あれから2ヶ月経った。
もうすぐクリスマス。去年の今頃は、クリスマスの準備を家族で楽しくしていた。トニーは毎年張り切ってツリーを買いに行っていたが、年々巨大化していくツリーに、ペッパーはいつも呆れ果てたようにため息をついていた。
が、今年はそのトニーがいない。いや、今年だけではない。これからずっと彼のいないクリスマスを過ごさねばならないのだ。
トニーが恋しくなったペッパーは、モーガンが寝静まった後、葬儀の日に見たあのホログラムを再生することにした。
あの日以来、あのアイアンマンのヘルメットはリビングに置いてあった。トニーがいつも座っていた場所に…。トニーがそこで見守ってくれている気がしたから…。
それを手に取ったペッパーは、台の上に置いた。そして自分はソファに座ると、膝を抱えた。
「F.R.I.D.A.Y.、再生してくれる?」
A.I.に頼むと、ホログラムが浮き上がった。が、あの時とは違う、見たことのない光景が流れ始めたのだ。
「え…」
どこかの家のようだがトニーの姿は見えない。トニーは別の映像を残していたのかしら…とペッパーが考えていると、ガサガサと音がし始めた。そして…。
「やぁ、ペッパー…」
か細いがトニーの声だ。
「元気にしてるか?君も、モーガンも…」
声はするのに、トニーの姿は現れない。こういうものには自分の姿を残しておきたい彼にしては珍しいことだ。
首を傾げているペッパーをよそに、トニーの声は続いている。
「ペッパー…話しておきたいことがある。いいか、椅子にしっかり座ってくれ。それから…夜だったら…絶対に叫び声をあげたりするなよ…。モーガンが目を覚ましたら可哀想だ…」
ペッパーはゴクリと唾を飲み込んだ。トニーは一体何を話そうとしているのだろうかと…。彼には自分に隠していた秘密でもあったのだろうか…。目を見開いたペッパーは、身を乗り出しトニーの言葉を待った。
「ペッパー……隠していることがある。それは…」
カメラが動いた。すると、トニーの姿が現れた。しかも、顔の右半分は包帯に覆われ、チラチラ映る胸元も包帯が見え隠れしているではないか。
つまり……今映っているトニーは……あの戦い後のトニーということだろうか…。
「ど、どういうこと…」
トニーは死んだのに、どうして死んだはずのトニーが話しているのかと、ペッパーは頭を抱えた。心臓は激しく鼓動を打ち始め、ペッパーは何度も何度も深呼吸をした。トニーの方も何度か深呼吸をすると、口を開いた。
「ペッパー、私は生きている」
ペッパーはポカンと口を開けたまま凍りついた。30秒ほどそのままだったが、叫び声をあげそうになり、慌てて口を押さえた。
トニーが生きている。
一体どういうことなのか分からないが、喜びと同時に、どうして黙っていたのかという怒りも込み上げてきたペッパーは、そばにあったクッションを投げつけてやろうかと手に取った。
するとトニーはペッパーが怒り出すのは想定内であったのだろう。
「怒らないでくれよ。これには事情があるんだ。頼むから、クッションを投げるなよ」
どこかで見ているのではと、行動を見透かされたペッパーは、クッションを抱きしめると
、ホログラムのトニーを睨みつけた。
「怒るのは、話を聞いてからにしてくれ。あの時…私はタイムストーンを使った。そして未来を見た。4つの未来を見たんだ。1つ目は、石を使ったことで私が死ぬ未来。だが、私の死後、君たちも…殺される未来だ。2つ目は、私は助かり、君たちが代わりに死ぬ未来。3つ目は…君たちは生き残る。そして私も生き残るが…やはり君たちは殺されてしまう…。4つ目は…君たちは生き残り、私は死ぬ。だが、私は本当に死んだ訳ではなく、死んだふりをする。そして君たちは私がそばにいないことで、いつまでも幸せに暮らす未来だ…」
するとトニーが寂しそうに少しだけ笑みを浮かべた。
「君たちが命を落とす未来なんて選べる訳ないだろ?だから選択肢は1つしかなかった。私が死を偽装する未来だ。君たちにも知らせず、私は誰にも見つからない場所で、密かに生きていく…。そうすれば君たちはずっと平和に暮らしていけるんだ…。だが、その未来は、ペッパーとモーガンを騙すことになる…。一生嘘をつき続けなければならない…。それでも、こうするしかなかった。
すまない、ペッパー。君たちを守るためには…。すまない…本当にすまない…。少なくとも君には知らせるべきかもしれない…そう思った。私だって…君とモーガンのそばにいたいに決まってる…。だが…知らせれば…君たちが危険にさらされる可能性がある…。だからな…、私は死んだことにしておけばいい。私が我慢すればいいだけだ…。君たちのそばにいたいという気持ちを殺して…。そう思い、黙っていようかと思った。だが…」
トニーの左目から涙が零れ落ちた。
「魔法使いには私の計画は隠せなかった。あいつは私が生きていることを知っているし、今も何かと世話をしてくれている。その魔法使いが言ったんだ。お前の妻と娘は毎日泣いている。見ているのが辛いくらいだ…と。だから妻にだけは事情を話せと…。それでも私は話すまいと考えた。君を苦しめたくなかったから…。だが…別の方法で私が生きていることを君が知ったら?その方が辛さが増すに決まってる…。そう考え、いつかこのホログラムを君が見てくれるかもしれないと思い、残すことにした。ペッパー……ハニー……本当にすまない…。だが…こうするしかないんだ…。そばにいることは出来ないが…君とモーガンのことは…世界一愛している…」
映像は終わった。
そして部屋は再び静まり返った。
「トニー……」
ペッパーは涙が止まらなかった。
彼は生きているのだ。
先程感じた怒りは消え去り、喜びがどっと押し寄せてきた。だが、同時に悲しみも…。
自分たちを守るためと言えども、そばにいられないなんて辛すぎる。彼はきっとそばにいて欲しいと願っているはずなのに…。
だが、自分たちがそばにいると、彼を苦しめてしまうのも確かだ。
それでもペッパーは、トニーのそばにいたかった。そこで翌日、彼女はストレンジを訪ねることにした。が、どうやって連絡を取ればいいのか分からないため、以前トニーから教えてもらっていた家へ直接行ってみることにした。
が、ノックしても返事がない。ドアには鍵がかかっておらず、そっと開けたペッパーは家の中を覗き込んだ。
「すみません…」
誰もいない玄関で声を掛けると、何処からともなく返事が聞こえた。
「スタークの妻か?」
ストレンジの声だ。顔を上げると、階段の上に、トニーの葬儀の時に会った男がこちらを見つめていた。
「話があるんです」
ストレンジを見つめたペッパーは、静かに告げた。すると、彼女が訪ねてくることは想定内だったのだろう。
「スタークのことだろ?」
そう言うとストレンジはペッパーを奥の部屋に連れて行った。
部屋に入ると、ストレンジはペッパーに座るよう促した。ソファーに腰掛けたペッパーは、挨拶もそこそこに本題を切り出すことにした。
「あ、あの!」
すると、ストレンジはペッパーを制した。
「分かっている。来た理由は分かっている。スタークに会いたい…。そうだろ?」
頷いたペッパーに、ストレンジは事情を説明させて欲しいと話し始めた。
「あの時、スタークはタイムストーンを使い未来を見た。そして4つの未来を見た。スタークから聞いただろ?君たちが生き延びるためには、たった1つの方法しかなかった。スタークは死を偽装するしかなかった。そこで、スタークを仮死状態にし、埋葬した。そして墓を掘り返した私は、スタークを生き返らせ、とある場所に彼を隠した。ストーンの力のせいで、スタークは死にかけていた。1カ月近く意識不明だったが、今は少しずつ快方に向かっている。だがな、眠っている間、スタークはいつもお前の名前を呼んでいた。今でも毎晩悪夢に襲われているようだ。だから目を覚ましたスタークに私は告げた。妻には事情を話せと…。だが、スタークはお前に話すなと頑なに拒否した。これ以上妻に苦労をかけたくないと…。生きていることを話せば、妻を苦しめることになると…。だが…それではスタークの心は救われない…だろ?」
大きく頷いたペッパーに、ストレンジは手を差し出した。
「では、行こう…」
ポータルを開いたストレンジは、ペッパーの手を取るとくぐった。
そこは、何処かの立派な屋敷のようだった。窓から見える光景は長閑で、アメリカ国内ではなさそうだ。
「何処なの?」
「スイスだ」
そう答えたストレンジは、とあるドアの前で立ち止まった。そしてペッパーの方へチラリと視線を送ると、ドアを開いた。
窓際にはベッドが置かれており、誰かが眠っていた。恐る恐る近づくと、それはトニーだった。
トニーの顔の右半分は酷い火傷で焼けただれており、右腕はなかった。
「トニー……」
トニーは生きている。ペッパーのたった一人の最愛の男性は、生きているのだ。ベッドサイドに跪いたペッパーは、トニーの左手を取った。彼の手の温もりが伝わってきた。彼は生きている…。生きていたのだ…。
ペッパーの目から大粒の涙が次々と零れ落ち、トニーの顔に降り注いだ。
すると、トニーがゆっくりと目を開いた。何度か瞬きをしたトニーは、ペッパーを見つめると、小さく笑みを浮かべた。
「これは…夢か?」
トニーの手を握りしめたペッパーは、首を振った。
「いいえ、夢じゃないわ…。夢じゃないのよ…トニー…」
ポロポロ泣くペッパーに、トニーの目からも小さな涙が流れた。
妻を抱きしめようと、起き上がろうとしたトニーだが、痛むのか呻き声を上げた。
「そのままでいいわ…」
夫を寝かせたペッパーは、もう一度彼の左手を握りしめると、左頬を愛おしそうに撫でた。ペッパーの手の温もりに、トニーはくすぐったそうに笑みを浮かべたが、自分の有様を思い出した彼は顔を顰めた。
「…酷い有様だろ?左目しか見えないし、右腕は失った。火傷の痕も……」
首を振ったペッパーは、トニーの右頬に触れた。
「あなたが生きていてくれた…。それだけで十分よ……」
例え姿形が変わっても、トニーは目の前にいるのだ。一度は失ったと思った最愛の人は、戻ってきてくれたのだから、こんなに嬉しいことはなかった。
が、トニーはまだ1人では動けそうにない程弱っている。となると、トニーはちゃんと誰かに世話をしてもらっているのだろうかと、ペッパーは急に不安になった。
「あなたの世話、誰かがしてくれてるの?」
そう尋ねると、トニーはドアの方へ視線を送った。するとタイミングよく、一人の年老いた男性が姿を現した。何処かで見覚えがある…。それは…。
「…スティーブ?」
トニーの葬儀で顔を合わせた時よりも、かなり年老いているが、それは確かにスティーブ・ロジャースだった。
「ペッパー…久しぶりだね…」
微笑んだスティーブは、ペッパーのそばまでやって来た。
「どうして…」
トニーとスティーブの間にあったことを考えれば、ペッパーが戸惑うのは無理もないだろう。小さく震えるペッパーに、スティーブは軽く頭を下げた。
「私はスタークのお陰で人生を全う出来た。愛する女性と結婚し、子供にも恵まれて…。だから、残りの人生は、スタークにお礼がしたいと思ったんだ。勿論、スタークが許してくれたら…と思っていたが…」
「私が生きていることは、極秘事項だ。それにキャプテンは、見た目通り本当に爺さんになったし、老い先短いだろ?私が元気になって一人で動けるようになる頃には、爺さんは墓場に行くだろうし…」
スティーブを遮るように口を開いたトニーだが、相変わらずの軽口に、スティーブは眉を釣り上げた。
「スターク」
トニーは肩を竦めると、ペッパーを見つめた。
「大丈夫だ、ハニー。スティーブとは和解した…一応」
トニーの面倒をスティーブが見てくれていることは分かった。スティーブのことだから、責任を持ってやってくれているのだろうということも…。
「でも……」
ペッパーはトニーを見つめた。もう二度と離れたくないというように、トニーの手をぎゅっと握った。するとトニーもペッパーの手を握り返した。
「ハニー…君が誰にも私のことを言わずに秘密にしておけるなら、時々来てもいいんだぞ?」
おちゃらけたようにそう告げたトニーだが、すぐに真剣な眼差しになった。
「君に会って…やっぱりそばにいて欲しいと思った」
囁くような声だったが、ペッパーも同じ気持ちだったので、大粒の涙を流した彼女は笑みを浮かべて頷いた。
「トニー……もう二度と、私のそばからいなくならないで…」
トニーに抱きついたペッパーは、泣き始めた。2ヶ月前は彼を失ったという悲しみの涙だった。だが今は、彼が生きていたこと、そしてこれからも自分のそばにいてくれることへの喜びの涙だった。トニーも左腕で妻の身体を抱きしめると、首筋にキスをした。
再会を喜び合う2人に気を利かせたスティーブとストレンジは、そっと部屋を後にした。
しばらくして顔を上げたペッパーは、涙を拭った。そして愛おしそうにトニーの頬を撫でていたが、ふと過ぎったのは最愛の我が子の姿だった。
「…モーガンには?あの子には…」
すると、トニーが辛そうに顔を歪めた。
「モーガンには…黙っておいてくれ…。あの子には…責任を負わせたくない…」
トニーの気持ちは分からないでもない。父親は死んだと、モーガンはようやく受け入れ始めたばかりだし、トニーが生きていることは絶対に秘密にしておかねばならないのだから、全てを理解させるには、彼女はまだ幼すぎるだろう。だが、モーガンもだが、トニー自身も何よりも大切にしていた娘と会えないのは、どんなに辛いことだろうか…。
「でも…あの子…パパに会いたいって、ずっと泣いてるのよ…。それにあなたも…」
ペッパーの言葉を遮るように、トニーは首を振った。
「当たり前だ。会いたいに決まってる。会って抱きしめてやりたいに決まってる。だかな、ペッパー…。モーガンはまだ小さい。だから…」
トニーが口を閉じた。涙を堪えるように鼻を啜った夫の手を、ペッパーは握りしめた。
「もう少し大きくなって…あの子が色々なことが分かるようになったらいいでしょ?」
そう言うと、トニーは黙って頷いた。
***
それからペッパーは週に一度か二度、トニーの元へ向かった。ペッパーの献身的な看病の甲斐もあって、2ヶ月後にはトニーは一人で動けるまでに回復した。
「モーガンが描いた絵よ。パパのお墓に持って行ってって言われたけど…お墓にあなたは眠っていないから…」
その日、ペッパーはモーガンが描いた絵や手紙を持って来ていた。
何枚もあるトニーの似顔絵には、『パパにあいたいです』と添えてあった。
愛おしそうに撫でたトニーの目から涙が零れ落ちた。
「それから…」
タブレットを出したペッパーは、動画を再生した。
庭をアルパカのジェラルドと共に走り回るモーガン、料理を手伝っているモーガン、ラボでトニーの真似をして遊んでいるモーガン…。
記憶の中にある娘より、少しずつ成長している姿に、トニーは涙が止まらなかった。
「会いたい?」
妻の問いに小さく頷いたトニーだが、悲しそうな笑みを浮かべた。
「いや…今はまだ止めておこう…」
涙を拭ったトニーに、ペッパーはタブレットと、そしてスマートフォンを渡した。
「私の番号しか入ってないわ。これからは毎日あの子の写真や動画を送るから。そうすれば、あの子に会えるでしょ?」
ペッパーの心配りに感謝したトニーは、それを大切そうにベッドサイドのテーブルの上に置いた。
トニーの頬に伝わる涙を拭いたペッパーは、甘えるように彼の胸元に顔を押し付けた。
「日曜まで出張ってことになってるから…。明後日までずっと一緒よ…」
妻の温もりに、トニーは心地よさそうに目を閉じた。
「しっかり看病してくれよ」
「そのつもりよ」
クスクス笑い始めたペッパーの笑い声さえも愛おしくなったトニーは、彼女を腕の中に閉じ込めると、キスをし始めた。
***
***
それから5年の月日が経った。
トニーは右腕に義手を作り、以前と同じように生活ができるようになっていた。
スティーブは117歳になったが、まだまだ健在で、相変わらずトニーにからかわれる日々が続いていた。
モーガンはもうすぐ10歳になる。そのため、ペッパーは月に二度三度、出張という名目で、トニーの元に通っていた。
が、出張から帰宅した母親はいつも嬉しそうで、出張先に何か楽しいことでもあるのだろうかと、モーガンは不思議に思っていた。
「ママね、いっつも楽しそうに出かけて行って、3日ほどしたら帰ってくるんだけど、気持ち悪いくらいニコニコしてるの。前は月一だったのに、先月なんか毎週いなかったのよ」
先月はトニーが風邪を引き寝込んでいたため、ペッパーは毎週通っていたのだが、そんな事情とは知らないモーガンは、不服そうに友達にこぼした。
「それって、いつからなの?」
すると、おませな友達が、モーガンに尋ねた。
「パパが死んでから」
そう答えたモーガンに、その友達はニヤリと笑った。
「恋人がいるんじゃないの?」
「え?」
目をパチクリさせているモーガンに、友達はモーガンの肩を小突いた。
「恋人の所に行ってるんじゃないの?モーガンのママ、若くて綺麗だし、やっぱり誰かそばにいて欲しいって思うんじゃないの?」
母親の恋人と聞いたモーガンは、顔色を変えた。つまり、父親ではない男性が新しい父親になるかもしれないのだ。
帰宅したモーガンはラボに向かった。
「パパ…」
写真を手に取ったモーガンは、父親の部分を撫でた。
4歳の時に死んだのだから、正直あまり父親のことは覚えていない。だが、断片的には覚えている。『モーグーナ』と呼ぶ声や、ブランコを押してくれたこと、一緒に大笑いしたこと、よくおんぶしてくれた大好きだった背中…。薄らとしか覚えていないが、父親は自分のことをいつだって愛してくれていた。
『3000回愛してる…』
それが父親の最後の言葉だった。あの日、出掛ける前に父親は、そう言いながらいつもよりも長く自分のことを抱きしめた。それが父親との最後の思い出だ。あの時の言葉だけは、鮮明に覚えていた。
「新しいパパなんかいらない…。あたしのパパは…パパだけだもん……」
モーガンにとっての父親は、トニー・スタークだけだ。たった一人の父親…。もう二度会うことのできない父親…。
写真を抱きしめたモーガンは泣いた。
父親が恋しくて、そして絶対に無理だと分かっているが、会って抱きしめて貰いたくて…。
暫くして、ペッパーが帰宅した。
「ただいま、モーガン」
いつものようにラボに篭っている娘だが、彼女は机に伏せて泣いていた。
「どうしたの?学校で何かあったの?」
慌てて娘の隣に腰掛けたペッパーだが、顔を上げたモーガンは涙を拭うと口を尖らせた。
「…別に…」
元気のない娘の様子が気になったペッパーは、彼女を放って明日からトニーの元に向かってもいいものかと迷った。
「本当に?明日から、ママ、また出張だけど、もしあなたが…」
と、モーガンは母親を睨み付けると叫んだ。
「出張?出張なんて嘘なんでしょ!恋人と泊まりに行ってるんでしょ?!出張ばっかりで、おかしいもん!ママはパパのこと、忘れちゃったの?愛してないの?」
「モーガン…」
急に不可解なことを言い始めた娘に、ペッパーは戸惑った。母親が困惑していることに気づいていたが、モーガンは止まらなかった。
「あたしのパパはパパだけだよ!ママは恋人と結婚したいかもしれないけど、あたし、その人のこと、パパって思えないから!」
ペッパーは目を丸くした。モーガンは勘違いをしている。どうしてそんなことを思っているのか分からないが、兎に角誤解を解かねば…と、ペッパーは慌てた。
「モーガン、違うわ。ママに恋人なんかいないわ。ママはパパのことを今でも愛してるし、パパだけのものだから…」
「じゃあ、どこに行ってるのか、説明してよ!」
「それは…」
トニーとの約束があるため、真実を話すことはできない。どう言えばいいのか考えていると、大粒の涙を流したモーガンは机を叩き立ち上がった。
「もういい!ママなんか大嫌い!!」
バタバタとラボを出て行ったモーガンに、ペッパーはため息を付いた。
結局ペッパーは、モーガンと喧嘩したままトニーの元に向かった。
「どうしたんだ?浮かない顔して…」
溜息ばかり付いている妻に、彼女の手料理を食べる手を止めたトニーは尋ねた。
「モーガンと喧嘩したの…」
しょぼくれているペッパーに、喧嘩の原因を知らないトニーは楽しそうに告げた。
「ママと喧嘩が出来る年になったのか」
はぁ…と溜息を吐いたペッパーは、夫を可愛らしく睨み付けた。
「ここに来てるのは出張だと言っていたんだけど、恋人がいるって疑われたわ。どこに行ってるか説明しろって言われたの」
ペッパーの言葉にトニーは顔を曇らせた。2人の喧嘩の原因は間違いなく自分にある。今までモーガンには隠してきていたが、いい加減隠しきれなくなったということだろう。
「ねぇ、トニー。そろそろあの子に会ってあげて。今のあの子なら、きっと受け止めてくれるから…」
が、トニーは苦しそうに顔を顰めた。
「だが…」
立ち上がったペッパーは、トニーの目の前にやってくると、彼の頬を撫でた。
「大丈夫…。あなたの娘よ…。きっと分かってくれるわ…」
翌朝。
出張に行ったはずの母親がリビングにいるのに気づいたモーガンだが、喧嘩中なのだから、母親を避けるように部屋に戻ろうとした。
「モーガン、話があるの」
母親に声を掛けられたが、モーガンは知らん顔をすることにした。
「忙しいから後にして」
「いいえ。大事な話なの」
真剣な眼差しの母親に、モーガンは足を止めた。立ち上がった母親は、モーガンのそばにやって来た。
「あなたに会わせたい人がいるの。ママだけじゃなくて、あなたにとっても大切な人よ…」
きっと『恋人』に決まっている…。
浮かない顔をしているモーガンは黙ったままだが、彼女を連れてペッパーはストレンジの家へ向かった。
出迎えてくれたストレンジは、最後に確認するようにペッパーに尋ねた。
「本当にいいんだな?」
モーガンをチラリと見たストレンジは、ペッパーを見た。
「えぇ。あの人と2人で決めたことだから」
ペッパーの力強い視線に、頷いたストレンジはポータルを開いた。
向こう側には見知らぬ場所で、モーガンはゴクリと唾を飲み込んだ。母親は一体誰に会わせようとしているのかと、不安が押し寄せてきたモーガンだが、ペッパーは娘の手を握りしめると、ポータルをくぐった。
見るからに高そうな調度品の置かれている立派な屋敷に、モーガンは珍しそうに辺りをキョロキョロしている。
暫く歩くと、両開きの扉の前に辿り着いた。扉をノックしたペッパーは、部屋に入った。
夕日の差し込む窓際に一人の男性が立っていた。
モーガンはドキッとした。その背中には見覚えがあったから…。幼い頃、大好きだった背中にそっくりだった。だが、そんなはずはない。何故なら『彼』はこの世にはもういないのだから…。
「連れて来たわよ」
ペッパーは優しい声で男性に声を掛けた。すると男性が振り返った。
それは…。
「パパ……?」
死んだはずの父親が目の前にいるのだ。
心臓がやかましい程鼓動を打ち、息ができなくなってきた。
目を見開いたままの娘に、トニーは呼びかけた。
「モーガン…」
間違いない。父親だ。トニー・スタークだ。
モーガンは震え出した。
父親は5年前に死んだのだ。それなのに、目の前に立っている男性は、間違いなくトニー・スタークだ。
しかも記憶の中にある父親よりも幾分老けている。髪にも髭にも白いものが多く混じり、顔の右側には火傷の跡もある。そして右腕はアーマーを装着しているのか、アイアンマンカラーの腕になっているではないか。
小さく震えるモーガンの背中に手を置いたペッパーは、そっと撫でた。
「モーガン、説明させて…。パパはね、生きていたの。事情があって、パパは死んだことにしておかなければならなかったの…」
(パパは死んでなかった?それならどうして私だけ知らなかったの?ママは知ってたのに?ママは出張だと言って、パパと会ってたの?事情があった?私には教えられない事情?どうして?どうして私には秘密だったの?私はパパにずっと会いたかったのに…)
モーガンの頭の中は大混乱。
父親が生きていたという喜びと、そして何故隠していたのかという悔しさと、そして黙っていた両親に対する怒りで、モーガンの目にはみるみるうちに涙が溜まり始めた。そして気持ちの持って行き場がなくなったモーガンは、両親に向けて怒りと悲しみをぶつけた。
「どうして?!どうして隠してたのよ!!ママは知ってたんでしょ?!それなのに、どうして私だけ知らなかったの?!私…パパが恋しくて…寂しくて仕方なかったのに!どうしてよ!!」
モーガンは泣きながらトニーに向かって怒鳴った。大粒の涙を流している娘の姿に、トニーとペッパーは胸が痛んだ。事情が事情だけに、幼い娘には秘密にしておこうと考えたのは、間違っていたのかもしれない。5年前、すぐにでも話しておくべきだったのかもしれない…。だが、今更5年前に戻ることは出来ないのだから、娘に許してもらおうと、トニーは頭を下げた。
「モーガン…すまない。本当にすまなかった。お前に5年間隠していたこと、本当にすまなかった。だが、お前を守るためだった。ママとモーガンを守るために、パパは死ななければならなかったんだ…」
「え……」
父親の言葉に、泣き止んだモーガンは顔を上げた。
『死ななければならなかった』とは一体どういうことなのだろう。5年前のあの日、一体何があったのだろうか…。
モーガンは話をきちんと聞いてくれそうだ。そう感じたトニーは、5年前の真実を話すことにした。
「5年前のあの日…、石を使う前にパパは未来を見たんだ。サノスに勝つ方法と、そしてパパとママとモーガンの未来を見た。パパは4つの未来を見た。だが、全てが上手くいくためには、一つしか方法はなかった。それは、パパが死を偽装するという未来だ。それ以外は…ママとモーガンが死ぬという未来しかなかった。ママとモーガンを死なすわけにはいかないだろ?パパはな…モーガンを守りたい…その一心だった。お前とママを守れるのなら、パパは自分が死んだことになってもいいと思った。ママとモーガンが幸せに暮らせるなら、パパはお前たちに会えなくても…寂しくても我慢しようと思った。だからパパは死んだことにした。お前たちと二度と会うまいと決めて…」
言葉を切ったトニーは、涙を隠すように下を向いた。
「だがな…パパはやっぱりママとモーガンに会いたかった。お前たちが恋しくて堪らなくなった。それに、もしパパが生きていることが、何かの拍子にバレたら?その時ママとお前が、パパ以外の人からその事実を聞いたら?…そう考えると、パパはやっぱり生きていることを知らせるべきだと考えた。そこでママには真実を話した。だがな、モーガン。お前はまた4歳で、きっと事実を受け入れるのは難しいだろと考えたんだ。モーガンを傷つけたくなかった。小さなお前に、秘密を守れと押し付けて、負担をかけたくなかった…」
トニーが顔を上げた。涙で濡れた瞳で、彼は妻と娘を見つめた。
「ママはずっとパパに言っていた。モーガンに会ってあげて…と。だが、パパが待ってくれと頼んでいたんだ。勿論、パパはモーガンに会いたくて仕方なかった。だがな…モーガンに会えば…パパは家に帰りたくなるに決まっている。そうすれば、パパが生きていることがバレて、ママとモーガンが危険な目に合うかもしれない…。そう考えると、お前には会う決心がなかなか付かなかったんだ。だからな、モーガン。ママを責めないでくれ。全てパパの責任だ。すまなかった…許してくれ…」
頭を下げる父親に、モーガンは胸が苦しくなってきた。
パパはママと私を守るために…自分は何もかも捨てて、死んだことにしたのだ。
それもママと私のため…。
パパはこの5年間、どんなに辛かっただろう…。この家から出かけることも、自由に外を歩き回ることも、今まで当たり前に出来ていたことが何も出来ない暮らしをしてきたのだから…。
モーガンは涙が止まらなかった。
どうしてパパはいつも一人だけ辛い目に合わなきゃならないのだろうか…と。
しゃくりあげながら涙を拭ったモーガンは、目の前にやって来た父親を見上げた。
風貌は違っているが、父親の瞳は記憶の中にあるものと同じだった。
「パパ……」
トニーがしゃがみ込んだ。目線を合わせた彼は、モーガンの頭を撫でた。
「モーグーナ…」
その呼び名は、父親だけが呼んでいたものだった。懐かしい父親の声と温もりに、顔を歪めたモーガンはトニーに抱きついた。
「パパ…パパ………」
声を上げて泣き続けるモーガンを、トニーも泣きながら力強く抱きしめた。
父と娘は抱き合い泣き続けた。
5年ぶりの再会を喜び合った。
ペッパーも涙が止まらなかった。ようやく家族3人が再会できたのだから…。
暫く抱き合っていた3人だが、モーガンが泣き止んだのを皮切りに、ソファーに移動した。
モーガンは話した。もし父親に会ったら話したいと思っていたことを全て…。
学校であったこと、母親とした楽しいこと、ダミーとユーのこと、アルパカのジェラルドのこと……。モーガンの話は尽きなかった。楽しそうに話をする娘を、トニーも笑顔で相槌を打ちながら聞いた。
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい、気づけば外は真っ暗になっていた。
「モーガン、そろそろ帰りましょ?」
時計の針は深夜1時を指しており、NYも19時を回ったところだ。
明日は月曜日だ。いい加減に帰らなければ、またいつもの日常が始まる。
父親と離れたくないと口を尖らせたモーガンは、甘えるようにトニーに抱きついた。
「ねぇ、パパ。週末はお泊まりしてもいい?」
離れたくないのはトニーも同じだったので、娘を抱きしめた彼は寂しそうに頷いた。
それから月に2、3度、ペッパーとモーガンはやって来た。毎日メールや電話をしたが、やはり父親と毎日一緒にいたいと考えたモーガンが、
「ママ、あたしね、考えたの」
と、母親に切り出したのは、あの再会の2ヶ月後のことだった。
「ここに秘密の部屋を作って、パパにはそこで暮らしてもらうっていうのはどう?そうしたら、毎日パパと過ごせるわ。ママだって本当はパパと毎日会いたいでしょ?パパもそうよ」
娘の提案…それはペッパーも以前から考えていたことであり、何度かトニーにも告げたことがあった。だが、トニーは首を縦に振らなかったのだ。
娘の提案なら、トニーも考え直してくれるかもしれないと、淡い期待を抱いたペッパーは、モーガンを連れて、トニーの元に向かった。
モーガンは自分のアイデアをトニーに話した。が、トニーは浮かない顔をしたままだ。
「パパ、どうしたの?」
黙ったままの父親に、モーガンは首を傾げた。良いアイデアだし、父親も賛成してくれると思っていたのに、どうやら違うようだ。
悲しそうな顔をした娘に、トニーは小さく首を振った。
「モーガン。ありがとな。お前がそんなことを考えてくれていたなんて、パパは嬉しいよ。勿論、パパもモーガンとママと暮らしたい。だがな、パパは死んだ人間だ。もし誰かに姿を見て見られたら?パパが生きていることが分かったら、お前たちが危険なんだ。だから、それはできないんだ…。すまない…」
涙目になっている父親にモーガンはハッとした。今の状況が一番辛いのは父親なのだと…。そこで、首を振ったモーガンは父親に抱きついた。
「ごめんない、パパ。パパの気持ち、分かってなくて、ごめんなさい。でもね、クリスマスのお休みは、ここに泊まっていい?」
娘を抱きしめたトニーは、背中を撫でると頷いた。
「もちろんだ。パーティをしよう。モーガンとママとパパの3人で…」
5年ぶりに家族で過ごすクリスマスに、モーガンは大はしゃぎだった。トニーはスティーブに頼んで大きなクリスマスツリーを用意していたし、プレゼントも用意していた。
『じいさんなんだから丁度いい』と、スティーブにサンタクロースの格好をさせて登場させたのだから、これにはペッパーとモーガンも苦笑いするしかなかった。そのスティーブも参加して、パーティーは夜遅くまで続いた。トニーもだが、スティーブも久しぶりに楽しいクリスマスを過ごすことができた。
ペッパーとモーガンは年明けまでトニーの家で過ごし、モーガンは『スティーブおじいちゃん』と呼び、彼とすっかり仲良くなった。
***
こうして、3人は限られた時間の中で沢山の思い出を作った。
が、モーガンが15歳になった年、スティーブが亡くなり、トニーは一人になってしまった。トニーも60をとうに超えており、ペッパーもモーガンも彼を一人にしておくという状況が気になって仕方なかった。そこで、2人はトニーを家へと呼び戻すことにした。
トニーは最後まで渋っていた。誰かに姿を見られれば、この11年間が全て水の泡になるのだから…。だが、自分自身も一人でいるのは不安だったし、何より限られた残りの人生を妻と娘と暮らしたいという思いには勝てず、トニーは11年ぶりの我が家に戻ってきた。
外に出ることはできないが、毎日家族で食卓を囲むことが出来た。休みの日には庭で遊ぶことも出来た。
この11年間を埋め合わせるように、トニーはペッパーとモーガンとの思い出を作った。
17歳になったモーガンはMITに入学し、家を離れボストンで一人暮らしを始めた。
「何だか懐かしいわね。2人きりの生活って…」
嬉しそうに抱きついてきた妻を、トニーも笑みを浮かべて抱き寄せた。
17年ぶりの2人きりの生活。モーガンもよく戻ってはきていたが、夫婦水入らず暮らしは、平穏な日々そのものだった。あの頃のように、何処かに出掛けることは出来なかったが、誰にも邪魔されることのない2人きりの時間を、トニーもペッパーも心から楽しんだ。
モーガンは20歳になった。
来年には卒業し、LAに戻り、スターク・インダストリーズで働くことになっている。
「パパとママへのプレゼントも買ったし、早くクリスマス休暇にならないかな…」
モーガンは指折り数えてクリスマスを待っていた。今年はとびっきりのクリスマスにしようと決めていたから…。
その頃…。
トニーの様子がおかしい。息苦しそうだし、食欲もないのか、以前よりも少しだけ痩せてしまった。
もうすぐクリスマス。3日後にはモーガンがボストンから戻ってくる。リビングには大きなクリスマスツリーが飾られ、いつものようにクリスマスの準備を行なっていたペッパーだが、トニーは座り込んでいることが多いため、彼女は夫の体調が心配で仕方なかった。
その日の朝も隣で眠るトニーはなかなか起きない。
「トニー、起きて」
何度か揺さぶると、トニーはだるそうに目を開けた。
「トニー、大丈夫?」
ここ数週間、辛そうなトニー を見る度に、何度もそう尋ねていたが、トニーはいつも大丈夫だと笑っていた。だが、今朝のトニーはいつも以上に具合が悪そうだ。不安げな妻に気づいたトニーは、
「あぁ、大丈夫だ。私はいつだって元気だぞ?」
と言いながら起き上がると、バスルームへと向かった。
ペッパーは不安でたまらなかった。
ストーンを使った影響は彼の身体を蝕んでおり、心臓が弱っていると16年前にストレンジから宣告されていたからだ。今までは発作など起こることもなく順調だったが、彼の体調が悪いのはそのせいかもしれないと、ペッパーはずっと考えていた。
一度病院で検査をしてもらおうと提案したが、トニーは拒んだ。自分は16年前に死んだ人間だ。だから病院へは行けないと、トニーは頑なに拒んでいたのだ。
「トニー、もし何かあったら、すぐに電話してね」
何度も念押ししてクリスマスの買い物に向かったペッパーを見送ったトニーは、いつものようにラボに篭った。
確かに体調が悪いのは一番自分が分かっていた。だが、この家から出ることはできない。
ましてや、ペッパーとモーガン以外の他人に会うこともできないのだ。F.R.I.D.A.Y.に診断させようかとも考えたが、病状が分かったところで、病院で治療を受けることは出来ないのだからと、トニーは何もしなかったのだ。
だが、今日は朝からいつも以上に気怠くて堪らない。
異様に喉が乾き、何か飲もうと立ち上がったトニーだが…。
ズキン!
心臓を鷲掴みにされたように猛烈な痛みが襲い掛かった。
あまりの痛さに胸元を掴んだトニーだが、叫び声を上げるとその場に崩れ落ちた。
『ボス!』
F.R.I.D.A.Y.が悲鳴のような声を上げた。ダミーとユーも、ピーピーと叫びながら慌ててそばにやって来た。
「だ、大丈夫だ…」
そう答えたトニーだが、息ができなくなり喘ぐように呼吸をした。が、痛みは逆に酷くなり、その場でのたうち回ることしかできない。
ペッパーに電話をしたいが、携帯電話は机の上で、届かない。
必死に手を伸ばしたトニーだが、彼の意識はそこで途絶えた………。
トニーが倒れたとF.R.I.D.A.Y.から連絡をもらったペッパーは、大急ぎで家に戻った。ラボに向かったペッパーは床に倒れているトニーに気づくと悲鳴を上げた。
「と、トニー !!!」
慌てて駆け寄ったペッパーはトニーの身体を起こした。真っ青な顔をしたトニーは気を失っており、救急車を呼ぼうとしたペッパーだが、病院に搬送することはできないのだ。
「ど、どうしよう……」
パニックになったペッパーはどうすればいいのか分からず、泣き始めた。
F.R.I.D.A.Y.も、病院へ連絡しようとしたが、主人から何があっても連絡するなときつく言われているのだから、どうすることもできず、何か良い案はないかと必死で考えた。
と、その時、ペッパーの脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
「そうだわ…」
確かトニーの携帯に連絡先があったはず。
自分たち以外に、トニーのことを知っている男…。もしも何かあればと、トニーの携帯には自分とモーガンとその男の番号しか入っていないのだ。
男はすぐにやって来た。ストレンジだ。彼は医者の顔をしており、心臓発作を起こしたトニーを寝室に運んだ。
「少し待ってろ」
そう言うと、ストレンジはモニターや点滴など医療器具を山程持って戻って来た。
「何処から持ってきたかは聞くな」
そう言いながら、トニーに手早く処置を施したストレンジは、暫く様子を診ていたが、
「しばらくはこれで大丈夫だ。安静にしておけ。また様子を見にくる」
と言い残すと、姿を消した。
翌日、トニーは目を覚ました。
「トニー…」
安心したように息を吐いたペッパーに向かって、トニーは少しだけ笑みを浮かべた。そして、彼は妻の考えを読んだのか、静かに首を振った。
「ペッパー…もう…十分だから…。16年…君たちのそばに…いることができた…。ありがとう……ペッパー…」
連絡を受けたモーガンは、1日早く戻って来た。
「パパは?」
泣き出しそうな娘を連れて、ペッパーは寝室へと向かった。
トニーは眠っていた。青白い顔をした父親は、酸素マスクを付けており、モニターの音が静かに部屋に響き渡っていた。
「パパ……」
ベッドのそばに跪いたモーガンは、父親の手を握りしめた。この間帰ってきた時よりも、父親は痩せており、そんな父親の姿にモーガンの目から涙が零れ落ちた。
「パパは…心臓が弱ってて…。16年前のあの時からずっと…。今までは持ち堪えていたけど…」
母親の言葉にモーガンは立ち上がった。
「病院へ…パパを病院へ連れて行かなきゃ!」
だが、ペッパーは首を振った。
「パパがね…望んでないの。パパは…自分は16年前に死んだ人間だ…だから、もういいって…。16年間、トニーは頑張ってくれたんですもの…。だからね、モーガン…。パパのこと…ゆっくり眠らせてあげましょ?」
泣き出しそうな母親に、モーガンは食いついた。父親には元気になってもらい、もっと沢山の時間を共に過ごしたいから…。それに母親もそう思っているはず。
「ママは…いいの…?ちゃんと治療したら…パパは元気になるはずよ?」
「ママは…パパの思う通りにさせてあげたいの…。パパがここまで頑張ってくれたのは……ママとモーガンのそばにいるためよ…。だからね…もうトニーには…これ以上…無理をして欲しくないの…」
母親の目に大粒の涙が浮かんだ。必死で涙を堪えている母親に、モーガンは父親と母親の意思を尊重すべきだと感じた。
「モーグーナ…」
か細い声に振り返ると、目を覚ましたトニーが手を伸ばしていた。
涙を拭い、モーガンはその手を握りしめた。
「ただいま、パパ」
「おかえり…。モーガン…せっかくのクリスマスだ……だから…泣くなよ…」
娘の頬に残った涙を拭ったトニーは、笑みを浮かべた。
2日後のクリスマス。
容態も落ち着いたトニーは、いつものようなクリスマスを過ごすことができた。
家族で食卓を囲み、プレゼントを開け…。
モーガンは両親へのプレゼントとして、名前入りのワイングラス、そして両親が結婚した年の2018年製のワインを用意していた。
娘からのプレゼントにトニーは目を潤ませた。
「来年のクリスマスには、モーガンも飲める年齢になるだろ?だからこれは来年3人で飲もう」
そう笑ったトニーを見つめながら、来年も父親とクリスマスを過ごせますように…とモーガンは祈った。
年が明け、トニーはすっかり元気を取り戻した。そのため、なかなか帰ろうとしない娘に、トニーは笑いながら告げた。
「大丈夫だ、モーガン。パパはしぶといから、まだ頑張るぞ。それに、クリスマスにはお前がくれたワインを飲まないといけないだろ?だから大丈夫だ。心配するな」
そう言いながら送り出してくれた父親にキスをしたモーガンは、後ろ髪惹かれる思いでボストンに戻った。
それからモーガンは月に一度は帰ってきた。出来るだけ父親と過ごしたいと…。家族で沢山話をした。トニーも娘に出来るだけ伝えようと、自分の昔の話もしたのだが…。
「トニーったら、そんなことがあったの?!」
ペッパーですらも知らない話も多くあったため、彼女はその度に目をくるりと回して溜息をついた。
だが、段々と痩せていく父親に、モーガンは不安で仕方なかった。今度こそ、本当に父親との別れなければならない時が、刻々と近づいているのだから…。
卒業を控えて2ヶ月戻れなかったモーガンが家に戻ってきたのは、5月中旬だった。
が、すっかり弱ってしまったトニーは殆ど眠ったままで、鼻に酸素のチューブをつけられ点滴で何とか生きながらえている状態だった。
痩せ細った父親の姿に、モーガンは涙が止まらなかった。
(もっと早く帰ってくればよかった…)
電話越しで母親から毎日父親の様子は聞いていたし、時折父親とも画面越しに顔を見ながら話をしていたが、それはトニーが元気な時に行っていただけであって、実際は病状はもう手の施しようのない程進行していたのだ。
「パパがね、モーガンには元気だと言えって…。卒業に向けて一人で頑張っているあなたに、余計な心配掛けたくないって…。パパ…あなたのことばかり言ってたのよ」
母親にそう教えられたモーガンは、母親に抱きつくと声を上げて泣いた。泣きじゃくる娘を、ペッパーも泣きながら抱きしめた。
「パパ……」
モーガンが手を握り呼びかけると、トニーは目を覚ました。
「モーグーナ……」
嬉しそうに目を細めたトニーに、モーガンは謝った。
「パパ…ごめんね。もっと早く戻ってきていればよかった…。もっとパパのそばにいてあげれば…」
トニーは首を振ると、娘の言葉を遮った。そしてゆっくりと手を伸ばしたトニーは、彼女の頭を撫でた。まるでモーガンがまだうんと小さかった頃のように…。父親の手の温もりに、モーガンは顔を歪めると泣き始めた。するとトニーはモーガンを抱き寄せた。トニーに抱きつきモーガンは泣いた。そんな娘の背中を、トニーはゆっくりと撫で続けた。
モーガンはつきっきりで父親を看病した。眠っていることの方が多かったが、父親が目を覚ましている時は、ずっと手を握りそばにいた。モーガンが一方的に話すことの方が多かったが、トニーはいつも嬉しそうに娘の話を聞いていた。
モーガンが戻ってきて1週間後。
今日はトニーの誕生日だ。
昨日からトニーは眠ったままだったが、今日は誕生日なのだから、起きていたら細やかなパーティーをしようと、モーガンは様子を見に寝室へと向かった。すると、トニーは目を覚ましていた。
「パパ、お誕生日おめでとう」
椅子に腰掛けたモーガンは、父親に向かって笑顔を向けた。何度か瞬きしたトニーも、少しだけ笑みを浮かべた。
「何か欲しいものがある?」
そう尋ねたモーガンだが、首を振ったトニーはゆっくりと左手を伸ばした。
力強かったはずの父親の手はすっかり細くなっており、モーガンが握ると力なく握り返してきた。
暫く娘の姿を見つめていたトニーだったが、大きく深呼吸をすると、口を開いた。
「モーガン……ママのこと……頼むぞ……」
父親の澄んだ瞳にモーガンは悟った。父親とはもうすぐ永遠の別れを告げなければならないことを…。
「パパ…」
顔をクシャッと歪めたモーガンの目に涙が溜まり始めた。
娘の涙に、トニーは16年前のあの日を思い出した。あの時は、娘に別れの言葉を告げることも出来なかった。娘に直接言葉を残すことも出来ず、永遠の別れを告げなければならないところだった。だが、今度は伝えられる。娘への言葉を…。
トニーは娘に向かって微笑んだ。
「モーガンが…戻ってくるまで…頑張るって…決めてたんだ……。これで…ペッパーは……ママは……ひとりぼっちじゃ…ないだろ…」
ふぅと小さな息を吐き出したトニーは、目を閉じた。
「パパはもう…思い残す…ことは…ない……。ペッパーには…モーガンがいる……。だから…」
再び息を吸いこんだトニーは、目を開けるとモーガンを見つめた。
「モーガン………ありがとう……。パパが作った…最高のものは……お前だ…」
父親の言葉…それは遠い昔、父親の父親…つまり祖父が父親に残した言葉と同じだった。
『パパはな、父親…つまりモーガンのおじいちゃんに、直接愛してるとかそんなことを言われたことがない。だからずっと愛されてないと思ってたんだ。だがな、おじいちゃんはパパにメッセージを残してくれていた。『私が作った最高のものは、お前だ、トニー』って…。おじいちゃんが死んで何十年も経った後に、そのメッセージを聞いた。だがな、それを聞いても、パパは素直になれなかった。それからパパもモーガンのパパになって、ちょっとずつおじいちゃんの気持ちが分かるようになった。おじいちゃんは不器用な人間だったが、パパのことを愛してくれていたって、ようやく認めることができたんだ。でも、ちゃんと伝えてくれないと、子供には分からないだろ?だからな、パパはモーガンが生まれた時に決めたんだ。愛してるとちゃんと伝えようって…』
いつだったか、父親はそんな昔話をしてくれた。
父親はいつだって大っぴらげに愛情表現をしてくれた。うんと小さい頃から、言葉や態度でも分かりやすく…。だがそれ以外に、父親は心の底から本当に自分のことを愛してくれているということは、身に染みて分かっていた。16年前、『トニー・スターク』という存在を世間から消してまで、自分と母親のことを守ってくれたのだから…。
「パパ……。パパはね、世界一…ううん、宇宙一のパパよ。カッコよくて強くて優しくて…最高のパパよ…。パパ、ありがとう。ずっとそばにいてくれてありがとう…」
ポロポロと大粒の涙を流したモーガンに、小さく笑みを浮かべたトニーは、何度か辛そうに息を吐いた。
「モーガン……ペッパーを……」
モニターの波形が乱れ始め、目を見開いたモーガンは、立ち上がった。
「ママ!ママ!!!」
ドアを開け叫ぶと、ペッパーが慌てて部屋に飛び込んできた。
「パパが……」
娘の言葉にペッパーはモニターを見た。今やそれは微弱なものとなっており、ペッパーはトニーに駆け寄ると、手を握りしめた。
「トニー………」
トニーが微睡んだ瞳をペッパーに向けた。
「ペッパー……」
掠れた声で呟いたトニーは、目を真っ赤にした妻を見つめた。
思い残すことはない。自分に死が迫っていると悟ったこの半年、ペッパーとは沢山話をした。だからペッパーには、自分の思いとそして最後まで我が儘を聞いてくれたことへの感謝の気持ちは全て伝えたのだから…。
トニーが微笑んだ。16年前のあの時と同じ…いや、あの時以上に安らかな笑顔で…。
「ペッパー……ありがとう……。愛してる……ずっと……」
あの時と同じように、トニーは繋いだ手を自分の胸元に置いた。
「トニー……私こそ、ありがとう…。ずっと頑張ってくれて…ありがとう……。愛してるわ…。これからも永遠に……」
にっこり笑ったペッパーの目から涙が零れ落ちた。
トニーの唇にキスをしたペッパーは、夫の頬を撫でた。
「私が行くまで、浮気しないで待っててね…」
するとトニーは、少しだけ眉をつり上げてみせた。
「そんなもの…するもんか…。私には…君だけ……。…急いで……来るなよ……」
トニーの目蓋が閉じ始めた。
「モーガン……」
消えそうな声で囁いた父親と母親の手を包み込むように、モーガンは自分の手を重ねた。
「モーグーナ…3000回…愛してる……」
「パパ…私も3000回愛してるわ…」
小さく頷いたトニーが、息と共に囁いた。
「ペッパー…………」
妻の名前を最期に口にしたトニーが、ふぅと息を吐いた。そしてゆっくりと目を閉じたトニーの手から力が抜けた。
妻と娘の手を握りしめたまま、トニーは息を引き取った。
笑みを浮かべたままのトニーの頬をペッパーは触れた。
「トニー…私たちは…大丈夫よ…。だから、今度こそ…ゆっくり眠って…」
そう囁いたペッパーは、トニーの身体に縋り付くと泣いた。
***
トニーの遺体は、空っぽだった棺に納められた。
16年前、この場でトニーを見送った時、悲しみと後悔しかなかった。
だが、今は違う。勿論悲しみもあるが、トニーと過ごした思い出は十分すぎる程あるのだから…。
トニーの好きだったひまわりの花束を置いたペッパーは、墓標に刻まれた『2023』という数字を撫でた。
「トニー、ゆっくり眠ってね…。この間も言ったけど、私とモーガンは大丈夫…。だって、私たち家族だけの秘密の16年間の思い出があるんだから…」
すると、何処からともなく声が聞こえた。
『愛してるよ、ペッパー』
トニーの声ににっこり笑ったペッパーは、立ち上がると少し離れた所で待っているモーガンの元へと歩き始めた。