って…ダメよ!」
「ママ、自分を責めないでね。これは、私が選んで、一人で決めたことだから…。それにね、神様は約束してくれたの。またパパとママの子供にしてくれるって…。さよなら、ママ…。ううん、さよならじゃないわ。すぐにまた会えるから…。またね…」
そう言うと、その子は光の中に包まれてしまった。
その子…娘は、最後までトニーにそっくりだった…。
そうよね…きっとすぐに会えるわね…。その時は、とびっきりの愛をあなたに与えてあげられるから…。パパとママとあなたと三人で、幸せになりましょうね…。
お腹にそっと触れたペッパーは、声を出さずに泣き続けた。
翌朝、目を開けたトニーは、今まで暗闇に閉ざされていたはずの世界が明るいことに気がついた。
目の前に手をかざすと、ぼんやりとだが形を作っている。
「ペッパー!!」
トニーの声に胸に顔をすり寄せていたペッパーが目を覚ました。
「どうしたの、トニー…」
目をこすりながら、トニーを見つめると、その顔には満面の笑みが浮かんでいるではないか。
涙で潤んだ瞳でトニーはしっかりとペッパーの瞳を捉えた。
「まだはっきりとは見えないが、ペッパー、見えるんだ…君の顔が…」
「ほんと?」
トニーの目が…見えるようになったの?
ペッパーの目にはみるみるうちに涙が浮かび、次々と頬を流れ落ちていった。
「あぁ…。君の目も…涙も…見えるんだ…。ペッパー…見えるんだ…」
トニーの目からも涙が一筋零れ落ちた。
「トニー…よかった…よかったわ…」
胸にすがりついたペッパーをトニーはギュッと抱き締めた。
「ペッパー…ありがとう…」
頭にキスを落としながら、トニーはそっとペッパーのお腹に触った。目を閉じ、夢の中で笑っていた自分そっくりの娘の姿を思い浮かべながら…。
(すぐに戻って来いよ。今度はお前のこと、守ってみせるから…)
二人とも傷つけちゃってすみません…(滝汗)