「よし!今日から頑張らなくっちゃ!」
目の前に広がる広大な会社に圧倒されたヴァージニア・ポッツは、真新しいスーツの裾を直すと、入口へと向かった。
卒業してすぐに就職したAIMという会社。理由は分からないが、社長である男性に気に入られた彼女は、大学を卒業したばかりにもかかわらず、社長アルド リッチ・キリアンの秘書に抜擢された。だが、仕事そっちのけで毎日のように「デートしよう」とキリアンに…それも少しオタクっぽい彼に誘われると、こっちには全くその気がないのだから、さすがに一か月もたたないうちに嫌気がさしていた。これも社会勉強と思い耐えていたのだが、キリアンの…というよりも AIM自体の方向性が学生時代見学に来た時とは180度変わってしまったのに薄々気が付き始めた彼女は、AIMを去るべきかと思案していた。そんなポッツは、ある日あのスターク・インダストリーズの秘書課が社員を募集しているという情報を友人に教えられ、会社には内緒で応募したところ、あっさり合格。
AIMを辞め、スターク・インダストリーズへ行くと告げると、キリアンには散々嫌味を言われた。『あのトニー・スタークの会社か?あいつは女たらしでろく でもない男だ』と。確かにトニー・スタークの噂は、どれも女性に関するものばかり。転職することを両親に告げた時も、その噂が理由で反対されたのも事実 だ。それでもポッツは自分の力を試したかった。全米屈指の…いや、世界でも有数の大企業で自分がどこまで通用するのか試したかった。配属先は総務課長の秘 書だから、スターク社長とは直接関わることなどない、だから大丈夫だと、この時のポッツは思っていたのだった。
「ポッツくんだったね?よろしく頼むよ」
自分の父親と同年代のグレイという男性が、彼女の新しい上司だった。
「よろしくお願いします」
ぴょこんと頭を下げた彼女にグレイはニコニコと笑った。
「ここは、社長と社員との書類の伝達部門のようなものなの。そうは言っても、今はほぼパソコンでのやり取りなんだけどね。でも、重要なものはまだ紙なの。それだけに大切な仕事なのよ。」
結婚退職する現秘書の女性は、やる気満々のポッツに数日かけて仕事を引き継ぐと、「頑張ってね!」と会社を去って行った。
次第に仕事にも慣れた彼女は、グレイにも「君は優秀だな」と褒められるほどの実績を残していた。
「ポッツ君、今日は楽しもうな?」
入社して数週間後の5月29日。
グレイとやって来たのは、社長であるトニー・スタークの誕生日パーティーだった。
大きなホテルの会場は、ドレスアップした社員や取引先の人間、そしてさすがはLA、俳優や女優やモデルなどの有名人の顔も見受けられ、ポッツは初めての経験に目を白黒させていた。
各方面に挨拶するグレイに付いてまわっていたポッツだったが、
「ポッツくん、あれがスターク社長だ」
と言われ、彼が指さした方向を見た。
数メートル先にいたのは、テレビや雑誌などでしか見たことのないトニー・スターク。たくさんの美女に囲まれた彼は、すでに酔っぱらっているのか、フラフラしている。
(何だかだらしないわね…。変な人)
何と言っていいか分からないポッツは、当たり障りのない事を口に出した。
「お若いんですね」
女子社員なら誰もが一度は…と思うトニー・スターク。それなのに、自分の秘書は彼を見ても何とも思わないらしい。
「あぁ…先代が―トニー様のご両親だが、社長が20歳の時に突然事故で亡くなってね…」
グレイの言葉にポッツは入社前にインターネットで調べたスターク・インダストリーズの社歴を思い出した。
先代であるハワード・スタークが急死した後、息子であるトニー・スタークが21歳の若さでCEOに就任。トニーがCEOに就任してからは、飛ぶ鳥落とす勢いで会社はますます発展している。好意的に書いている記事もあれば、武器商人だの、殺人兵器で金を稼ぎ女は一晩で捨てる…という否定的な記事もあり、とにかくメディアはトニー・スタークのことを連日連夜追いかけ回していた。
遠目でじっとトニーを観察していたポッツだが、気がつくと酒のグラスを片手に数人の美女を従えたトニー・スタークは、どこかへ消えていった。
「さて、帰ろう」
主役の消えたパーティーは、自然とお開きになり、ポッツもグレイに連れられ会場を後にした。
「社長って…女性にだらしない方なんですか?」
車に乗り込むや否や、ポッツはグレイに尋ねた。彼女の問いに目を丸くしたグレイだが、真剣な眼差しを捉えるとどこか遠くを見るように語り始めた。
「そうだな…。確かに社長は、毎晩違う女性を相手にしているらしい。でも、ポッツくん、私は思うんだ。トニー様はさみしいんだ。実は、生前のお父上との仲 もあまり良好なものとは言えなくてね。ハワード様は一人息子のトニー様に期待していた。年をとってから授かったから余計にだったのかもしれない。優秀なト ニー様はお父上の期待に応えるように頑張っていらっしゃった。それをハワード様も分かってはいらっしゃったが…言葉では厳しいことばかり言われていた。次 第にトニー様はハワード様を避けるようになってね…。それが突然亡くなられてしまった。トニー様はよく言われるんだ。『親父は自分のことを愛してなかっ た』と…。だから、トニー様は探されているんだよ。ありのままのトニー様を受け止めて包み込んでくれる相手をね…。だからああやって毎晩違う相手を求めて いるのかもしれないな。トニー様は、その相手に巡り合っていらっしゃらないんだ…」
冗談を言い周りの人を笑わせていたトニー・スタークだが、とても寂しそうな目をしていたことをポッツは思い出した。
もしかしたら、メディアを通してみる彼は、トニー・スタークという仮面をかぶっているのかも…。そうなら、それはとても悲しいこと…。
「早く巡り会えるといいですね…社長のことを心から愛してくださる方と…」
瞬きした瞬間に、ポッツの目から涙が一粒零れ落ちたのに気づいたグレイは、黙ってハンカチを差し出した。
数日後の6月のある日。
「ポッツくん、悪いがこの書類のチェックを手伝ってくれないか?今日中に取引先に出さないといけないんだ」
「分かりました」
デスクに座りグレイから受け取った書類に目を通し始めたポッツ。何百枚もある書類を素早く丁寧にチェックしていた彼女だが、最後の一枚で概算が一桁足りないことに気付いた。このまま提出されれば、スターク・インダストリーズは大損害を生じることになるだろう。
(誰が最後に確認したのかしら?)
パラパラと書類をめくっていたポッツだが、その分厚い冊子の表紙に、トニー・スタークの名前があることに気づいた。
慌ててグレイに報告に行くと、顔色を変えた彼は社長室へと走って行った。
それから10日ばかり経った、6月12日の午後。デスクに向かい、グレイのスケジュールを確認していると、突然総務課の入口がざわめき立った。
「社長!」
入口に目を向けたグレイが慌てて立ち上がり、トニーに駆け寄った。
数年に一度くらいしか総務課へなどやって来ない社長が突然やって来た。女子社員は色めき立ち、何とかこの機会にお近づきになろうと、一斉にメイクを直し始めた。上司が立ち上がったので、ペッパーも立ち上がると、彼の後ろへ控えた。
「どうされたんですか?何か不備でも…」
大汗をかくグレイだが、トニーは彼の肩を気さくに叩くと笑みを浮かべた。
「おいおい、私がここへ来たらダメなのか?そんなに緊張するな」
ハハハと笑ったトニーは、キョロキョロと辺りを見回した。
「ところで、この間の書類の件だ。あのミスを発見してくれた功労者を探しにきたんだ。君の秘書の…」
トニーの言葉に顔を輝かせたグレイは、自分の後ろにいたポッツを引っ張り出した。
「彼女です」
状況が分からないポッツは、戸惑いながらもトニーの顔を見つめた。しばらくお互い見つめあっていた二人だが、トニーに微笑まれたポッツは、胸がドキドキし始め顔を真っ赤にすると視線を逸らした。
「確か、ポッツくんだったな?」
「は、はい!」
優しい声で名前を呼ばれたポッツが慌てて顔をあげると、真剣な眼差しをしたトニーがいた。
「君のおかげで、会社はダメージを受けずにすんだ。ありがとう。ところで、君さえよければなんだが、私の秘書になってくれないか?」
『社長の秘書』
その言葉に、聞き耳を立てていた社員がざわめいた。何があったのかは知らないが、社長の秘書になるなんて大抜擢だ。ざわめく室内に大変なことになったと気づいたポッツは青ざめた。
「え⁈し、社長の秘書ですか⁈」
口をパクパクさせるポッツに、トニーはさらに優しい声で続けた。
「あぁ、そうだ。それも個人的な秘書(PA:パーソナルアシスタント)なって欲しい。会社のこともだが、プライベートの管理もだ。あの小さなミスを見つけ てくれた君だ。きっと上手く取り仕切ってくれるだろ?それに、君のこと、気に入ったんだ。君となら私は上手くやっていけそうだ。どうだ?受けてくれない か?」
社長のPAになるのは、会社中の女子社員の憧れ。そのまま妻の座に座ることだって可能なのだから…。だがポッツは別のことを思い浮かべていた。あの時…パーティーで見たトニーのさみしそうな顔を…。私がそばにいることで、少しでも彼が本当の自分をさらけ出せるのなら…
そして本当に愛しあえる相手と巡り会えるのなら…その手助けができるなら、この仕事、引き受けたい…と。
「わ、私みたいな若輩者でよければ…」
トニーの視線を捉えたポッツは、にっこりと微笑んだ。その笑顔は、なぜだか分からないが、トニーの気持ちを…孤独な心を温めてくれた。
「あぁ、君がいいんだ。そうとなれば、早速今日から頼む。とりあえず、ランチでもどうだい?お互いのことを知らなければ仕事にならないだろ?」
「は、はい!」
急いで自分のカバンを持ったポッツの手を握ったトニーは、女子社員の悲鳴が上がる中、部屋を出て行った。
後部座席にポッツを押し込んだトニーは自分も隣に座ると、せっかくだから…と、海沿いにある有名なレストランの名前を運転手に告げた。
「そういえば、君の事は何と呼べばいい?ヴァージニアくんじゃあ…長いな。ニックネームとかないのか?」
「両親や友達からは、ジニーって呼ばれていましたけど…」
ジニーか…と呟いたトニーは、ジッとポッツの顔を見つめた。
「うーん。そうだな…。そうだ、”ペッパー”はどうだ?そのそばかすがかわいらしい」
「ペッパーですか?」
その響きが気に入ったポッツ…ペッパーは、にっこり笑うと頷いた。ペッパーの手を取ったトニーは、自分よりも小さな手をそっと握りしめた。
「あぁ。私のことはトニーと呼んでくれ。お互い気楽に行こう。君のこと、もっとよく知りたいんだ。そうじゃないと、仕事にならないだろ?帰りは家まで送って行くよ。だが、その前に私の家へ来ないか?」
いきなり家へ?と、思わず顔を顰めたペッパーに、トニーは慌てたように付け加えた。
「い、いや…その…決してやましい意味ではなくて…。君にぜひ見てもらいたいものがあるというか…。私の趣味で作った物があるから…」
真っ赤になったトニーは頭を掻くと照れ臭そうに笑った。普段見せている姿とは程遠いトニーの表情や仕草にくすっと笑ったペッパーだが、トニーは怪訝そうな顔をした。
「何だか社長…いえ、トニーって噂とは違うんですね。私もあなたのこと、もっとよく知りたいです。よろしくお願いします」
頭を軽く下げたペッパーは、自然とトニーの手を握りしめた。9歳も年下のペッパーは妹のようであり、そして最高の友人になってくれるような気がした。
「あぁ、ペッパー。こちらこそよろしく」
15年後……。
「ポッツくん?」
波打ち際で遊ぶ夫と娘を見つめていたペッパーは、懐かしい声に振り返った。年こそとってはいるが、目の前で笑っている男性は、スターク・インダストリーズに入社してすぐに自分の上司になったグレイだった。
「お久しぶりです」
笑顔で駆け寄ったペッパーをグレイは眩しそうに見つめた。
「元気そうだね。ポッツくん…いや、もうミセス・スタークだな」
「はい。最後にお会いした時は、まだ一応ポッツでしたけど」
フフっと笑った表情は初めて出会った頃と変わりなく、グレイも自然と笑みを浮かべた。
少し離れた所にいるトニーと、それを優しく見つめるペッパーを見比べたグレイは、目元をそっと押さえた。
「トニー様は幸せそうだな。あの頃と違って…。ハワード様とマリア様にも見せて差し上げたかった…」
「本当ですね…」
15年前に交わした会話を思い出した二人は、娘と座り込み砂で何か作っているトニーを見ていたが、おもむろにグレイが口を開いた。
「あの時、君が社長の秘書になってくれてよかったよ。私には先見の明があったというわけだ」
「え?」
どういうことかしら?と首を傾げたペッパーに、グレイは言おうか言わまいか迷っているようだったが、頭を軽く叩いた。
「いや…恩着せがましくなるから実は黙っていたんだが…もう、時効かな?あの時…あの書類を持って行った時、社長は誰が見つけたのかとは聞かなかった。だ が、なぜかは分からないが、君なら社長と合うのでは…と思った私は、取っ掛かりを作ろうと思ってね。不備を見つけたのは君だと社長に言ったんだよ。それに 社長は食いついた。小さなミスを見つけたこともだが、普通なら手柄を立てようと、自ら持って来てもよさそうなものなのに、そうしなかった君の姿勢にね。そ の時は君の名前だけ告げて私は退室したんだ。だが、数日後、社長に呼ばれた。『君の言っていたヴァージニア・ポッツくんを調べた。詳しく話を聞かせてく れ』ってね」
初めて聞く話だった。もしあの時、彼が言ってくれなければ、自分たちは何の接点もなく過ごしていたかもしれない…。
「そうだったんですか…。じゃあ、お礼を言わなくちゃいけませんね。あなたはトニーと私を出会わせてくれた方ですもの。ありがとうございます」
頭を下げたペッパーにグレイも頭を下げた。
「いや、ポッツくん。私の方がお礼を言いたいんだ。トニー様のことを支えてくれてありがとう。実はハワード様とは旧知の仲でね…。彼にはトニー様のことを 頼むとよく言われていたんだ。最もトニー様は知らないだろうし、これからも秘密にしておいて欲しいんだけどね。ポッツくん、これからもトニー様のことを頼 むよ…」
「はい。任せて下さい。それにしても、グレイさんには秘密が多いですね」
楽しそうに笑ったペッパーは、無意識に少し目立ち始めたお腹に手を当てた。
「おや?もしかして…」
「はい、二人目が…」
はにかんだペッパーは、お腹をそっと撫でた。その表情から、グレイは二人が今、どれほど幸せに暮らしているのか理解した。
「では、ポッツくん。元気で…」
「はい。グレイさんも…」
軽くハグをしあうと、グレイはゆっくりと立ち去った。
「ママー!パパがね、ころんじゃった!」
可愛らしい声に振り返ると、小さな女の子がペッパーの元へ走り寄り、その後ろで全身ずぶ濡れのトニーが楽しそうに笑っている姿が見えた。
「トニーったら!何してるのよ!病み上がりなのに風邪引いたらどうするのよ!」
足元のカバンからタオルを取り出したペッパーは慌ててトニーの元へ走って行った。
そんな幸せな三人の姿をしばらく見守っていたグレイだが、何度も頷くと空を見上げた。
(ハワード様、マリア様…安心して下さい…。トニー様は幸せに暮らしていますよ…)
トニペパの出会いを捏造。ペッパーがAIMにいた設定はIM3から。ちなみに「変な人」と言うのは、社長の中の人の奥さまが初めて出会った時に思ったことだそうです(笑)