021.びくともしない力

 「彼の子供よ」
突然訪ねて来た女性。10歳くらいの男の子を連れたその女性は、ペッパーに向かって言い放った。
「彼って……」
分かっていた。『彼』が誰を指すのかは…。だが、すぐには信じられなかった。認めたくなかった。その名前を自分の耳で聞くまでは…。
「分かってるでしょ?トニー・スターク。あなたのご主人と言った方がいいかしら?」
顔面蒼白のペッパーに視線を向けた女性は、勝ち誇ったように言った。

「ハンク、ほら、見てみなさい。この会社はあなたが継ぐのよ?」
「僕、いいよ…。それより、ママ?早く帰ろうよ」
社の応接室に通されたリンダ・ブルックと名乗った女性と息子のハンクの会話をハッピーはドアの隙間から聞いていた。
トニーと違い一度会った人物は…例えそれがトニーの一夜限りの女性でも記憶しているハッピーだが、『リンダ』という女性に覚えはない。彼女の言う夜は11年前のことらしい。11年前はハッピーにとっても忘れがたい年だ。なぜならトニー・スタークが生涯を共に過ごすことになった女性と出会った年だから…。
件の女性をチラリと見ると、必死で涙を抑えているのだろう。唇を噛み締め俯いたまま座り込んでいる。

恋人になる前、彼にはたくさんの女性がいたのは知っている。『一夜限りの女性だったし、本気になったのはペッパーだけ』と言った彼の言葉には嘘偽りはなく、それは今でも信じている。だが、彼女は私がまだ彼に与えていないものを持っている。
悔しかった。情けなかった。彼のことを世界一愛しているのは自分なのに…。どうして彼が欲しがっているものを与えるのが自分ではないのか…。

「ペッパー…」
顔を上げたペッパーだが、目の前に青ざめたトニーが佇んでいるのに気付くと立ち上がり彼に抱きついた。
「と、トニー…わ、私…私…」
それまで抑えていた感情を吐き出すかのように、ペッパーは声を押し殺して泣き始めた。トニーも内心は泣きたかった。叫びたかった。なぜ今頃になって現れるのかと。ペッパーをまた苦しめることになったと。過去の自分を恨めしく思った。だが、まだ自分の子供と決まったわけではない。深呼吸をして気持ちを落ち着けたトニーはペッパーの背中をゆっくりと撫でると頬に何度もキスをした
「ハニー、ペッパー…君を苦しめることになってすまない。だが、今の私に必要なのは君だけだ。それだけは信じてくれ。私たちの絆は、誰も裂くことはできない、だろ?」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げたペッパーは、トニーの言葉に小さく頷くと、彼のジャケットを握りしめた。

ペッパーが落ち着くと、トニーは彼女の手を取り部屋へと入って行った。トニーを見たリンダは立ち上がると、共に立ち上がった息子を前に出した。
「久しぶりね、トニー。今日は話があって来たの。わざわざイギリスからよ。この子はあなたの子供。11年前、プラハで…」
目の前の女性の顔にも名前にも覚えはないが、そもそも一夜限りの女性のことは正直なところ覚えていない。だが、『11年前のプラハ』と聞いたトニーは眉をひそめた。
「11年前のいつだ?」
その迫力に一瞬怯んだリンダだが、彼女も必死だった。
「…3月よ。あなたはプラハであったパーティーに来てた。そこで私たちは出会ったの。覚えてないの?」
噛み付くように言うリンダをジロっと睨んだトニーは、後ろに控えているハッピーを振り返った。ハッピーは一歩前に出ると、わざとらしく咳払いをした。
「ボスは11年前の3月、アメリカ…いや、マリブにいた。だからプラハには行っていない」
ハッピーの力強い言葉にリンダは絶句し、ペッパーは目を白黒させた。
「どういうこと?」
顔面蒼白のリンダをチラリと見たトニーは、震える声で尋ねるペッパーの方を向くと優しい眼差しで見つめた。
「あぁ。11年前といえば、ペッパー、君と出会った年だろ?君が私の秘書になったのは6月だが、実はその年の初めは…」
言葉を切ったトニーの後をハッピーがすかさず続けた。
「ボスは骨折して入院してたんですよ。カナダでスキー中にね。それが年が明けてすぐの1月」
スキーで骨折?そんな話は聞いたことがない。というのも、トニーのスキーの腕前はプロ並みで、ペッパーも彼からスキーを教わっていたのだ。
「そんなことがあったの?」
驚くペッパーにトニーは気まずそうに鼻の頭を搔いた。
「あぁ…。私はスキーが上手いと思ってるだろ?実際にそうだが…。君に無様な所は見せたくなかった。都合のいいことに、君と出会う前の出来事だ。だから黙っていればバレないだろうと思い、話さなかった」
トニーの様子から推測するに、どうやら大怪我だったらしい。
「そんなに大怪我だったの?」
不安そうなペッパーの手を握り直したトニーは、11年前のことを思い起こしていた。
「あぁ…。斜面を転がり落ちて…木にぶつかった。鼻は折るし、両脚は複雑骨折、腰の骨は折れて…それから背中を酷く痛めてしまった。結局2ヶ月以上寝たきりで、退院したのは4月に入ってからだった。それからリハビリに1ヶ月近くかかって、やっとパーティー三昧の生活に戻れたのは誕生日の日だ」
11年前の誕生日と言えば、SIに入社したばかりのペッパーが、初めてトニーを見た日だ。そういえば、あの時の彼は妙にはしゃいでいたが、そういう事情があったのをまさかこういう形で知ることになるとは…。
「あのパーティーの日だったのね」
なぜか納得した顔をしているペッパーの様子に、彼女もあのパーティーに来ていたことを思い出したトニーは苦笑した。
「そうか、君も来てたんだよな。ちなみに、パーティーの後は仕事が忙しくて、遊びに出るなんて余裕はなかった。そしてあの日だ…6月12日に君と出会ったんだ。それからのことは君が一番良く知ってるはずだ」
ペッパーの頬をすっと撫でたトニーは黙ったままのリンダの方へ向くと、ややきつい口調で告げた。
「つまり、君の言う3月、私は病院のベッドの上で退屈していたんだ。証拠ならあるぞ?病院でカルテを見てくるといい。看護婦にちょっかいを出して怒られたことが書いてある」
どうだ?と言うようにリンダを見つめたトニーだが、彼女は黙ったまま何も言わない。
「何が目的だ?」
静かに問うトニーに、我に返ったリンダは鞄を漁り何かを取り出した。
「嘘よ…。だって、彼…トニー・スタークだって!そう名乗って誘ってきたのよ?!名刺だってもらったわ!ほ、ほら!これよ!」
だが、差し出された名刺にトニーは見覚えはなかった。名刺を受け取ったハッピーは表や裏を眺めていたが、首を振ると彼女に名刺を返した。
「これはボスの名刺じゃない。住所も電話番号もデタラメだ。つまり…その…」
言いにくそうにチラリと視線を送ってきたハッピーの後をトニーは先ほどまでとは違い労わるような視線を彼女に向けた。
「私を名乗る偽物だったんだ」
「そんな…」
11年間騙されていたと気づいたリンダは、その場に崩れ落ちた。
まさか自分の名を語り、罪のない女性を騙している奴がいるとは…。自分の知らぬ所で行われていたことに、トニーは思わず唇を噛み締めた。

泣くばかりのリンダにペッパーはどう声を掛ければいいのか分からなかった。自分は心からトニーと結ばれ幸せなのに、彼女は10年以上もの間信じていた物が崩れ去ってしまったのだから…。
チラっとトニーを見ると、彼はペッパーの手を握り直すと手を離しリンダの方へ向かった。
俯き座り込んだままのリンダの傍にしゃがみ込んだトニーは、彼女の肩にそっと触れた。
「ほら、泣くな。信じていたものが嘘だったのは残念に思う。だが、あの子は君の子供だ。それは嘘ではなく本当のことだ。そうだろ?」
トニーの言葉に顔を上げたリンダは小さく頷いた。彼女の左手に銀色に光る指輪があるのに気付いたトニーは、今日初めての笑顔を見せた。
「今、君を大切にしてくれる人を大事にしろ」
その笑顔につられるように微かに笑みを浮かべたリンダは、涙を拭うとトニーとペッパーに向かって頭を下げた。
ペッパーに向かい小さく頷いたトニーは、応接室に置いてある科学雑誌を目を輝かせて読んでいる少年の元に歩み寄った。
「ハンク…だったか?なんだ、科学が好きなのか?」
突然話し掛けられ、ビクッと身体を震わせたハンクは、相手があの憧れのトニー・スタークだと気付くと直立不動になった。
「は、はい!大好きなんです」
緊張を隠せない少年に笑いかけたトニーは、彼の頭をクシャっと撫でた。
「そうか。せっかく来たんだ。見学して帰るか?」
「い、いいんですか?!」
母親の思い込みで迷惑を掛けたのに、どうしてこんなに親切にしてくれるのかと、ハンクは不安になった。少年の目に不安の色を見つけたトニーは、彼を安心させるように背中をポンっと叩いた。
「あぁ。今日君と知り合ったのも、何かの縁だ。案内させよう」

トニーのサインをもらい、案内係を仰せつかった社員と共にハンクは部屋を飛び出して行った。喜びを隠しきれない息子の後を追いかけるように、何度も頭を下げたリンダも部屋を出て行った。

ようやく二人きりとなり、室内は静けさを取り戻した。
「ねぇ、トニー…。その…」
しばらくして口を開いたペッパーだが、言いにそうに言葉を濁した。ペッパーの言いたいこと…それはおそらく子供のことだろう。あの事件から数か月。いい知らせを告げることがなかなかできないことをペッパーはとても気にしているのだ。そこへ今日の事件だ。誤りだったとは言え、『自分の息子』と名乗る少年が現れたのだから…。
俯いたままのペッパーを抱き締めると、トニーは頭に優しくキスをした。
「言わなくていい。君の言いたいことは分かっている。いいんだ。ペッパー。今は君がそばにいて支えてくれるだけで十分だ。それに、きっといつか会える…。そうだろ?」
小さく頷いたペッパーは大粒の涙を零したが、その涙が癒えるまでトニーは彼女を抱きしめ続けた。

社長に隠し子がいてもおかしくない気もしますが…

2 人がいいねと言っています。

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